デルタと暮らすようになってから、部屋の中の音が少し変わった。
朝、冷蔵庫を開ける音。包丁がまな板へ当たる、乾いた小さな音。換気扇の下で肉を焼けば、油の弾ける気配に混じって、寝起きの足音が近づいてくる。以前なら一人分で済んでいた食器も、今は二人分を前提に並べるようになった。狭いワンルームの景色そのものは変わっていないのに、そこで流れる時間だけが別物になっている。
「仮ボス、今日は匂いがいいです」
寝癖まじりの黒髪を揺らしながら、デルタが台所の入口へ寄りかかる。耳がぴんと立って、尾がゆっくり床を撫でた。起きてすぐだというのに目だけは妙に冴えていて、紫の瞳がフライパンの上をまっすぐ追っている。
「まだ味付けの段階だぞ」
「分かるです。今日はいつものより、ちょっと濃いです」
「よく分かるな」
「デルタですから」
胸を張るように言ってから、眠気を思い出したみたいに小さくあくびをする。見た目だけなら大人の女だ。腰まで流れる黒髪も、服の上からでも分かる体の丸みも、間違いなくそう見せる。なのに、こうして台所の匂いに釣られて真っ先に顔を出すところや、得意げな言い方の端々には妙に子供っぽいところが残る。
俺は皿へ肉を移しながら、その顔を横目で見る。
「先にスープ飲むか」
「肉からがいいです」
「駄目だ。熱いだろ」
「デルタは強いです」
「舌まで強い保証はない」
そう言うと、デルタは一度だけ不満そうに耳を伏せた。けれど、すぐに「……分かったです」と引く。そのあたり、最初の頃に比べると随分変わった。召喚されたばかりの頃は、俺の言葉を聞くたびに疑って、近づくたびに警戒していた。今でも根のところに獣らしい用心深さは残っているが、少なくともこの部屋の中では、俺の手が自分を害さないことを知っている。
テーブルへ並べた皿の前に座ると、デルタはもう待ちきれないらしく尾を忙しなく動かした。
「いただきます、です」
「どうぞ」
一口目を入れた途端、分かりやすく目が細くなる。そこまではいつも通りだった。違ったのは、その次だ。肉を飲み込んでから、デルタがじっと俺の顔を見る。
「……仮ボス、これ、昨日より好きです」
「そうか」
「昨日のも悪くなかったです。でも、今日はデルタが好きなやつです」
「そうなるようにした」
「知ってるです」
さらっと返されて、俺の方が少し詰まった。
「知ってたのか」
「最近ずっとそうです。味も量も、デルタに合わせてるです」
指摘されると誤魔化しようがない。俺は大袈裟に世話を焼く性格じゃないし、見返りが欲しくてやっているわけでもない。ただ、食事は生活の土台だし、警戒心の強い相手ほど、そこで手を抜くべきじゃないと思っているだけだ。だが、デルタはそういう俺の細かい気の回し方を、思っていた以上にきちんと見ていたらしい。
「嫌だったか?」
「嫌なら食べないです」
そう言って、二口目を頬張る。頬が緩んでいる。機嫌の良さがそのまま耳や尾へ出るから、見ていて分かりやすい。
「でも、いいです」
「なら良かった」
「仮ボスは、そういうところ、変です」
「褒めてるのか、それ」
「半分です」
半分は何なんだ、と聞く前に、デルタはスープまできれいに平らげた。食べ終わると、当然みたいな顔で俺の隣へ来る。最近はそれももう日常だった。ソファへ座れば寄ってくるし、床へ座ればすぐ近くへしゃがむ。離れようとしないくせに、甘え方だけは妙に無造作で、気まぐれに体温を預けてくる。
その日も、食後の水を飲み終えたデルタは、俺が食器を片づけるのを待たず、ソファの背へ腕をかけてこちらを見ていた。
「仮ボス」
「ん?」
「買い物、行くです?」
「夕方に行く。足りないものがあるから」
「デルタも行くです」
「別にいいけど、目立つぞ」
「見られるのは嫌いじゃないです」
