自宅の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
外の朝の冷たさとは別の、もっとぴんと張った気配だ。靴を脱ぐより先に、それが分かる。部屋の奥、寝室代わりにしているスペースの方から、低く押し殺した唸り声が漏れた。
「……誰です、それ」
起きていたらしい。
いや、ただ起きていただけじゃない。警戒で目が冴えている声だ。寝起きの緩さなんて欠片もない。黒い耳が立ち、紫の瞳が細くなるのが、間仕切りの向こうからでも分かった。
デルタがゆっくり出てくる。
髪は少し乱れている。まだ眠気の名残はあるのに、足取りは静かで、爪先にはいつでも飛びかかれるだけの力が乗っていた。視線は俺を素通りして、その後ろ――ムジナへ突き刺さる。
当然だ。
昨日まで敵だった相手が、朝帰りみたいな格好で俺の後ろに立っている。事情を知らされていないデルタからすれば、寝ている間に何が起きたのか分からないまま、知らない女が一人増えているようなものだ。
バーゲストが後ろで扉を閉める。鍵の音が、やけに大きく響いた。
「仮ボス」
デルタの声が低い。
「説明いるです」
「ああ、いる」
俺は靴を揃えながら、一度だけ息を整えた。
「次の対戦相手と遭遇した。戦って、勝った」
「それで?」
デルタの視線は、まったく逸れない。ムジナの喉元を見ている。噛みつくならそこだ、と決めている獣の目だった。
「……所有権が移った」
「ふうん」
短い返事。納得したわけじゃない。言葉として受け取っただけだ。
「つまり、今はこっち側ってことです?」
「そうなる」
「ならないです」
即答だった。
デルタは一歩前へ出る。俺とムジナの間に身体を入れるような位置だ。尾が太く膨らんでいる。怒っている時の癖だと、もう分かるようになっていた。
「敵だったです。怪しいです。こっち側になるの早すぎるです」
「それは、そうだな」
「そうです。仮ボス、そこはちゃんと“そうです”じゃないです」
叱られているような口調だった。いや、実際叱られているのかもしれない。
ムジナは、その一連のやり取りを、少しだけ眠たそうな顔のまま見ていた。気だるげな女だ。緊張していないわけじゃないのに、いかにも面倒そうな空気が先に立つ。そのくせ目だけは、デルタの反応をかなり面白がっている。
「へえ」
ムジナが小さく笑う。
「すごい警戒されてる」
「当たり前です」
デルタがぴしゃりと言う。
「近いです」
「近い?」
「匂いがです。敵の匂いがまだするです。昨日まで噛み合ってた匂いです」
「犬みたい」
「狼です」
訂正は早かった。
ムジナはそこで、ほんの少しだけ目を細める。ふざけているようで、ちゃんとデルタを見ている顔だ。相手の地雷がどこにあるか、どこまで踏み込めるかを測る目でもある。
まずいな、と思った。
このまま二人で喋らせると、たぶん余計にこじれる。デルタは真っ直ぐで、本能的で、敵認定した相手への遠慮がない。ムジナは気だるげなくせに、人の反応を面白がってつつく癖がある。相性は最悪に近い。
間へ入ろうとした、その時だった。
「でも、これあげればいいんじゃない?」
ムジナが、ぽんと小さな袋を持ち上げた。
いつの間に持っていたのか。コンビニのつまみだ。透明な袋の中に、細長く切られた肉が詰まっている。ジャーキーだろう。朝の自宅へ帰る途中で買ったもののひとつか、あるいは最初から持っていたのかもしれない。
その袋を見た瞬間、デルタの耳がぴくりと動いた。
紫の瞳が、ほんのわずかにそっちへ流れる。
さっきまで喉元を狙っていたのに、今は袋の中身を見た。あまりにも分かりやすくて、思わず黙る。
ムジナはその変化に気づいて、にやりともせず、むしろ淡々と袋を指先で揺らした。
「これ好きでしょ」
「……なんです、それ」
「おつまみ。肉っぽいやつ」
「肉です?」
もう声の温度が違っている。
「たぶん」
「たぶんは怪しいです」
「じゃあ自分で確かめる?」
「それも怪しいです」
「でも見てる」
指摘されて、デルタの耳が一度だけ寝た。図星だったらしい。
俺は額へ手を当てたくなった。つい数秒前まで“敵の匂いがするから噛む”という顔をしていた相手が、肉の袋ひとつでここまで揺らぐのか。
バーゲストが後ろで、ほんの小さく息を吐いた。笑ったわけじゃない。だが、笑いを堪えた気配に近い。
デルタはまだ完全には気を許していない。許していないが、視線はもう袋とムジナの手元を往復している。警戒と興味が半々だ。
「仮ボス」
「ん?」
「これ、食べていいです?」
「俺に聞くのか」
「一応です」
一応らしい。
ムジナが袋を揺らしたまま、気だるげに言う。
「毒とかは入ってないよ」
「そういうこと言うやつが一番怪しいです」
