四人分の鍋になると、いつもの卓上コンロが少し頼りなく見えた。
鍋の底で昆布だしが静かに揺れている。まだ煮立つ手前だ。白い湯気が薄く立ちのぼり、部屋の天井でほどけていく。その匂いだけで、昼とも夜ともつかない妙な時間の空気が、少しずつ生活のものへ戻っていく気がした。
テーブルの上には、切った野菜と肉の皿を並べてある。白菜、長ねぎ、春菊、きのこ、豆腐。豚肉と鶏肉も多めに買ってきた。四人いるのだから当然だが、見慣れた一人分や二人分とは量の景色が違う。その違いが、部屋の狭さよりも先に、今の状況を現実だと教えてくる。
「まだです?」
デルタが、鍋の湯気を睨みながら言った。椅子にはちゃんと座っているのに、上体だけが前のめりになっている。耳はぴんと立ち、尾は落ち着きなく椅子の脚へ当たっていた。
「まだだ。肉は煮えてない」
「見れば分かるです」
「じゃあ聞くな」
そう返すと、デルタは少しだけ頬を膨らませた。大人びた顔立ちでそれをやるから、余計に子供っぽく見える。だが、次の瞬間にはもう皿の肉へ視線が移っている。鍋の時のデルタは、ほとんど腹を空かせた獣の観察そのものだった。
向かい側では、ムジナが頬杖をついていた。気だるげな顔で、並んだ野菜をひとつずつ眺めている。
「へえ。ちゃんと鍋なんだ」
「ちゃんと鍋って何だ」
「もっと適当に、肉だけ突っ込むのかと思った」
「俺を何だと思ってる」
「わりと丁寧な人」
ムジナはそう言って、きのこの皿を指先で寄せた。動作はゆるいのに、欲しいものへ手を伸ばすのに迷いがない。
「わたし、えのき好き」
「意外だな」
「そう?」
「もっと肉一択かと思った」
「それ、そっち」
視線だけでデルタを示す。デルタは即座に反応した。
「肉は大事です」
「ほらね」
「きのこで腹はふくれないです」
「でも鍋のきのこおいしいよ」
「肉の方がうまいです」
「話通じないなあ」
言いながらも、ムジナは面白そうだった。だるそうな空気は抜けないが、卓上の小さなやり取りをちゃんと拾っている。相手の反応を見るのが好きなのだろう。敵として対峙していた時の不気味さが、こうして鍋を囲むと別の方向へ顔を出してくる。
バーゲストはというと、その隣で鍋の火加減を見ていた。
「沸きすぎると、最初の葉物が崩れます」
「……もう見てるのか」
「はい。鍋は順序が重要でしょう」
真顔で言われると、妙に説得力がある。バーゲストは箸を手にしたまま、鍋全体をひとつの布陣みたいに眺めていた。どこへ何を入れるか、誰にどれを渡すか、その全部を頭の中で組み立てている顔だ。
「まずは白菜とねぎからでしょう。だしへ甘みが出ます」
「肉は?」
デルタがすぐ訊く。
「まだです」
「まだですか」
「まだです」
返しが一切揺るがない。デルタは明らかに不満そうだったが、バーゲストが鍋奉行の顔をしている時だけは、真正面から噛みつかない。強さの問題なのか、押し切れないと本能が判断しているのかは分からないが、その辺りの線引きは妙に正確だ。
俺はその様子を見ながら、刻んだ豆腐を皿ごと少し手前へ寄せた。
「じゃあ、最初は任せる」
「承知しました」
それだけで、バーゲストは本当に任された顔になる。白菜を箸で広げ、ねぎを散らし、豆腐を崩さないよう端へ落とす。動きが丁寧だ。騎士の立ち居振る舞いが鍋へ流れ込むと、こういう手つきになるのかと変なところで感心する。
ムジナが湯気を眺めながら言う。
「なんか、ちゃんとしてるね」
「バーゲストですから」
デルタが、妙に得意げに言う。
「なんでおまえが誇るんだ」
「なんとなくです」
適当な答えだが、それでも少し空気が和らぐ。こうして四人で鍋を囲んでいること自体、数日前の俺なら想像もしなかった。デルタと二人になった時点で十分に異常だったのに、今はそこへバーゲストとムジナまで増えている。それなのに、目の前にあるのはひどく生活感のある鍋だ。
ぐつぐつ、とだしがようやく本格的に音を立て始めた。湯気の匂いが強くなる。白菜の青い匂い、ねぎの甘さ、昆布の輪郭。その全部に、デルタの耳がまたぴくりと動いた。
「そろそろです」
「まだだ」
「今度はいいです」
「肉を入れてからだ」
「じゃあ早く入れるです」
我慢が限界らしい。ムジナがそこで笑いを噛み殺した。
「ほんと分かりやすいね」
「うるさいです」
「褒めてるのに」
「褒めてないです」
「褒めてるよ」
「肉の前ではみんな正直です」
デルタは真剣な顔でそう言った。たぶん本人の中では、立派な持論なのだろう。バーゲストが少しだけ目を伏せる。笑ったのを隠した気配だった。
「では、そろそろ肉を」
「待ってたです!」
途端に椅子が鳴る。デルタの上体がもう一段前へ出た。バーゲストはそれを当然のように無視し、豚肉を一枚ずつ広げて沈めていく。鶏肉も加わり、だしの匂いがぐっと濃くなる。そこでようやく、鍋らしい景色になった。
ムジナは肉より先に、えのきへ箸を伸ばした。
「わたし、これ」
「そんなにきのこ好きなのか」
「うん。噛んだ時の感じが好き」
「変です」
デルタが即座に言う。
「変じゃないよ。そっちは肉ばっかりでしょ」
「肉は裏切らないです」
「何その信頼」
「本当です」
真顔で返されると、ムジナもそれ以上は笑うしかないらしい。
