怪獣の爪が、もう一度地面を抉った。
抉れた舗装が跳ね上がる。砕けた石片が散弾みたいに飛び、俺は反射で腕を上げた。頬に小さな痛みが走る。掠っただけだ。だが、怪獣の質量と勢いは、見た目以上に厄介だった。バーゲストが正面から受け止めていなければ、遊歩道ごとひっくり返されていてもおかしくない。
スマホの画面には、緑へ変わった二問目がまだ残っている。
――対象契約体の能力発動条件を特定せよ
――CLEAR
取れた。そこまでは良い。
問題は、この先だ。
残るのは二つ。
――対象契約体の本質的属性を特定せよ
――対象契約体が現在の所有者へ従う理由を特定せよ
前者は、一見すると簡単に見える。人間。超能力者。それだけなら、もう半分は答えが出ている気さえする。だが、MEDESが問う「本質的属性」は、たいてい表面的な肩書きより一段深いところにある。バーゲストの時だってそうだった。ただの剣士でも、ただの怪物でもなかった。黒犬の妖精であり、牙の氏族であり、騎士としての名を冠する存在だった。
ムジナも同じだ。単なる「目を合わせた相手を操る女」で終わるはずがない。
そして、もう一つ。所有者へ従う理由。
こっちはもっと厄介だ。気だるげで、興味がなさそうで、それでいて“受け入れてほしい”みたいな言葉を平気で使う。さっきの一言だけでも、あの女の中身は相当ねじれている。だが、だからこそ、こっちが今すぐ答えを断定するのは危うい。見たもの以上を勝手に足すと、MEDESはそこを容赦なく外してくる。
考えろ。
バーゲストは前で怪獣を抑えている。ムジナの視線を切らせれば怪獣の挙動は鈍る。それは分かった。だが、それだけで勝てるほど甘くない。向こうも今の一手で、こちらが一問抜いたことを察したはずだ。次はもっと隠してくる。見せたくないものほど、露骨に護る。
それなら、護らせればいい。
「バーゲスト!」
声を張る。銀の刃が怪獣の横腹を裂き、黒い飛沫が上がる。その向こうで、バーゲストの目だけがこちらへ向いた。
「次は、ムジナ本人の反応を取りにいく! 怪獣だけ見てると駄目だ!」
「承知しました!」
返答は短い。だが、こっちの意図を汲むのは早い。
バーゲストは怪獣の顎を剣で受け流し、そのまま踏み込む軸をずらした。今までは怪獣と真正面から噛み合っていた重さが、一瞬で別の向きへ変わる。正面突破の圧を、あえて外へ逃がす動きだ。その巨体でそんな器用なことができるのかと、改めてぞっとする。
怪獣が追う。ムジナも目を切らない。つまり、三者の位置が少しずつずれていく。怪獣を盾にしていたはずのムジナと契約者が、逆に怪獣の死角へ押し出される形だ。
ムジナが、そこで初めて眉を少しだけ寄せた。
「……あ、そっち?」
だるい口調のままなのに、視線だけが鋭くなる。その瞬間、周囲の物まで一斉に浮いた。街路樹の折れた枝、案内板の破片、ベンチの脚。全部だ。目の前の怪獣だけじゃなく、視界に入るもの全てを兵器にして押し潰しにくる。
バーゲストは止まらない。飛来物の軌道を剣で弾き、鎧で受け、怪獣の肩を踏み台にしてさらに一歩前へ出る。飛んでくるものを全部壊すんじゃない。必要なものだけを断ち、残りは自分の装甲と体重で受け流している。防御というより、突破だ。
その強引さに、今度はムジナの隣にいる男が口を開いた。
「ムジナ! 遊びすぎるな! 近づけるな!」
声に焦りが混じる。分かりやすい。バーゲストみたいな正面からの怪物に、一度でも懐へ入られたら終わると理解しているのだろう。
ムジナは、そんな契約者の方を見もせず、少しだけ唇を尖らせた。
「分かってるよ」
「分かってるように見えねぇから言ってんだ!」
「せっかちだなぁ」
だが、文句を言いながらも、ムジナは従った。視線の重心が変わる。バーゲストを“観察する目”から、“止める目”へ。すると怪獣の動きまで変わった。さっきより雑だ。いや、正確には、急かされている。噛みつきの角度が大きくなり、重さが先に出る。制御の細かさが一段落ちる。
急かされているのは、怪獣じゃない。ムジナの方だ。
そこだ、と直感する。
ムジナは気だるげで、怠惰で、他人の指図なんてまともに聞かないように見える。だが、実際には切らない。嫌そうな顔はしても、最終的には契約者の意向へ動きを寄せている。命令を絶対服従で聞く、というより――。
「バーゲスト! 契約者の方を強く圧せ!」
