浮き上がった車輪が、こちらの顔面めがけて一直線に飛んできた。
反応できたのは、ほとんど偶然だった。いや、偶然というより、バーゲストが間に合ったからだ。銀の刃が横から走り、金属の輪を叩き割る。砕けたスポークが火花を散らし、遊歩道の柵へ突き刺さった。
「下がってください!」
鋭い声に、俺は半歩どころか三歩は後ろへ飛んでいた。言われる前にそうすべきだと、遅れて身体が理解したのだ。さっきまでのムジナの攻撃は、せいぜい周囲の物を飛ばしてくる程度に見えていた。違う。目を合わせた相手や物体を操る。その能力を、こちらの理解が追い越す前に押しつけてくる類の敵だ。
ムジナは、やはりだるそうに立っているだけだった。
肩の力も抜けている。髪をかき上げる仕草ひとつ取っても、緊張とは無縁に見える。だが、その目だけはまるで別の生き物みたいに濃かった。視線が合う。まずい、と思う。思った瞬間、川沿いの案内板が浮く。次に、ベンチ。植え込みの縁石。視界に入る物が、順番に“こちらを狙うもの”へ変わっていく。
「視線を切ってください!」
バーゲストがもう一度叫ぶ。分かっている。分かっているのに、目を逸らした先の物まで飛んでくるから、完全には切れない。見れば罠。見なければ死角から殺意。最悪の二択だ。
そこで、川の水面が不自然に揺れた。
風でもない。魚が跳ねたわけでもない。もっと重い。底の方で、何かがのたうっているような、嫌なうねりだった。俺がそれに気づいた時には、ムジナが小さく笑っている。
「そろそろ、こっちの方がいいかな」
軽く言って、指先を水面へ向けた。次の瞬間、川が割れた。
水飛沫が弾け、黒っぽい巨大な塊が姿を現す。最初に見えたのは、無数に並ぶ歯だった。獣というより、寄せ集めの鉄と肉を無理やり一つの形へしたような異形。胴は太く、背には不揃いな棘が並んでいる。歩くというより、川縁を押し潰しながら這い上がる。目は小さいのに、その分だけ口の大きさが異様だった。
怪獣。
そう呼ぶしかないものが、朝の遊歩道へ現れた。
「は……?」
声が間抜けに漏れる。だが、それ以上の言葉は出なかった。怪物の質量が、現実感そのものを踏み潰してくる。バーゲストが剣を構え直す。ムジナはその後ろで、面倒くさそうにまぶたを半分だけ下ろした。
「見てみたかったんだよね」
誰へ向けた言葉かは、ほとんど明らかだった。
「あなた、どこまで強いのかなって」
バーゲストだ。
その瞬間、頭の中で嫌な線が一本つながる。こいつは、今この戦場そのものを“観察の場”に変えている。俺たちがムジナについての問題を解くために戦っているのと同じように、向こうもまた、バーゲストについて何かを探っている。
バーゲストは返事をしなかった。代わりに地を蹴る。銀の軌跡が、這い上がった怪獣の顎へ叩き込まれる。凄まじい音がした。鈍いのに高い。巨大な骨へ鉄塊を打ちつけたような音だ。怪獣の頭が横へ弾かれ、水と泥が飛び散る。
けれど、それで止まらない。
怪獣は川縁を削りながら身体を持ち上げ、そのままバーゲストへ頭ごと噛みつきにいく。バーゲストは正面から受けた。剣を噛ませ、もう片方の腕で牙の根元を押し返す。信じられない力比べだった。地面が悲鳴を上げ、舗装が罅割れ、バーゲストの足が数センチずつ沈む。
真正面から、押し返している。
目が離せない。いや、離してはいけない。だけど、見ていると嫌な確信が濃くなっていく。
ムジナの狙いは、俺じゃない。少なくとも今は。バーゲストが“何者か”を、戦わせて暴こうとしている。怪獣なんていう分かりやすすぎる力の塊をぶつけてきたのも、そのためだ。視線や物体操作だけで削り殺すなら、もっとやりようはあったはずなのに、わざわざ怪獣を出した。つまり、バーゲストの戦い方を見たいのだ。
主戦闘様式。
あるいは、本質的属性。
どちらか。
スマホが、手の中で微かに震えていた。画面を開けば、こちらの問題が並んでいる。
――対象契約体の本質的属性を特定せよ
――対象契約体の能力発動条件を特定せよ
――対象契約体が現在の所有者へ従う理由を特定せよ
こっちの問題はムジナ。
向こうの問題は見えない。だが、見えないからこそ、行動から逆算できる。
