※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

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本能

 デルタと暮らすようになってから、部屋の中の音が少し変わった。

 

 朝、冷蔵庫を開ける音。包丁がまな板へ当たる、乾いた小さな音。換気扇の下で肉を焼けば、油の弾ける気配に混じって、寝起きの足音が近づいてくる。以前なら一人分で済んでいた食器も、今は二人分を前提に並べるようになった。狭いワンルームの景色そのものは変わっていないのに、そこで流れる時間だけが別物になっている。

 

「仮ボス、今日は匂いがいいです」

 

 寝癖まじりの黒髪を揺らしながら、デルタが台所の入口へ寄りかかる。耳がぴんと立って、尾がゆっくり床を撫でた。起きてすぐだというのに目だけは妙に冴えていて、紫の瞳がフライパンの上をまっすぐ追っている。

 

「まだ味付けの段階だぞ」

「分かるです。今日はいつものより、ちょっと濃いです」

「よく分かるな」

「デルタですから」

 

 胸を張るように言ってから、眠気を思い出したみたいに小さくあくびをする。見た目だけなら大人の女だ。腰まで流れる黒髪も、服の上からでも分かる体の丸みも、間違いなくそう見せる。なのに、こうして台所の匂いに釣られて真っ先に顔を出すところや、得意げな言い方の端々には妙に子供っぽいところが残る。

 

 俺は皿へ肉を移しながら、その顔を横目で見る。

 

「先にスープ飲むか」

「肉からがいいです」

「駄目だ。熱いだろ」

「デルタは強いです」

「舌まで強い保証はない」

 

 そう言うと、デルタは一度だけ不満そうに耳を伏せた。けれど、すぐに「……分かったです」と引く。そのあたり、最初の頃に比べると随分変わった。召喚されたばかりの頃は、俺の言葉を聞くたびに疑って、近づくたびに警戒していた。今でも根のところに獣らしい用心深さは残っているが、少なくともこの部屋の中では、俺の手が自分を害さないことを知っている。

 

 テーブルへ並べた皿の前に座ると、デルタはもう待ちきれないらしく尾を忙しなく動かした。

 

「いただきます、です」

「どうぞ」

 

 一口目を入れた途端、分かりやすく目が細くなる。そこまではいつも通りだった。違ったのは、その次だ。肉を飲み込んでから、デルタがじっと俺の顔を見る。

 

「……仮ボス、これ、昨日より好きです」

「そうか」

「昨日のも悪くなかったです。でも、今日はデルタが好きなやつです」

「そうなるようにした」

「知ってるです」

 

 さらっと返されて、俺の方が少し詰まった。

 

「知ってたのか」

「最近ずっとそうです。味も量も、デルタに合わせてるです」

 

 指摘されると誤魔化しようがない。俺は大袈裟に世話を焼く性格じゃないし、見返りが欲しくてやっているわけでもない。ただ、食事は生活の土台だし、警戒心の強い相手ほど、そこで手を抜くべきじゃないと思っているだけだ。だが、デルタはそういう俺の細かい気の回し方を、思っていた以上にきちんと見ていたらしい。

 

「嫌だったか?」

「嫌なら食べないです」

 

 そう言って、二口目を頬張る。頬が緩んでいる。機嫌の良さがそのまま耳や尾へ出るから、見ていて分かりやすい。

 

「でも、いいです」

「なら良かった」

「仮ボスは、そういうところ、変です」

「褒めてるのか、それ」

「半分です」

 

 半分は何なんだ、と聞く前に、デルタはスープまできれいに平らげた。食べ終わると、当然みたいな顔で俺の隣へ来る。最近はそれももう日常だった。ソファへ座れば寄ってくるし、床へ座ればすぐ近くへしゃがむ。離れようとしないくせに、甘え方だけは妙に無造作で、気まぐれに体温を預けてくる。

 

 その日も、食後の水を飲み終えたデルタは、俺が食器を片づけるのを待たず、ソファの背へ腕をかけてこちらを見ていた。

 

「仮ボス」

「ん?」

「買い物、行くです?」

「夕方に行く。足りないものがあるから」

「デルタも行くです」

「別にいいけど、目立つぞ」

「見られるのは嫌いじゃないです」

 