「了解しました!」
今度は明確に、バーゲストが男の方へ軸を向ける。怪獣の腕を弾き、巨大な胴を横から押し崩し、その倒れ込む勢いごと契約者の位置へ流す。直撃させるつもりじゃない。逃げ道を削り、選択を迫る動きだ。
男が後退る。ムジナの目が、そこで初めて揺れた。
「……え」
小さな声だった。驚きとも、苛立ちともつかない。
契約者のすぐ横へ、怪獣の巨体が倒れ込む。舗装が裂け、川沿いの柵がまとめて吹き飛んだ。バーゲストはその縁を狙って剣を振るう。怪獣を斬るのではなく、あえて契約者の逃げ道を潰していく。圧だ。分かりやすい、騎士の暴力だ。
その時、ムジナがはっきりと顔を変えた。
今までの気だるさが、一瞬で剥がれる。目だけじゃない。肩の力が入り、口元の弛みが消え、声の温度まで変わる。
「やめて」
その二文字は、さっきまでの彼女とは別人みたいだった。
重い。感情が乗っている。初めて、面倒そうでも退屈そうでもなく、剥き出しで出た声だ。
怪獣が無理やり向きを変える。契約者を庇うように身体を捻り、バーゲストの前へ割って入る。その動きは雑だが必死だった。ムジナの視線が怪獣とバーゲストと契約者の三つを一度に掴もうとする。無理がある。だからこそ、荒れる。飛来物も軌道がぶれる。ベンチの残骸があらぬ方向へ飛び、街路樹の幹が途中で力を失って落ちた。
バーゲストがそれを見逃すはずがない。怪獣の肩へ剣を沈め、そのまま踏み込む。押す。重さと重さがぶつかり、遊歩道そのものが軋む。
ムジナが、今度ははっきりと叫んだ。
「そっち行かないで!」
その声は怪獣へ向いている。命令だ。だが、内容はもっと直接的だった。護れ、でもなく、殺せ、でもなく、“そっちへ行かないで”。つまり、契約者から離れるな、だ。
俺の中で、何かが噛み合う。
気だるい。
怠惰。
けれど、興味を持った相手には情熱的。
自分を受け入れてほしい。
そして、今――失いたくない相手を庇うために、明確に感情を剥き出しにした。
従っている、というより、切られたくない。
受け入れてくれた相手を、手放したくない。
まだ答えそのものじゃない。だが、少なくとも最後の問題のヒントは掴んだ。
そして、もう一つ。
この反応を引き出せるなら、本質的属性の方にも届くかもしれない。ムジナはただの超能力者じゃない。気だるげな仮面の下で、興味を持った相手にだけ極端に熱を向ける。空っぽそうに見えて、実際には“意味”や“受容”へ飢えている。だとすれば、本質的属性は戦闘の肩書きだけじゃなく、そういう人間性へ寄っている可能性が高い。
バーゲストが怪獣を押し返しながら、低く呼ぶ。
「マスター!」
「ああ、見えた!」
俺はスマホを握りしめたまま叫び返した。
「ムジナは、契約者をただの命令主として見てるんじゃない! 切られたくない相手だ! あいつが離れそうになると、露骨に熱が出る!」
「承知しました!」
バーゲストの瞳が、わずかに鋭く細まる。その情報を飲み込んだのだろう。彼女は今度、怪獣を斬るのではなく、あえて契約者の退路だけを追い詰める位置へ立つ。守らせる。縋らせる。ムジナの本音をさらに表へ引っ張るための立ち回りだ。
ムジナは、もうさっきまでの余裕を演じ切れていなかった。
「ほんと、やだな……」
声は低い。けれど、その次に続いた一言は熱を隠していない。
「この人、取られるの」
取られる。
そこまで聞いて、ようやく確信に近いものが立つ。
従う理由。
少なくとも、ヒントはここだ。
意味をくれた相手。
受け入れてくれる相手。
だから手放したくない。
だから従う。
命令に従うのではなく、関係に縋っている。
スマホの画面はまだ変わらない。CLEARは出ない。当たり前だ。これは答えじゃない。答えへ至るための“見えたもの”にすぎない。
けれど、十分だった。
見えた。
次に何を探ればいいかが、ようやくはっきりした。
怪獣が咆哮を上げる。バーゲストが剣を構える。ムジナはその後ろで、気だるさをかなぐり捨てた目でこちらを睨んでいる。戦いはまだ終わらない。だが、霧の中を手探りしていたさっきまでとは違う。探すべきものが分かった。
俺は息を吐き、スマホを見下ろした。
――対象契約体の本質的属性を特定せよ
――対象契約体が現在の所有者へ従う理由を特定せよ
どちらもまだ黒いままだ。
だが、その黒の向こうに、今は確かに輪郭が見えていた。