「でもほしいんだ」
「…………」
デルタが黙った。
その沈黙が、雄弁すぎた。
ムジナはそれ以上煽らない。そこが意外だった。もっと面白がって揺さぶるかと思ったのに、あっさりと一歩だけ前へ出て、袋を差し出す。
「はい」
「……いいんです?」
「いいよ。別にわたし、そんなので困らないし」
「なんでです」
「初対面で噛まれるの面倒だから」
理由がひどく正直で、かえって変な嘘がない。
デルタは袋を受け取るまで、三回くらい迷った。いや、時間にすれば数秒だろう。けれど、耳が立って伏せてまた立って、尾が揺れて止まって、指先が袋の上でためらって。そういう全部を見ていると、ずいぶん長く感じた。
そして、結局負けた。
袋を受け取る。匂いを嗅ぐ。封を開ける。
その一連の動作が、敵を見定める獣のそれではなく、好物を前にした子供のそれになっている。さっきまでの殺気はどこへ行ったのか。
「……肉です」
「肉だね」
「うまそうです」
「でしょ」
ムジナの返事が妙にゆるい。勝ち誇るでもなく、当然みたいな調子だ。たぶん本当に、これでひとまず通ると読んでいたのだろう。
デルタは一本だけ取り出して、まだムジナを見ながら口へ運んだ。まるで“食べても平気かどうか、最後までおまえの前で確認してやるです”と言わんばかりの警戒だ。
噛む。
次の瞬間、耳が立った。
「……うまいです」
正直すぎる感想だった。
ムジナがそこで初めて、面白そうに笑う。
「よかった」
「……それで、誤魔化されないです」
「誤魔化してないよ。仲良くしようとしてるだけ」
「雑です」
「雑なくらいの方がやりやすくない?」
「やりやすくないです」
言いながらも、二本目へ手が伸びている。
もう駄目だった。警戒心はまだある。けれど、“敵として噛みつくかどうか”の線は、肉ひと袋であっさり越えてしまったらしい。
俺は思わずため息をついた。
「……受け入れるの早いな」
「受け入れてないです」
デルタは即座に否定する。
「まだ怪しいです。すごく怪しいです。でも、肉は別です」
「別なんだな」
「別です」
筋が通っているような、通っていないような理屈だった。
ムジナは壁際へ軽く寄りかかり、面倒そうに肩を落としたまま、デルタがジャーキーを食べる様子を見ている。視線は穏やかだ。興味がないように見せながら、ちゃんとこちらの空気を読んでいる。
「じゃあ、肉の分だけ信用して」
「一割です」
「低いなあ」
「高い方です」
デルタはそう言って、もう一本食べる。尾が、さっきよりずっと機嫌よく揺れていた。完全にごまかされているわけじゃない。それでも、あの剥き出しの警戒がここまで和らいだのは、もう十分なくらいの変化だった。
バーゲストが、静かに口を開く。
「少なくとも、初手としては悪くないのでしょう」
「でしょう?」
ムジナがさらりと返す。
「こいつ、分かりやすいし」
「こいつ言うなです」
「じゃあ、デルタ」
「……まあ、それならいいです」
もう訂正の勢いまで弱い。
俺はそのやり取りを見ながら、ようやく肩の力が少し抜けているのに気づいた。新しい契約体が増えるたび、空気が張る。今回もきっとそうだと思っていた。実際、デルタが出てきた時はそうなりかけた。けれど、その先が“肉を渡す”になるとは思っていなかった。
ムジナは気だるいくせに、人の欲しいものを差し出すのが上手い。
デルタは本能に正直すぎる。
その相性が、今だけは妙にうまく噛み合ったらしい。
デルタが袋を抱え込むように持ったまま、改めてムジナを見る。
「……まだ怪しいです」
「うん」
「でも、これくれたのはいいです」
「うん」
「だから、今は噛まないです」
宣言が雑だ。
だが、それはデルタなりの受け入れ方なのだろう。完全に好きになったわけじゃない。信用したわけでもない。ただ、“とりあえず今は敵じゃない”という線まで、一気に転がった。
ムジナはそれを聞いて、小さく肩をすくめた。
「十分」
「十分なんだ」
「最初からベタベタされても困るし」
そう言ってから、ムジナはちらりと俺を見る。
「あなたのとこ、面白いね」
「そうか?」
「うん。だって、さっきまで噛みそうだったのに」
その通りすぎて、返す言葉がなかった。
デルタはもう一度だけ“まだ怪しいです”と付け足してから、袋の中身を大事そうに覗き込んだ。さっきまで立っていた耳が、今はすっかり機嫌のいい角度に戻っている。
結果として、警戒は肉に負けた。
それが良いことなのかは分からない。分からないが、少なくともこの場の空気が一気に和らいだのは事実だった。
自宅の朝に、新しい女が一人増えた。
けれど、デルタはその相手を、つまみひと袋でころっと受け入れた。
あまりにもデルタらしくて、少しだけ笑ってしまった。