空気が裂けたみたいな感覚は、一瞬で消えた。
次の瞬間、遊歩道の上に張りつめていた力の流れが、目に見えないところで切り替わる。怪獣の巨体が、糸を失った操り人形みたいに半歩だけ揺れた。ムジナの視線が細くなる。隣にいた契約者の男が、自分のスマホと俺の手の中の画面を見比べ、やっと何が起きたか理解した顔をする。
「……え?」
その一音が、妙に小さかった。
さっきまであれだけ喚いていたくせに、いざ盤面がひっくり返った瞬間、人間の声は驚くほど細くなるらしい。男の指がスマホの縁を掴み直す。叩く。操作する。何も起きない。いや、起きているのかもしれない。だが、少なくとも男の望む形ではない。
ムジナは、その隣でしばらく黙っていた。
気だるげな表情は残っている。残っているのに、そこへ混じる色が変わっていた。さっきまで契約者へ向いていた視線が、今は俺へ移っている。面倒そうなままなのに、興味の向きだけがはっきりと切り替わっているのが分かった。
バーゲストが、怪獣の正面からゆっくり剣を下ろす。
もう振り抜く必要がないと判断したのだろう。怪獣はまだそこにいる。けれど、ムジナの意識が切り替わったせいか、さっきまでの殺意に満ちた動きは消えていた。ただ大きいだけの異形が、次の命令を待っているみたいに不自然な静けさで固まっている。
敵の契約者が、そこでようやく声を荒げた。
「ムジナ! 何してる! 動けよ! そいつらを――」
最後まで言い切る前に、ムジナがそちらを見た。
見た、というより、冷たく置いた。そんな視線だった。
「もう、あなたじゃないみたいだけど」
いつものだるそうな口調。なのに、その一言だけで空気が変わる。
男の顔が引きつる。
「ふざけんな、俺がお前のマスターだろ!」
「さっきまでは、ね」
ムジナはそう言って、ほんの少し首を傾けた。その仕草は軽い。けれど、もうそこに“従っていた側”の温度はない。
俺のスマホがまだ熱を持っている。画面には勝利条件のクリア表示の下へ、新しい文面が並んでいた。
――SEIZURE CONFIRMED
――TARGET TRANSFER IN PROGRESS
その無機質さに、また胃の底が重くなる。バーゲストの時と同じだ。奪う。移す。処理する。人と人の関係まで、ただの管理項目みたいに並べていく。
だが、今はそこへ呑まれている余裕がない。
敵の男が一歩、後ずさる。さっきの戦いで崩れた遊歩道の端へ靴が引っかかり、無様によろめいた。ムジナはそれを追わない。いや、追う気はあるのかもしれないが、今の興味はもう別のところへ移っている。
銀の剣を持ったバーゲスト。
まだ寝ぼけた顔も見せるデルタはいない。
そして、スマホを握ったまま立つ俺。
ムジナの視線が、順番にそこをなぞる。最後にまた俺へ戻った。
「へえ」
小さく、息だけで笑う。
「こうなるんだ」
気だるげな声音なのに、その奥にある熱は隠れていない。むしろ、前の契約者といた時より、素の色に近い気がした。虚勢が一枚剥がれたのかもしれない。
怪獣の巨体が、その場でぐらりと傾ぐ。
ムジナがちらりとだけそちらを見る。すると、さっきまであれほど暴れていた怪獣が、砂のように形を失い始めた。黒い肉の塊みたいだったものが、内側から崩れるようにほどけ、水辺へ溶けるみたいに消えていく。
俺はその光景を見ながら、胸の奥が硬くなるのを感じた。
また、消える。
人ではない。怪獣だ。そう分かっていても、さっきの消滅が脳裏へちらつくせいで、どうしても身構えてしまう。
そして、その予感は外れなかった。
敵だった男の肩口から、白い光が零れ始める。
「……っ!」
喉の奥で何かが詰まる。
男はすぐに気づいたらしい。自分の腕を見る。肩を払う。けれど、光は止まらない。バーゲストの元マスターと同じだ。輪郭の端から、存在そのものが剥がれ始めている。
「待て、待てって……!」
声が裏返る。目の前で起きていることが、理解より先に恐怖へ変わる顔だった。
ムジナはそれを、無言で見ていた。
情がないわけじゃない。むしろ、そこにある感情をどう出していいか分からず、止まっているように見えた。気だるげな仮面を維持したまま、その奥だけが静かに揺れている。
男は俺を見る。次にムジナを見る。
「おい、ムジナ! 何とかしろよ! お前、俺の……!」
その続きが言葉になり切らない。喉の輪郭がまた薄くなる。
バーゲストが、低く息を吐いた。彼女の横顔は静かだ。昨夜のような戸惑いまでは浮かんでいない。けれど、無感動でもない。あまりに冷たい現実へ、いちいち顔を揺らしてはいられないと分かっている人間の顔だ。
