怪獣の喉が、地の底から響くように鳴った。
湿った息が遊歩道へ吹きつける。腐った泥と鉄の匂いが混ざったような、ひどい臭気だった。巨体が身を捩るたび、砕けた石畳と川縁の土が巻き上がり、視界の端を茶色く濁らせる。その真正面で、バーゲストが剣を構えている。
押されている、というほどではない。だが、余裕は明らかにない。
剣で受ける。鎧で流す。肩を入れて押し返す。怪獣の前脚が叩きつけられれば、真正面から噛み合って軌道を逸らす。銀の刃が走るたび、怪獣の黒い皮膚に裂け目が入る。だが、傷が浅い。重いだけじゃない。妙にしぶとい。ムジナの視線が通っている限り、あの怪物は“倒れる前に次の動きへ繋がる塊”として働き続けている。
バーゲストの背中が、その全部を受け止めていた。
巨大な尾が薙ぐ。バーゲストが一歩踏み込み、肩口で受ける。鎧へ鈍い音が走る。勢いを殺しきれなかった尾がそのまま遊歩道の柵をまとめてへし折り、金属片が水辺へ飛び散った。
「……くっ」
低い息が漏れる。バーゲストの声だ。
強い。間違いなく強い。あの巨体、あの剣、あの踏み込み。怪獣みたいな塊が相手でも、正面から食い止められる。けれど、今はその強さが、逆にこちらへ考える時間を作ってくれていた。
ムジナは、少し離れた場所でその戦いを見ている。
気だるげだ。相変わらず、立ち方に緊張感がない。視線だけを相手へ置いて、それ以外の全部は面倒そうにしている。けれど、その“面倒そう”の下にあるものは、もう見え始めていた。
さっき、バーゲストが契約者へ圧をかけた時だ。
ムジナは明らかに顔を変えた。
遊んでいたわけじゃない。
観察していたわけでもない。
あの瞬間だけは、はっきりと焦っていた。
契約者を怪獣から遠ざけようとしていたんじゃない。バーゲストに近づけさせたくなかった。取られたくなかった。奪われたくなかった。そういう、剥き出しの反応だった。
なら、あいつの本質は何だ。
人間。
超能力者。
トリッキー型。
情報としてはもう揃っている。なのに、MEDESが欲しがっているのはそういうプロフィールの丸写しじゃない。バーゲストの時だってそうだった。剣を振るうから騎士、では終わらなかった。怪物めいた強さを持ちながら、それでも誇りで動く存在だったからこそ、あの問いは成立した。
ムジナも同じだ。
能力の発動条件は取った。
視線だ。見ている間、目を合わせている間、あるいは視界へ捉えている間に、対象や物体を意のままに動かす。
だから怪獣の制御も、物体の弾幕も成立している。
でも、今考えるべきはそこじゃない。
本質的属性。
それを探るには、ムジナが何に反応するかを見なければならない。どういう感情に揺れるのか。何を失う時に、あの女の顔が崩れるのか。
「バーゲスト!」
叫ぶ。怪獣の顎を受け流しながら、銀の瞳が一瞬だけこちらを向いた。
「もう一度、契約者の方へ圧をかけろ! ムジナの反応を見る!」
「了解しました!」
返事と同時に、バーゲストの軸が変わる。
怪獣の腕を切り払うのではなく、その体重を逆用する。巨体が踏み込んできた勢いへ、自分から横へ潜り込むようにして肩をぶつけた。怪獣の胴が傾く。重量の向きがずれる。そのままバーゲストは剣の腹で怪獣の首を押し、契約者の立っている方角へ、わざと巨体を流した。
乱暴で、豪快で、けれど正確だ。
契約者の男が顔を引きつらせて飛び退く。ムジナの目が細くなる。次の瞬間、怪獣の身体が不自然な角度で持ち上がった。無理やり引き戻している。目に見えない糸で、あの巨体を捻じ曲げているみたいだった。
「やめてよ」
声が低い。
怒鳴っているわけじゃない。だが、その中にさっきまでの怠さはない。はっきり感情が乗っている。嫌だ、と言っている。面倒だとか退屈だとかじゃなく、失いたくないものへ手を伸ばされた時の声だ。
バーゲストがそれでも止まらない。怪獣の肩へ足をかけ、さらに一歩前へ出る。剣を振るうのは怪獣へ向けてじゃない。契約者の退路を切るためだ。銀の一閃が地面を裂く。逃げればその先に剣、留まれば巨体が落ちる。嫌でも護らせる配置だ。
ムジナの顔が、そこで完全に変わった。
あの女が纏っていた気だるさは、もともと“何も感じていない”からじゃない。たぶん逆だ。感じたくないものを薄めるために、だるそうにしている。面倒そうにしている。どうでもいい風を装うことで、自分の中身を隠している。
