※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

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獣と怪獣使い

 自宅の扉を開けた瞬間、空気が変わった。

 

 外の朝の冷たさとは別の、もっとぴんと張った気配だ。靴を脱ぐより先に、それが分かる。部屋の奥、寝室代わりにしているスペースの方から、低く押し殺した唸り声が漏れた。

 

「……誰です、それ」

 

 起きていたらしい。

 

 いや、ただ起きていただけじゃない。警戒で目が冴えている声だ。寝起きの緩さなんて欠片もない。黒い耳が立ち、紫の瞳が細くなるのが、間仕切りの向こうからでも分かった。

 

 デルタがゆっくり出てくる。

 

 髪は少し乱れている。まだ眠気の名残はあるのに、足取りは静かで、爪先にはいつでも飛びかかれるだけの力が乗っていた。視線は俺を素通りして、その後ろ――ムジナへ突き刺さる。

 

 当然だ。

 

 昨日まで敵だった相手が、朝帰りみたいな格好で俺の後ろに立っている。事情を知らされていないデルタからすれば、寝ている間に何が起きたのか分からないまま、知らない女が一人増えているようなものだ。

 

 バーゲストが後ろで扉を閉める。鍵の音が、やけに大きく響いた。

 

「仮ボス」

 デルタの声が低い。

「説明いるです」

「ああ、いる」

 

 俺は靴を揃えながら、一度だけ息を整えた。

 

「次の対戦相手と遭遇した。戦って、勝った」

「それで?」

 

 デルタの視線は、まったく逸れない。ムジナの喉元を見ている。噛みつくならそこだ、と決めている獣の目だった。

 

「……所有権が移った」

「ふうん」

 

 短い返事。納得したわけじゃない。言葉として受け取っただけだ。

 

「つまり、今はこっち側ってことです?」

「そうなる」

「ならないです」

 

 即答だった。

 

 デルタは一歩前へ出る。俺とムジナの間に身体を入れるような位置だ。尾が太く膨らんでいる。怒っている時の癖だと、もう分かるようになっていた。

 

「敵だったです。怪しいです。こっち側になるの早すぎるです」

「それは、そうだな」

「そうです。仮ボス、そこはちゃんと“そうです”じゃないです」

 

 叱られているような口調だった。いや、実際叱られているのかもしれない。

 

 ムジナは、その一連のやり取りを、少しだけ眠たそうな顔のまま見ていた。気だるげな女だ。緊張していないわけじゃないのに、いかにも面倒そうな空気が先に立つ。そのくせ目だけは、デルタの反応をかなり面白がっている。

 

「へえ」

 ムジナが小さく笑う。

「すごい警戒されてる」

 

「当たり前です」

 デルタがぴしゃりと言う。

「近いです」

「近い?」

「匂いがです。敵の匂いがまだするです。昨日まで噛み合ってた匂いです」

「犬みたい」

「狼です」

 

 訂正は早かった。

 

 ムジナはそこで、ほんの少しだけ目を細める。ふざけているようで、ちゃんとデルタを見ている顔だ。相手の地雷がどこにあるか、どこまで踏み込めるかを測る目でもある。

 

 まずいな、と思った。

 

 このまま二人で喋らせると、たぶん余計にこじれる。デルタは真っ直ぐで、本能的で、敵認定した相手への遠慮がない。ムジナは気だるげなくせに、人の反応を面白がってつつく癖がある。相性は最悪に近い。

 

 間へ入ろうとした、その時だった。

 

「でも、これあげればいいんじゃない?」

 

 ムジナが、ぽんと小さな袋を持ち上げた。

 

 いつの間に持っていたのか。コンビニのつまみだ。透明な袋の中に、細長く切られた肉が詰まっている。ジャーキーだろう。朝の自宅へ帰る途中で買ったもののひとつか、あるいは最初から持っていたのかもしれない。

 

 その袋を見た瞬間、デルタの耳がぴくりと動いた。

 

 紫の瞳が、ほんのわずかにそっちへ流れる。

 

 さっきまで喉元を狙っていたのに、今は袋の中身を見た。あまりにも分かりやすくて、思わず黙る。

 

 ムジナはその変化に気づいて、にやりともせず、むしろ淡々と袋を指先で揺らした。

 

「これ好きでしょ」

「……なんです、それ」

「おつまみ。肉っぽいやつ」

「肉です?」

 

 もう声の温度が違っている。

 

「たぶん」

「たぶんは怪しいです」

「じゃあ自分で確かめる?」

「それも怪しいです」

「でも見てる」

 

 指摘されて、デルタの耳が一度だけ寝た。図星だったらしい。

 

 俺は額へ手を当てたくなった。つい数秒前まで“敵の匂いがするから噛む”という顔をしていた相手が、肉の袋ひとつでここまで揺らぐのか。

 

 バーゲストが後ろで、ほんの小さく息を吐いた。笑ったわけじゃない。だが、笑いを堪えた気配に近い。

 

 デルタはまだ完全には気を許していない。許していないが、視線はもう袋とムジナの手元を往復している。警戒と興味が半々だ。

 

「仮ボス」

「ん?」

「これ、食べていいです?」

「俺に聞くのか」

「一応です」

 

 一応らしい。

 

 ムジナが袋を揺らしたまま、気だるげに言う。

 