 それはそうだろうな、と思う。隠れるより、堂々としている方が性に合っている。とはいえ、この世界の人間にとって黒い狼耳と尾はさすがに刺激が強い。結局、外へ出る時はいつもフード付きの上着を羽織らせている。耳と尾をうまく隠しきれはしないが、それでも何もないよりはましだ。

 

 夕方、連れ立って近所の店へ向かう道すがら、デルタはいつもより機嫌が良かった。俺の半歩後ろを歩くでもなく、前を行くでもなく、ときどき肩が触れるくらいの距離を行ったり来たりする。人通りの少ない路地へ入ると、ふいに袖が引かれた。

 

「仮ボス」

「どうした」

「今日、遅かったです」

「仕事の連絡が長引いただけだ」

「ふうん、です」

 

 返事はそれだけだったが、どこか引っかかる響きだった。けれど、その時は深く考えなかった。

 

 問題は部屋へ戻ってからだった。

 

 買ってきた肉を冷蔵庫へしまい、上着を脱いだところで、デルタがぴたりと動きを止めた。耳が立つ。尾の先が、さっきまでの気ままな揺れをやめる。

 

「……仮ボス」

「ん?」

「ちょっと、こっち来るです」

 

 言い方は普段通りなのに、声が低い。俺が振り返るより先に、デルタが近づいてきた。鼻先が首元のすぐ近くまで寄る。息が肌に触れる。ぞくりとした。

 

「デルタ?」

「静かにするです」

 

 小さく言われ、そのまま匂いを確かめられる。首筋から肩、胸元にかけて、獣の嗅覚が丁寧に這うみたいだった。動くなと言われたわけでもないのに、こちらが勝手に息を詰める。

 

「……少しだけ、他のやつの匂いするです」

「他のやつ?」

「店のやつです。近かったですか?」

 

 なるほど、と思い当たる。買い物の会計で、品物を受け取る時に少し距離が近かったかもしれない。それだけだ。

 

「そんな大したものじゃない」

「大したです」

 

 即答だった。デルタは顔を上げる。紫の瞳が細く絞られている。怒っている、というより、定めている時の目だった。

 

「仮ボス、デルタのです」

「……何が」

「今は全部です」

 

 冗談めかして言うには、声が静かすぎた。

 

 俺は言葉を探した。デルタは懐いている。分かっていた。だが、その懐き方が人間の恋愛感情そのままとは限らないことも、ずっと頭のどこかで分かっていた。群れの感覚、縄張りの感覚、自分が認めた相手を自分の側へ置いておきたいという本能。そういうものが混ざっている。

 

「……気に入らないのか」

「気に入らないです」

 

 きっぱりと言ってから、デルタは俺の服の胸元へ頬を押しつけた。黒髪が擦れる。柔らかな感触と、獣めいた熱が一度に来て、心臓が嫌なくらい跳ねた。

 

「デルタ」

「動かないです」

「いや、動かないけど」

 

 動けない、が正しいかもしれない。腕へ細い指が絡みついているだけなのに、逃がす気のなさがはっきり伝わる。

 

「仮ボス、優しいです」

「今その話をするのか?」

「するです。優しいし、変に触らないし、ちゃんと食べさせるです」

「……ああ」

「安心できるです」

 

 胸元へ顔を埋めたまま、デルタが低く続ける。

 

「だから、デルタは懐いたです」

「知ってる」

「でも、それだけじゃないです」

 

 そこで、頬を押しつけていた顔がゆっくり上がった。すぐ目の前に紫の瞳がある。さっきまでの不満そうな色はもう消えていた。代わりに、獲物へにじり寄る直前の静かな集中だけが残っている。

 

 その目に、ぞくりとした。

 

 甘えてくる時のデルタは分かりやすい。耳も尾もご機嫌に動くし、機嫌の良さが全身へ出る。だが今は違う。静かだ。尾の揺れさえ止まっている。近づく距離も、呼吸の浅さも、全部が何かを見定めるために研ぎ澄まされている。

 

「デルタは、仮ボスが好きです」

「……そうか」

 

 真っ直ぐ言われると、受け止める側の方が動揺する。

 

「でも、優しいから好きなんじゃないです」

「それはまた、厳しいな」

「優しいだけなら、つまらないです」

 

 言葉は無邪気なのに、視線は鋭い。

 