けれど今は隠せていない。
契約者へ視線を寄越し、そのまま怪獣を急かし、飛来物まで乱れている。余裕がなくなったからだ。つまり――。
「人間、か」
無意識に声が漏れた。
ムジナの視線がこちらへ刺さる。ぞくりとした。だが、もう逸らせない。こっちも見ていないと、答えへ届かない。
人間だ。
こいつは、怪物でも、妖精でも、契約で縛られた騎士でもない。
空っぽを抱えたまま、意味を欲しがって、受け入れてくれる誰かへ縋る――ただの人間だ。
超能力はある。
怪獣も操る。
だから厄介だ。
けれど、本質はそこじゃない。
怪物の顔をしていないから人間なんじゃない。逆だ。あれだけ危険な力を持ちながら、結局いちばん揺れる場所が“受け入れられるかどうか”にある。そこが人間だ。
スマホが強く震えた。
黒い画面に、白い文字が流れ、そのうちの一行が緑へ変わる。
――対象契約体の本質的属性を特定せよ
――CLEAR
喉が熱くなる。取った。
ムジナの目が、はっきりと見開かれた。今度は気のせいじゃない。こちらが何かを抜いたことを、空気の変化で悟った顔だった。けれど、その驚きはすぐに別の色へ塗り替わる。苛立ち。警戒。わずかな焦り。
「……何それ」
低く、笑わない声だ。
「そんな顔もするんだな」
言い返したのは、半分反射だった。余裕があるわけじゃない。だが、今の一問でようやく、あいつの仮面の向こうへ一歩踏み込めた気がした。
ムジナは、だるそうに肩を落とした。だが、その仕草はもう最初のような脱力じゃない。むしろ感情を押し込めるための深呼吸に近い。
「べつに」
「その“べつに”じゃない顔、してるです」
いつの間にか、デルタの声が頭の中へ蘇るような言い方を、自分でもしてしまっていた。ムジナの眉がぴくりと動く。
その隙を、バーゲストはまた逃さない。
怪獣の下顎へ剣を差し込み、そのまま力任せに押し上げる。咆哮。巨体が仰け反り、川沿いの歩道へ背を打ちつける。コンクリートが砕け、水飛沫が上がる。バーゲストは追撃しない。代わりに契約者の方へ半身を向けた。護るなら来い、と言っているのと同じ立ち方だ。
契約者の男が声を張る。
「ムジナ! 何してる、早く止めろ!」
「分かってるって」
「分かってないだろ! あいつ、俺を狙ってんだぞ!」
「だから分かってる」
返事は投げやりなのに、その目は男から離れない。
そこで、最後の一問の輪郭が急に近づいた。
――対象契約体が現在の所有者へ従う理由を特定せよ
従っている理由。
単純な契約ではない。
恐怖でもない。
忠義でもない。
あいつは今、男の命令だから動いているわけじゃない。切られたくないからだ。失いたくないからだ。この男が“自分を見てくれた相手”“受け入れてくれる可能性がある相手”だから、手放したくなくて動いている。
つまり従っているんじゃない。縋っている。
意味をくれたから。
自分を受け入れてくれると信じたいから。
「……そういうことか」
今度は、声が自然に出た。
ムジナが、そこでこちらを見る。さっきより近い距離で目が合う。ぞくりとした。まずい。けれど、もう分かってしまった以上、逸らすだけじゃ足りない。
あいつの従属は命令系統じゃない。感情の側から伸びている。
生きる意味を与えられた。
受け入れてほしい。
だから離れない。だから守る。だから従う。
答えそのものを、まだ口にするには早い。だが、理解した。はっきりと。
バーゲストが怪獣を押し返しながら、低く呼ぶ。
「マスター!」
「ああ!」
俺はスマホを握りしめる。
画面はまだ動かない。二つ目の緑だけが静かに光っている。
――対象契約体の本質的属性を特定せよ
――CLEAR
そして、その下に残る最後の一問を、俺はもう読めていた。
ムジナは、意味をくれた相手に従う。
受け入れてほしいと願う相手に、情熱的なほど縋る。
だから、あの男を守る。命令に応じるのではなく、“切られたくない関係”へしがみつくために。
怪獣が起き上がる。ムジナの目が、また鋭く細まる。戦いはまだ終わらない。けれど、霧の向こうにある答えは、もう見失わない。
俺は息を吐いた。
「……残りも、いける」
その言葉は、自分自身へ向けた確認でもあった。