「毒とかは入ってないよ」

「そういうこと言うやつが一番怪しいです」

「でもほしいんだ」

「…………」

 

 デルタが黙った。

 

 その沈黙が、雄弁すぎた。

 

 ムジナはそれ以上煽らない。そこが意外だった。もっと面白がって揺さぶるかと思ったのに、あっさりと一歩だけ前へ出て、袋を差し出す。

 

「はい」

「……いいんです?」

「いいよ。別にわたし、そんなので困らないし」

「なんでです」

「初対面で噛まれるの面倒だから」

 

 理由がひどく正直で、かえって変な嘘がない。

 

 デルタは袋を受け取るまで、三回くらい迷った。いや、時間にすれば数秒だろう。けれど、耳が立って伏せてまた立って、尾が揺れて止まって、指先が袋の上でためらって。そういう全部を見ていると、ずいぶん長く感じた。

 

 そして、結局負けた。

 

 袋を受け取る。匂いを嗅ぐ。封を開ける。

 

 その一連の動作が、敵を見定める獣のそれではなく、好物を前にした子供のそれになっている。さっきまでの殺気はどこへ行ったのか。

 

「……肉です」

「肉だね」

「うまそうです」

「でしょ」

 

 ムジナの返事が妙にゆるい。勝ち誇るでもなく、当然みたいな調子だ。たぶん本当に、これでひとまず通ると読んでいたのだろう。

 

 デルタは一本だけ取り出して、まだムジナを見ながら口へ運んだ。まるで“食べても平気かどうか、最後までおまえの前で確認してやるです”と言わんばかりの警戒だ。

 

 噛む。

 

 次の瞬間、耳が立った。

 

「……うまいです」

 正直すぎる感想だった。

 

 ムジナがそこで初めて、面白そうに笑う。

 

「よかった」

「……それで、誤魔化されないです」

「誤魔化してないよ。仲良くしようとしてるだけ」

「雑です」

「雑なくらいの方がやりやすくない?」

「やりやすくないです」

 

 言いながらも、二本目へ手が伸びている。

 

 もう駄目だった。警戒心はまだある。けれど、“敵として噛みつくかどうか”の線は、肉ひと袋であっさり越えてしまったらしい。

 

 俺は思わずため息をついた。

 

「……受け入れるの早いな」

「受け入れてないです」

 デルタは即座に否定する。

「まだ怪しいです。すごく怪しいです。でも、肉は別です」

「別なんだな」

「別です」

 

 筋が通っているような、通っていないような理屈だった。

 

 ムジナは壁際へ軽く寄りかかり、面倒そうに肩を落としたまま、デルタがジャーキーを食べる様子を見ている。視線は穏やかだ。興味がないように見せながら、ちゃんとこちらの空気を読んでいる。

 

「じゃあ、肉の分だけ信用して」

「一割です」

「低いなあ」

「高い方です」

 

 デルタはそう言って、もう一本食べる。尾が、さっきよりずっと機嫌よく揺れていた。完全にごまかされているわけじゃない。それでも、あの剥き出しの警戒がここまで和らいだのは、もう十分なくらいの変化だった。

 

 バーゲストが、静かに口を開く。

 

「少なくとも、初手としては悪くないのでしょう」

「でしょう?」

 

 ムジナがさらりと返す。

 

「こいつ、分かりやすいし」

「こいつ言うなです」

「じゃあ、デルタ」

「……まあ、それならいいです」

 

 もう訂正の勢いまで弱い。

 

 俺はそのやり取りを見ながら、ようやく肩の力が少し抜けているのに気づいた。新しい契約体が増えるたび、空気が張る。今回もきっとそうだと思っていた。実際、デルタが出てきた時はそうなりかけた。けれど、その先が“肉を渡す”になるとは思っていなかった。

 

 ムジナは気だるいくせに、人の欲しいものを差し出すのが上手い。

 デルタは本能に正直すぎる。

 その相性が、今だけは妙にうまく噛み合ったらしい。

 

 デルタが袋を抱え込むように持ったまま、改めてムジナを見る。

 

「……まだ怪しいです」

「うん」

「でも、これくれたのはいいです」

「うん」

「だから、今は噛まないです」

 

 宣言が雑だ。

 

 だが、それはデルタなりの受け入れ方なのだろう。完全に好きになったわけじゃない。信用したわけでもない。ただ、“とりあえず今は敵じゃない”という線まで、一気に転がった。

 

 ムジナはそれを聞いて、小さく肩をすくめた。

 

「十分」

「十分なんだ」

「最初からベタベタされても困るし」

 

 そう言ってから、ムジナはちらりと俺を見る。

 

「あなたのとこ、面白いね」

「そうか?」

「うん。だって、さっきまで噛みそうだったのに」

 

 その通りすぎて、返す言葉がなかった。

 

 デルタはもう一度だけ“まだ怪しいです”と付け足してから、袋の中身を大事そうに覗き込んだ。さっきまで立っていた耳が、今はすっかり機嫌のいい角度に戻っている。

 

 結果として、警戒は肉に負けた。

 

 それが良いことなのかは分からない。分からないが、少なくともこの場の空気が一気に和らいだのは事実だった。

 

 自宅の朝に、新しい女が一人増えた。

 けれど、デルタはその相手を、つまみひと袋でころっと受け入れた。

 

 あまりにもデルタらしくて、少しだけ笑ってしまった。

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