「仮ボス、逃げないです。怖がっても、ちゃんとこっち見るです。嫌なことはしないけど、いなくならないです」

「それは……」

「そういうの、好きです」

 

 好き。二度目なのに、一度目より重い。

 

 デルタは俺の膝へ手を置き、そのままゆっくり体重を預けてきた。胸が腕へ当たる。柔らかい、なんて感想を持つ自分に軽く嫌気が差す。それでも意識しない方が無理だった。距離が近すぎる。近すぎるのに、こちらが一歩でも雑に動けば、今のデルタはすぐ気づく。そんな緊張感があった。

 

「仮ボス」

「……ん」

「逃げないです?」

「逃げない」

「ほんとです?」

「ほんとだ」

 

 答えると、デルタは満足そうに目を細めた。けれど、その笑みは甘える時のものとは少し違う。口元だけが緩んでいて、目はまだこちらを見据えている。

 

「なら、いいです」

 

 耳元で囁かれる。吐息がかかる。次の瞬間、首筋へ鼻先が触れた。噛みつくわけじゃない。舐めるわけでもない。ただ、そこへ自分の匂いを移すみたいに、ゆっくり擦り寄る。

 

 息を呑んだ俺に、デルタが小さく笑った。

 

「仮ボス、赤いです」

「……おまえのせいだろ」

「知ってるです」

 

 そこでようやく、尾が一度だけ満足そうに揺れた。

 

「デルタ、懐いたです」

「ああ」

「いっぱい懐いたです」

 

 言いながら、さらに距離を詰める。膝の上に乗る一歩手前の位置で止まり、俺の反応を待つ。試しているんだろう。どこまで来ても拒まれないか、どこまでなら許されるか。

 

 俺は迷った末、そっと髪へ手を伸ばした。触れた瞬間、デルタの耳がぴくりと動く。嫌がる様子はない。だから、黒髪を梳くように指を通した。丁寧に、急がずに。

 

「……それ、好きです」

「分かってきた」

「もっと分かるです。デルタのこと」

 

 その言い方に、妙な含みがあった。

 

「代わりに、デルタも仮ボスのこと分かるです」

「何をだよ」

「どこが弱いか、どこで揺れるか、どこまで追い詰めたら、ちゃんとこっち見るか、です」

 

 心臓がどくりと鳴る。

 

 恋人に向ける言葉としてはおかしい。けれど、デルタにとってはそれが自然なんだろう。安心できる相手。逃がしたくない相手。群れに入れたい相手。そういうものを、獣は獣のやり方で測る。

 

「……それ、獲物相手みたいだな」

「そうです」

 

 あっさり認めて、デルタは笑った。

 

「でも、食べないです」

「それは助かる」

「食べないで、ずっと見るです」

 

 そう言って見上げてくる表情に、今度こそ息が止まりそうになった。

 

 懐いている。間違いなく、懐いている。食事をねだる時も、眠そうに隣へ寄ってくる時も、その温度はもう十分に知っていた。けれど今のデルタは、その先にいる。ただ安心して、ただ甘えているだけじゃない。認めた相手を、自分のものとして定める段階に入っている。

 

 紫の瞳が細くなる。獲物へ飛びかかる直前、最後の距離を測るみたいな目だった。

 

「仮ボス」

「……何だ」

「明日も一緒です」

「予定はそのつもりだけど」

「違うです」

 

 デルタは俺の胸へ指先を当てる。

 

「デルタが決めたです。だから、一緒です」

 

 その理屈はめちゃくちゃだ。なのに、笑えなかった。近い。熱い。目が離せない。

 

 俺が何も返せずにいると、デルタは満足したみたいに鼻を鳴らし、最後に首を傾けた。

 

「安心する顔してるのに、ちょっと怖がってるです」

「……そりゃ、今のおまえの顔見たらな」

「いいです」

 

 耳が立つ。尾がゆっくりと一度だけ揺れる。

 

「その顔も、好きです」

 

 そうして、彼女はまた俺の肩へ寄りかかった。体温はいつも通り柔らかい。髪も、耳も、尾も、俺が知っているデルタのままだ。

 

 ただ、さっき目が合った時だけは違った。

 

 懐いた獣が、ようやく自分の獲物を定めた。そんな顔をしていた。

 

 そして多分、あれは見間違いじゃない。

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