男の声がさらに掠れる。
「ムジナ、頼む、助けろ、俺を見ろよ……!」
その言葉に、ムジナのまぶたがほんの少しだけ動く。
だが、動いただけだ。
「……今さら?」
呟きは小さかった。相手へ届くかどうかも曖昧なほどに。けれど、その一言へ詰まっていた感情の重さだけは、はっきり伝わった。
男が手を伸ばす。だが、その手の指先はもう白く崩れ始めている。何かを掴もうとしても掴めない。助けを求める形だけが残って、実体は失われていく。
俺はまた、あの光景を見ていた。
跡を残さず消えていく人間。
助けを求める目。
何もできないまま立ち尽くすしかない自分。
胸の奥へ、あの時と似た重さが戻りかける。
けれど、今度は少しだけ違う。
隣へ、バーゲストが半歩出た。剣を収める。戦うためではなく、“終わり”を見届けるための動きだ。そして、ムジナも動く。こちら側へ。ほんの一歩だけだが、確かに前へ出た。
元の契約者の方へではない。
俺たちの方へ、だ。
その動きが、何より雄弁だった。
やがて男の輪郭は、白い光と一緒に空気へほどけた。足元へ影ひとつ残さず、朝の遊歩道から完全に消える。怪獣が消えた時と違って、そこに残る静けさは重い。人がいた場所だけが、不自然なほど空白だった。
風が吹く。
それだけで、最後の光も消えた。
ムジナはしばらく、その空白を見ていた。だが、悲鳴も上げないし、追いすがりもしない。指先ひとつ動かさず、その代わり、視線だけで何かを考えている。たぶん、関係を切られた悲しみより、“これで本当に終わったのか”を確かめているのだろう。あの女はそういう種類の人間だ。
そして、不意に俺へ向き直った。
「……で?」
やけに軽い声だった。そこだけ切り取れば、コンビニの棚の前で何を買うか訊いてくるみたいな温度だ。けれど、目は違う。真っ直ぐだった。
「わたし、これからどうされるの?」
問いかけは軽い。だが、意味は軽くない。
デルタの時も、バーゲストの時も、ここまで直接は聞かれなかった。ムジナは最初からそこを差し出してくる。たぶん、相手の答えを見てから、自分の立ち位置を決めたいのだ。受け入れられるか。切り捨てられるか。都合よく使われるだけか。そういうものを、今この瞬間の返答で測ろうとしている。
その問いへ、すぐには答えられなかった。
だって、俺だってまだ整理し切れていない。ついさっきまで敵だった相手が、今は自分の契約体として移された。しかも、その契約の仕組み自体が気味悪くて仕方がない。ここで不用意に綺麗なことを言っても、たぶんムジナは見抜く。
「黙ってるってことは、決めてない?」
気だるそうに言って、ムジナは肩をすくめた。
「まあ、そうだよね。急に増えたもんね」
バーゲストが横から静かに口を開く。
「ムジナ」
「なに」
「現マスターへ対して、その態度は少々――」
「いい」
遮ったのは俺だった。
バーゲストがこちらを見る。ムジナも見た。二人とも違う種類の視線だが、今は同じだけの重さがある。
俺は息をひとつ吐く。
「決めてないのは事実だ」
「へえ」
ムジナの眉が少しだけ上がる。正直に言われるとは思っていなかったのかもしれない。
「でも、決めてないままでも、答えられることはある」
「なに?」
視線が動かない。逃がさない目だ。とはいえ、ムジナのそれは獲物を見る目とは少し違う。自分の居場所がどこへ落ちるか、相手の口から聞くまで呼吸を止める人間の目に近い。
言葉を選ぶ。
綺麗事じゃなく。
脅しでもなく。
今、自分が本当に言えるところまで。
「おまえを道具みたいに使うつもりはない」
「……うん」
「でも、何でも好き勝手していいとも言えない」
「それも、まあ、そうだね」
ムジナは素直に頷いた。その反応が少し意外だった。
「勝手に怪獣出して街を壊されるのは困る」
「それは」
一拍置いて、ムジナが視線を逸らした。
「まあ、今の人がやれって言ったから」
「分かってる」
その一言へ、またムジナの視線が戻る。今度はさっきよりも少しだけ深い。見透かされるのを嫌がる人間の目じゃない。分かってくれるのか、という期待が先に出る目だ。
「分かってるけど、だからってなかったことにはしない」
「うん」
そこまで言ってから、俺は少しだけ間を置いた。
「ただ、おまえが自分の意思じゃない形で暴れさせられるのは、もう見たくない」
それが本音だった。
ムジナが、そこで初めて完全に黙る。気だるさを装う動きまで止まる。空っぽの表情ではなく、真正面からその言葉を受けた顔だった。