「バーゲスト!」
叫ぶと同時に、怪獣の顎が閉じる。バーゲストは噛み合わせの中へ剣を差し込み、無理やり開かせた。筋肉の束のような首が唸る。そこへさらに横から振り抜く。銀の剣閃が怪獣の頬を裂き、黒い液体が路面へ飛び散った。
「聞こえています!」
返事が飛ぶ。あの状況で、ちゃんと俺の声を拾う。
「向こう、あんたの戦い方を見てる!」
「承知しています!」
「多分、主戦闘様式か、本質を探ってる! 力押しばかり見せるな、見せたいものを選べ!」
「選ぶ余裕があるなら、そうしています!」
その言葉通り、余裕のない戦いだった。怪獣は重い。雑に見えるくせに、動きのひとつひとつが質量で成立している。バーゲストは正面から受け止めるしかない。かわし切るには広さが足りないし、背後には俺がいる。つまり、彼女はどうしても“前へ出て押し返す”戦い方になる。
それがムジナの狙いだとしたら、嫌になるほど上手い。
ムジナは少し離れたところで、その光景をじっと見ている。面白がるでもなく、退屈でもなく、ただ“知りたいものを見ている”目だ。隣の契約者が何か言っているが、半分くらいしか聞いていない顔をしている。興味の中心は、あくまでバーゲストの方だ。
怪獣の尾が薙ぐ。バーゲストが身体ごと受け流す。折れた街路樹が飛ぶ。ベンチがひしゃげる。遊歩道の石畳がまた砕ける。
このままじゃ、押し負けるか、周囲の被害が先に広がりきる。
考えろ。
問題。ムジナの能力発動条件。今、はっきりしていることは何だ。
視線だ。
目が合った時。
物体も、相手も、彼女が“見ている”間に動く。
けれど、それだけならまだ荒い。怪獣はどうだ。あれも視線で操っているのか? もしそうなら、ムジナは怪獣とバーゲストの戦いから目を切れないはずだ。実際、そうなっている。こちらへ意識を割いているように見えても、中心はずっとバーゲストだ。視線の芯が外れない。だからこそ、怪獣の動きも鈍らない。
なら、怪獣そのものは“持ち込んだ駒”で、操作は視線経由。
目を切らせれば、怪獣も一瞬止まる可能性が高い。
「バーゲスト!」
「はい!」
「怪獣そのものより、ムジナから視線を外させる! あいつが見てる間だけ、動きがつながってる!」
バーゲストが怪獣の牙を弾きながら、ちらりとムジナを見る。ほんの一瞬だ。だが、それで十分だったらしい。
「……なるほど」
低く、確信に近い声。
次の瞬間、バーゲストは怪獣へ正面から踏み込んだ。剣を深く沈めるのではなく、わざと胴の横を裂いて大きく血飛沫を上げる。黒い液体が高く散る。その飛沫が、ちょうどムジナの視界へかかる角度だった。
「うわ」
初めて、ムジナの声に嫌そうな色が混じる。反射で顔が逸れる。ほんの一瞬。ほんの一瞬だけだ。
だが、それで十分だった。
怪獣の動きが止まる。
完全停止ではない。だが、“繋がっていた動き”が切れた。関節がどこか不自然にたわみ、噛みつきの軌道がずれる。命令線を失った機械みたいな、一拍の空白。
バーゲストはその一拍を逃さなかった。剣を逆手に持ち替え、怪獣の下顎から真上へ力任せに斬り上げる。凄まじい衝撃音と一緒に、巨体が後ろへ仰け反った。
俺のスマホが、そこで強く脈打つ。
画面を見なくても分かった。けれど、見た。
――対象契約体の能力発動条件を特定せよ
――CLEAR
喉の奥が熱くなる。
「……取った」
小さく漏れた声に、ムジナが顔を上げた。飛沫を袖で拭いながら、こちらを見る。そこで初めて、あの気だるい顔にほんの少しだけ驚きが混じった。
「へえ」
低い声だった。
「そこ、気づくんだ」
バーゲストは怪獣と対峙したまま、剣を構え直す。呼吸は荒い。けれど、さっきまでより明らかに押されていない。相手の条件が一つ見えた。それだけで戦場の形が変わる。
俺はスマホを握りしめる。
残る問題は二つ。
本質的属性。
現在の所有者へ従う理由。
そして、向こうもきっとまだ探っている。バーゲストの何かを。
だが、少なくとも一つは先に抜いた。
怪獣が、切れた動きのまま喉を鳴らす。ムジナの目がまた細くなる。今度はもう、気だるげなだけの女には見えなかった。
「じゃあ、次です」
その声と一緒に、怪獣の爪がもう一度地面を抉った。