それはそうだろうな、と思う。隠れるより、堂々としている方が性に合っている。とはいえ、この世界の人間にとって黒い狼耳と尾はさすがに刺激が強い。結局、外へ出る時はいつもフード付きの上着を羽織らせている。耳と尾をうまく隠しきれはしないが、それでも何もないよりはましだ。
夕方、連れ立って近所の店へ向かう道すがら、デルタはいつもより機嫌が良かった。俺の半歩後ろを歩くでもなく、前を行くでもなく、ときどき肩が触れるくらいの距離を行ったり来たりする。人通りの少ない路地へ入ると、ふいに袖が引かれた。
「仮ボス」
「どうした」
「今日、遅かったです」
「仕事の連絡が長引いただけだ」
「ふうん、です」
返事はそれだけだったが、どこか引っかかる響きだった。けれど、その時は深く考えなかった。
問題は部屋へ戻ってからだった。
買ってきた肉を冷蔵庫へしまい、上着を脱いだところで、デルタがぴたりと動きを止めた。耳が立つ。尾の先が、さっきまでの気ままな揺れをやめる。
「……仮ボス」
「ん?」
「ちょっと、こっち来るです」
言い方は普段通りなのに、声が低い。俺が振り返るより先に、デルタが近づいてきた。鼻先が首元のすぐ近くまで寄る。息が肌に触れる。ぞくりとした。
「デルタ?」
「静かにするです」
小さく言われ、そのまま匂いを確かめられる。首筋から肩、胸元にかけて、獣の嗅覚が丁寧に這うみたいだった。動くなと言われたわけでもないのに、こちらが勝手に息を詰める。
「……少しだけ、他のやつの匂いするです」
「他のやつ?」
「店のやつです。近かったですか?」
なるほど、と思い当たる。買い物の会計で、品物を受け取る時に少し距離が近かったかもしれない。それだけだ。
「そんな大したものじゃない」
「大したです」
即答だった。デルタは顔を上げる。紫の瞳が細く絞られている。怒っている、というより、定めている時の目だった。
「仮ボス、デルタのです」
「……何が」
「今は全部です」
冗談めかして言うには、声が静かすぎた。
俺は言葉を探した。デルタは懐いている。分かっていた。だが、その懐き方が人間の恋愛感情そのままとは限らないことも、ずっと頭のどこかで分かっていた。群れの感覚、縄張りの感覚、自分が認めた相手を自分の側へ置いておきたいという本能。そういうものが混ざっている。
「……気に入らないのか」
「気に入らないです」
きっぱりと言ってから、デルタは俺の服の胸元へ頬を押しつけた。黒髪が擦れる。柔らかな感触と、獣めいた熱が一度に来て、心臓が嫌なくらい跳ねた。
「デルタ」
「動かないです」
「いや、動かないけど」
動けない、が正しいかもしれない。腕へ細い指が絡みついているだけなのに、逃がす気のなさがはっきり伝わる。
「仮ボス、優しいです」
「今その話をするのか?」
「するです。優しいし、変に触らないし、ちゃんと食べさせるです」
「……ああ」
「安心できるです」
胸元へ顔を埋めたまま、デルタが低く続ける。
「だから、デルタは懐いたです」
「知ってる」
「でも、それだけじゃないです」
そこで、頬を押しつけていた顔がゆっくり上がった。すぐ目の前に紫の瞳がある。さっきまでの不満そうな色はもう消えていた。代わりに、獲物へにじり寄る直前の静かな集中だけが残っている。
その目に、ぞくりとした。
甘えてくる時のデルタは分かりやすい。耳も尾もご機嫌に動くし、機嫌の良さが全身へ出る。だが今は違う。静かだ。尾の揺れさえ止まっている。近づく距離も、呼吸の浅さも、全部が何かを見定めるために研ぎ澄まされている。
「デルタは、仮ボスが好きです」
「……そうか」
真っ直ぐ言われると、受け止める側の方が動揺する。
「でも、優しいから好きなんじゃないです」
「それはまた、厳しいな」
「優しいだけなら、つまらないです」