続ける。
「生きる意味をやるとか、そういう大きいことは俺には言えない」
「……ふうん」
「でも、こっちにいるなら、少なくとも“おまえを都合のいい道具として使うだけ”にはしない」
「都合よく使わないなら、じゃあ何するの?」
問いの返しが早い。だが、今の問いは試すためじゃない。本当に聞いている。
俺はムジナを見る。
力の強い相手。
視線ひとつで場を壊せる危険な女。
なのに、その芯にあるのは、受け入れてほしいという、ひどく人間くさい飢えだ。
「一緒に生きる方法を考える」
「……え?」
自分で言ってから、少しだけ気恥ずかしくなった。だが、言い直さなかった。今さら格好つけても仕方がない。
「戦うなら戦う。逃げるなら逃げる。飯を食うなら食う。そういうのを含めて、おまえがここにいるなら、そのやり方を一緒に考える」
「それ、すごく真面目だね」
「悪いか」
「悪くはない」
ムジナはそう言って、ほんの少しだけ目を細めた。
「でも、そういうのって、面倒じゃない?」
「面倒だろうな」
「わたし、だいぶ面倒だよ」
「知ってる」
「まだちょっとしか知らないでしょ」
「今の時点でも十分分かる」
そこで、ムジナがくすっと笑った。
初めて見た気がした。気だるさや嘲りじゃない、素直に面白がった笑いだった。
「そっか」
短く言って、彼女は自分の胸元へ手を当てる。そこに何かがあるわけじゃない。ただ、自分の中の温度を確かめるみたいな仕草だ。
「じゃあ、ひとつだけ聞いていい?」
「何だ」
「わたしのこと、受け入れるつもりある?」
核心だった。
バーゲストが横で息を止めたのが分かる。たぶん、この問いの重さを理解したのだろう。ムジナにとって、ここが一番大事だと。
俺はすぐには答えなかった。だが、迷ったわけでもない。
「全部を今すぐ分かった顔で受け入れるとは言わない」
「うん」
「でも、おまえを最初から切り捨てるつもりもない」
ムジナの目が、わずかに揺れる。
「だったら、ちゃんと知って、ちゃんと受け入れるかどうかを決める」
「……ちゃんと、ね」
「そうだ」
「適当に“いいよ”って言わないんだ」
「そういうの、嫌だろ」
「……うん、嫌」
その返事だけは、ひどく素直だった。
そして、そこで何かが決まったらしい。
ムジナが一歩、こちらへ来る。気だるげな歩き方のままなのに、その一歩には迷いがない。俺とバーゲストの前で止まると、ほんの少しだけ首を傾げた。
「じゃあ、いいや」
「いい?」
「うん。今の答え、嫌いじゃない」
それから、面倒そうな顔のまま続ける。
「意味をくれる、とか、受け入れる、とか、そういうの雑に言われる方がムカつくし」
「だろうな」
「でも、今のはちゃんと考えてる感じしたから」
そこでムジナは、小さく息を吐いた。
「納得した」
その一言が、不思議なくらい静かに落ちる。
そして次の瞬間、彼女は少しだけ姿勢を正した。ほんのわずかだ。バーゲストみたいな騎士の礼には程遠い。デルタみたいな本能のままの従い方とも違う。ムジナなりの、最低限の合図だった。
「じゃあ、しばらく従うよ」
言い方は軽い。けれど、そこに嘘はないと分かった。
「あなたのやり方、見てみたいし」
紫がかったようにも見える、湿った目がこちらを捉える。
「だから、どうするのかちゃんと見せてね。マスター」
その呼び方に、胸の奥が少しだけ重く鳴った。
バーゲストが横から静かに口を開く。
「受け入れた、ということでよろしいのですか」
「うん。今は、それでいい」
ムジナは肩をすくめる。
「完全に信用したわけじゃないけど、切る気もないし」
「十分だ」
そう答えると、ムジナはまた小さく笑った。
「へえ。そういう感じなんだ」
面白そうに、でもどこか安心したみたいに。
朝の遊歩道へ風が吹く。昨夜の血の匂いはない。怪獣の残骸も、男の痕跡も残っていない。ただ、壊れた柵と砕けた石畳だけが、ついさっきまでここで何かがあったことを示している。
その真ん中で、ムジナはもうこちら側へ立っていた。
デルタの時とも、バーゲストの時とも違う形で。
問いかけて、答えを測って、納得して。
そのうえで、自分の意思でこちらを選んだ。
スマホが微かに震える。
画面には、新しい表示が並んでいた。
――BATTLE ENDED
――CONTRACTED SUBJECT “MUJINA” TRANSFER COMPLETE
――CURRENT OWNED SUBJECTS : 03
デルタ。
バーゲスト。
ムジナ。
三つ目の名前が、そこへ増えていた。