バーゲストは最初の肉を見極めると、迷いなくデルタの小皿へ入れた。次に俺、次にムジナ。最後に自分の分を取る。その順番に、自然と彼女の性格が出ていた。まず周りへ配り、自分は最後。騎士らしいというか、世話役が板についているというか。
「熱いので気をつけてください」
「分かってるです」
言いながら、デルタはもう口へ運んでいた。
「あつ」
即座に舌へ来たらしい。けれど吐き出さず、ふーふーと息をかけるようにしながら飲み込む。その様子があまりにも予想通りで、ムジナが今度こそ声を出して笑った。
「だから言ったのに」
「うまいです」
「聞いてない」
「うまいです」
大事なことだから二回言ったのだろう。デルタの尾が機嫌よく揺れ始める。鍋の場では、その動きが感情の翻訳みたいなものだった。
俺も肉をひと口食べる。温かい。うまい。ひどく当たり前の感想なのに、その当たり前が今は少しだけ沁みる。昨夜までの張りつめ方が、鍋の湯気と一緒に少しずつほどけていく感じがあった。
ムジナはえのきと豆腐、それから少し遅れて肉を取る。だが、食べ方そのものは意外と雑ではない。気だるげなくせに、熱いものをちゃんと冷ましてから口へ運ぶし、気に入ったものは静かに二回目を取る。好みがはっきりしているだけで、行儀が悪いわけではないらしい。
「……おいしい」
小さく呟く。
「でしょ」
答えたのはなぜかデルタだった。
「なんでおまえが返事するんだ」
「うまいのは事実です」
「まあ、そうだけど」
「仮ボスの鍋です」
今度はバーゲストが静かに言う。
「味が整っている」
「そういう褒め方なんだな」
「事実です」
真顔が二人続くと、変に照れくさい。だが悪い気はしなかった。
鍋は順調に減っていく。白菜が柔らかくなり、春菊の匂いが立ち、肉の脂がだしへ溶ける。デルタは相変わらず肉中心だが、バーゲストが野菜も小皿へ入れると、ちゃんと食べる。渋々ではあるが食べる。その辺りも、鍋奉行への従属が見えて可笑しい。
「春菊も必要です」
「肉の方が必要です」
「両方です」
「……分かったです」
その返事の速さに、ムジナがまた笑う。
「バーゲストには逆らわないんだ」
「逆らってないです」
「今のが?」
「ちゃんと食べたです」
「それはそう」
ムジナはそう言ってから、ふいに鍋の湯気越しに俺を見る。
「これから、どうするの」
問いは軽い。だが、中身は軽くない。箸は止まっていないのに、その目だけはちゃんとこちらを見ている。
バーゲストも、デルタも、自然と動きを少しだけ緩めた。鍋の音だけが、ぐつぐつと小さく鳴る。
そうだ。今日は鍋を食べるだけじゃ終わらない。四人になった以上、これからのことを考えないわけにはいかない。
俺は湯気の向こうを見ながら、少しだけ息を整えた。
「まず、情報を整理する」
「真面目」
ムジナが言う。
「他にやることがない」
「あるです。食べるです」
「それは今やってる」
「大事です」
「それも分かってる」
デルタの割り込みに、少しだけ肩の力が抜けた。完全に沈んだ話し合いになるのを、こいつはたぶん本能的に嫌うのだろう。
バーゲストが、鍋へ豆腐を足しながら口を開く。
「次の戦闘までに、戦力の把握は必要でしょう」
「ああ。おまえとムジナの能力、デルタの動き方、役割分担も含めて」
「わたし、役割とかあるんだ」
ムジナが面白そうに言う。
「あるだろ。ない方が困る」
「そっか」
気だるげなまま、でも少し嬉しそうだった。役割を与えられることが、あいつにはそれなりに意味を持つらしい。
デルタは肉を飲み込んでから、はっきりと言った。
「デルタは前に出るです」
「それは知ってる」
「知ってるならいいです」
「雑だな」
「雑じゃないです。本当です」
そこへバーゲストが淡々と重ねる。
「私も前衛でしょう。ただし、正面からの制圧と受けを担える」
「だろうな」
「ムジナは後方制御型」
バーゲストが視線を向ける。
「攪乱、牽制、環境操作。視線条件の補助がいるなら、そこも含めて」
「うわ、ちゃんと考えてる」
「当然です」
「なんか、軍議っぽいね」
「鍋を囲んでいますが」
「そこが変なだけ」
ムジナはそう言って、豆腐をひとつ取った。気だるげな態度は崩さないが、話そのものはちゃんと聞いている。鍋をつつきながら役割分担を考えている状況は確かに妙だが、今の俺たちにはむしろそれくらいがちょうどいいのかもしれない。
俺は湯気の向こうで揺れる三人の顔を見た。
デルタは肉。
バーゲストは全体。
ムジナは会話と空気。
同じ鍋を囲んでいても、見ているものが違う。それがそのまま性格になって出ていた。
そして、自分もまた、自然に“この先”を考え始めていることに気づく。昨夜までの俺なら、もっと重いところへ沈んでいたはずだ。だが今は、鍋の湯気の向こうで、何を準備し、どう生き延びるかを少しずつ考えられている。
ムジナが、最後にぽつりと言った。
「まあ、しばらくは面白くなりそう」
「面白がるなです」
「だって、そうでしょ」
「……否定はしない」
そう返すと、ムジナは少しだけ笑った。
鍋はまだ温かい。
話はまだまとまらない。
けれど、四人で同じ湯気を囲みながら、これからのことをゆっくり考え始めるには、それで十分だった。