言葉は無邪気なのに、視線は鋭い。
「仮ボス、逃げないです。怖がっても、ちゃんとこっち見るです。嫌なことはしないけど、いなくならないです」
「それは……」
「そういうの、好きです」
好き。二度目なのに、一度目より重い。
デルタは俺の膝へ手を置き、そのままゆっくり体重を預けてきた。胸が腕へ当たる。柔らかい、なんて感想を持つ自分に軽く嫌気が差す。それでも意識しない方が無理だった。距離が近すぎる。近すぎるのに、こちらが一歩でも雑に動けば、今のデルタはすぐ気づく。そんな緊張感があった。
「仮ボス」
「……ん」
「逃げないです?」
「逃げない」
「ほんとです?」
「ほんとだ」
答えると、デルタは満足そうに目を細めた。けれど、その笑みは甘える時のものとは少し違う。口元だけが緩んでいて、目はまだこちらを見据えている。
「なら、いいです」
耳元で囁かれる。吐息がかかる。次の瞬間、首筋へ鼻先が触れた。噛みつくわけじゃない。舐めるわけでもない。ただ、そこへ自分の匂いを移すみたいに、ゆっくり擦り寄る。
息を呑んだ俺に、デルタが小さく笑った。
「仮ボス、赤いです」
「……おまえのせいだろ」
「知ってるです」
そこでようやく、尾が一度だけ満足そうに揺れた。
「デルタ、懐いたです」
「ああ」
「いっぱい懐いたです」
言いながら、さらに距離を詰める。膝の上に乗る一歩手前の位置で止まり、俺の反応を待つ。試しているんだろう。どこまで来ても拒まれないか、どこまでなら許されるか。
俺は迷った末、そっと髪へ手を伸ばした。触れた瞬間、デルタの耳がぴくりと動く。嫌がる様子はない。だから、黒髪を梳くように指を通した。丁寧に、急がずに。
「……それ、好きです」
「分かってきた」
「もっと分かるです。デルタのこと」
その言い方に、妙な含みがあった。
「代わりに、デルタも仮ボスのこと分かるです」
「何をだよ」
「どこが弱いか、どこで揺れるか、どこまで追い詰めたら、ちゃんとこっち見るか、です」
心臓がどくりと鳴る。
恋人に向ける言葉としてはおかしい。けれど、デルタにとってはそれが自然なんだろう。安心できる相手。逃がしたくない相手。群れに入れたい相手。そういうものを、獣は獣のやり方で測る。
「……それ、獲物相手みたいだな」
「そうです」
あっさり認めて、デルタは笑った。
「でも、食べないです」
「それは助かる」
「食べないで、ずっと見るです」
そう言って見上げてくる表情に、今度こそ息が止まりそうになった。
懐いている。間違いなく、懐いている。食事をねだる時も、眠そうに隣へ寄ってくる時も、その温度はもう十分に知っていた。けれど今のデルタは、その先にいる。ただ安心して、ただ甘えているだけじゃない。認めた相手を、自分のものとして定める段階に入っている。
紫の瞳が細くなる。獲物へ飛びかかる直前、最後の距離を測るみたいな目だった。
「仮ボス」
「……何だ」
「明日も一緒です」
「予定はそのつもりだけど」
「違うです」
デルタは俺の胸へ指先を当てる。
「デルタが決めたです。だから、一緒です」
その理屈はめちゃくちゃだ。なのに、笑えなかった。近い。熱い。目が離せない。
俺が何も返せずにいると、デルタは満足したみたいに鼻を鳴らし、最後に首を傾けた。
「安心する顔してるのに、ちょっと怖がってるです」
「……そりゃ、今のおまえの顔見たらな」
「いいです」
耳が立つ。尾がゆっくりと一度だけ揺れる。
「その顔も、好きです」
そうして、彼女はまた俺の肩へ寄りかかった。体温はいつも通り柔らかい。髪も、耳も、尾も、俺が知っているデルタのままだ。
ただ、さっき目が合った時だけは違った。
懐いた獣が、ようやく自分の獲物を定めた。そんな顔をしていた。
そして多分、あれは見間違いじゃない。