スマホの画面には、緑が二つ並んでいた。
――対象契約体の本質的属性を特定せよ CLEAR
――対象契約体の能力発動条件を特定せよ CLEAR
――対象契約体が現在の所有者へ従う理由を特定せよ
最後の一行だけが、黒いまま残っている。
答えは、もう見えていた。
ムジナは、ただ命令に従うだけの契約体じゃない。あの男に意味を見いだした。自分を受け入れてくれるかもしれない相手として、手を伸ばした。だから従う。だから切られたくない。だから、守る。
そこまで分かっている。
分かっているのに、親指が動かない。
画面の下に出ている入力欄が、やけに冷たく見えた。ここへ答えを入れれば、たぶん終わる。終わってしまう。バーゲストの時と同じなら、この戦いの所有権は移る。そうなれば、また誰かが消える。
喉の奥が詰まる。
昨夜の光景が、まぶたの裏へまた浮いた。肩から。喉から。顔の輪郭から。人ひとり分の存在が、白い光へほどけていく。声も残らない。跡も残らない。あれを、もう一度。
指先へ妙な力が入って、スマホの縁が軋む。
「……っ」
息が浅くなる。視界の端で、バーゲストが怪獣の爪を真正面から受けた。銀の剣が唸る。怪獣の腕が弾かれる。砕けた歩道の破片が飛ぶ。けれど、その一連の攻防さえ、今の俺には遠い。画面の黒い一行だけが、異様な重みで目の前にある。
人を殺す。
いや、違う。俺が手を下すわけじゃない。分かっている。分かっているのに、MEDESが処理するからと言い換えたところで、結果は変わらない。俺が入力すれば、誰かは盤面から外れる。そういう仕組みだ。
だったら、どうする。
見なかったふりをして、ここで止まるのか。
親指がわずかに離れた、その瞬間だった。
「マスター!」
バーゲストの声が響く。
反射で顔を上げる。怪獣の巨体が大きく身を反らせ、次の一撃へ全身をしならせている。バーゲストはその真正面で剣を構え、受け止める姿勢へ入っていた。だが、あれを受ければ、また周囲が吹き飛ぶ。遊歩道の柵はすでに半分以上が潰れている。街路樹も根元からえぐれ、案内板は鉄片に変わっていた。このまま長引けば、ここを通る一般人まで巻き込む。
ムジナの契約者が、そこで叫ぶ。
「ムジナ! もう鬱陶しい、全部潰せ! 周りなんか気にするな、まとめてやれ!」
声に焦りが混じっている。余裕のない叫びだ。勝ち急いでいる。その言葉が、耳へ刺さった。
ムジナが、一瞬だけ目を細めた。
「えー……」
いつもの気だるい声だ。だが、その奥に、ほんの僅かに引っかかりがある。
「そこまでする?」
「するんだよ! こっちが取られたら終わりだろ! 怪獣ごと遊歩道ごと潰せ!」
命令が、あまりにも露骨だった。
その瞬間、何かがはっきりした。
ムジナは、今までにも街を壊してきた。平気そうな顔もしていた。けれど、“それが楽しいから”ではない。少なくとも今、この場でのあの女は、自分の意思で無差別に暴れたがっているわけじゃない。
視線の向こうにあるのは、バーゲストでも俺でもなく、まず契約者の男だ。
どうする、と問われているわけでもない。
ただ、命じられている。
しかも、周囲の被害なんか関係ないと切り捨てる形で。
ムジナの眉が、わずかに寄る。
その寄り方は、嫌悪というより、つまらなさに近い。けれど、完全な拒絶ではない。拒絶できない。切りたくないからだ。意味をくれた相手。受け入れてほしい相手。だから、あの乱暴な命令ですら、最後には飲み込もうとしている。
怪獣が、再び持ち上がる。
今度の動きはさっきまでと違う。視線による細かな制御ではなく、もっと荒っぽい。“壊すためだけ”の力のかけ方だ。ムジナ自身の好みじゃない。そう見えた。見えたからこそ、逆に分かる。
これは、ムジナの意思じゃない。
あの男の指示だ。
周囲の被害も、街も、関係ない。とにかく押し潰せ。その雑で醜い命令に、ムジナは従わされている。従う理由は、恐怖じゃない。契約の強制でもない。ただ命令そのものに屈しているわけじゃない。あの男を失いたくないから。意味をくれた相手を切られたくないから。だから、望まない形でも動いてしまう。
答えが、そこで一本に繋がる。
ムジナが現在の所有者へ従う理由――。
バーゲストが怪獣の顎を受ける。遊歩道が沈む。銀の刃が軋み、鎧の端から鈍い音が走る。時間がない。
俺はスマホへ視線を落とした。
黒い入力欄が、もうただの文字枠には見えなかった。誰かの命を切り離すための窓口じゃない。ムジナ自身を、あの男の指示から引き剥がすための、唯一の切断面だ。
胸の内側で、まだ迷いは残っている。残っているが、形が変わった。
誰かが消えるかもしれない。
その重さは消えない。
けれど、このまま入力を躊躇えば、ムジナは“自分の意思ではない暴れ方”を押しつけられたままになる。バーゲストも潰れる。街も巻き込まれる。
なら。
俺は息を吸った。
「……ムジナ」
小さく、名前を呼ぶ。届くかどうかも分からない声だった。だが、あの女の目がほんの一瞬だけこちらを向いた。
気だるくて、怠そうで、それでも今はどこか硬い顔だった。
自分の意思じゃない。
なのに止められない。
その顔を見て、もう迷っている場合じゃないと分かった。
親指で、入力欄へ触れる。
言葉を打つ。
短く。
だが、核心だけは外さないように。
――自分に生きる意味を与え、自分を受け入れてほしいと願う相手だから
入力しても、すぐには送信しなかった。
ほんの一瞬だけ、また指が止まる。
これを押せば、終わる。
終わらせる。
また、誰かの敗北が確定する。
怖くないわけがない。
けれど、その一拍の迷いを断ち切るみたいに、バーゲストの声が飛んだ。
「マスター!」
顔を上げる。怪獣の爪が振り下ろされる、その直前だった。バーゲストは剣を立て、真正面から受け止めている。踏ん張った足元の石畳が割れ、川沿いの柵が最後の一本までへし折れた。これ以上はもたない。そういう姿だった。
俺は、送信を押した。
画面が白く瞬いた。
次の瞬間、最後の一行が緑へ変わる。
――対象契約体が現在の所有者へ従う理由を特定せよ
――CLEAR
同時に、画面全体が暗く沈み、その中央へ新しい文字が浮かび上がる。
――ALL CONDITIONS CLEARED
――SEIZURE RIGHTS GRANTED
息が、喉の奥で絡まる。
取った。
三問、全部だ。
ムジナの契約者が、それを本能的に悟ったらしい。顔色が変わる。
「は……?」
「遅いです」
思わず漏れた俺の声と、バーゲストの低い吐息が重なる。怪獣の爪が、そこで一瞬だけぶれた。ムジナの視線も揺れる。契約者を見て、スマホを見て、こちらを見る。その順番で、何が起きたか理解し始めている顔だった。
けれど、もう遅い。
俺は震える指で、次の表示へ触れた。
――TRANSFER AVAILABLE
――TARGET : MUJINA
――CONFIRM SEIZURE
胸の奥がまだ冷たい。それでも、躊躇はしなかった。
答えはもう分かっている。
ここで止まる方が、ムジナの意思ではない破壊を続けさせる。
そう理解したからだ。
画面へ指を下ろす。
その瞬間、遊歩道の空気が目に見えないところで裂けたような気がした。