鍋の翌日、昼を少し回った頃だった。
自宅の空気はようやく落ち着きを取り戻し始めていた。バーゲストは台所の片づけを終え、デルタは満腹と暖かさに負けて、またベッドへ転がり込んでいる。ムジナだけが、窓の外を眺めたまま、いつになく静かだった。
最初に異変へ気づいたのは、そのムジナだった。
「……なんか、やだな」
気の抜けた声だった。けれど、その言い方の奥に、いつもの怠さとは違う引っかかりがある。
俺はスマホから顔を上げた。
「何がだ?」
ムジナは答える前に、床を一度だけ見た。裸足の足裏で、何かを探るみたいに。
「地面」
「地面?」
「うん。変。脈、打ってるみたい」
言われてすぐには意味が分からなかった。脈を打つ、なんて表現は人間の体か、せいぜい機械の振動に使うものだ。床はただの床で、ワンルームの安アパートらしい頼りない板の感触しかない。
それでも、ムジナの顔は冗談を言うものじゃなかった。相変わらず気だるそうな目をしているのに、その焦点だけは妙に鋭い。
「怪獣が出る前に、たまにこういう感じあったんだよね」
「……怪獣、ね」
今のムジナを相棒として見ているからこそ、その単語の重みが分かる。ムジナにとって怪獣は、ただの大きい化け物じゃない。自分の力の起点であり、戦場を変えるものだ。そのムジナが「怪獣みたい」と言うなら、無視はできない。
俺が腰を上げると、台所の方にいたバーゲストもこちらを向いた。
「異常ですか」
「ああ、たぶん」
「出るです?」
寝ていたはずのデルタが、いつの間にか顔だけ出していた。目は半分閉じているが、耳だけはしっかり立っている。戦いの匂いだけは、眠気より先に拾うらしい。
少し迷った末、俺は首を振った。
「今回は俺とムジナで行く」
「なんでです」
「様子見だ。まだ何があるか分からない」
デルタは露骨に不満そうな顔をした。だが、起き上がってこないあたり、本気で止めるつもりまではないのだろう。代わりに、ベッドの上からムジナを睨んだ。
「変なのいたら、呼ぶです」
「んー、分かった」
「分かってない声です」
「だいたい分かってるって」
ムジナはそう言って、立ち上がった。相変わらず力の抜けた仕草なのに、立つだけで空気が変わる。気だるげな女であるのと同時に、戦場へ足を踏み入れる側の人間でもある。その二重さは、まだ見ていて慣れない。
バーゲストが短く言う。
「無理はしないでください」
「おまえも、だ」
そう返して、俺たちは部屋を出た。
*
河川敷の再開発工事現場へ向かうにつれ、ムジナの歩く速度は自然と落ちた。
最初は気のせいかと思った。けれど違う。あいつは周囲の景色を見ているわけじゃない。もっと下――地面そのものへ意識を向けている。時折、靴先でアスファルトを軽く蹴り、護岸のコンクリの継ぎ目を見つめ、川沿いへ視線を流す。
「そんなに分かるものか」
俺が訊くと、ムジナは少しだけ肩をすくめた。
「分かるっていうか、気持ち悪い」
「気持ち悪い?」
「下で、なんか動いてる感じ。見えないのに、見られてるみたい」
その答えを聞いた時、ようやく俺も異変を拾えた。
風は弱いのに、工事用のフェンスの足元に溜まった砂だけが、細かく震えている。水たまりの表面が、波紋でもない揺れ方で小さく歪む。地震の前触れと言うには局地的すぎて、もっと意図的だ。
ムジナが立ち止まった。
「近い」
目の前には、河川敷の一角を囲うように設置された再開発用の仮囲いがある。鉄骨、積み上げた土砂、シートの掛かった資材。昼の光の下で見れば、ただの工事現場だ。だが、そこだけ空気が重い。土が、眠りながらこちらの足音を聞いているような嫌な静けさがある。
「入るぞ」
「うん」
フェンスの隙間から中へ入った瞬間、足元の感触が変わった。
踏みしめた土が、わずかに沈んだのだ。ぬかるんでいるわけじゃない。踏んだ場所だけが、こちらの体重に応じて沈むのではなく、少し遅れて返してくる。まるで、下にある何かがこちらを確かめてから反応しているみたいだった。
ムジナが低く呟く。
「……これ、好きじゃないな」
珍しいと思った。普段のムジナは、面白そうなものがあれば面倒そうな顔で近寄る。嫌い、と即座に切るのは本当に珍しい。
その理由は、すぐに分かった。
土の中から、腕が生えた。
いきなりだった。湿った土が盛り上がり、その中から泥でできた腕が一本、ぬらりと伸びる。指がある。節もある。人の腕を真似た形なのに、皮膚の代わりに泥がぬめっているせいで、生理的にひどく気味が悪い。
「っ!」
反射で身構えた俺の横で、ムジナが一歩前へ出る。
泥の腕がこちらへ伸びた、その途中で、ぴたりと止まった。
止まった、という表現で足りるか分からない。空中で、何か見えない壁へ押し付けられたみたいに硬直したのだ。指先がわずかに震えているのに、前へ進めない。
ムジナの目が細い。
「……やっぱ、近い」
「何をした」
「止めた」
短い答えだった。だが、その声には少しだけ無理が混じっている。楽にやっているわけじゃない。
その時、現場の奥で土が大きく脈打った。
重機のタイヤ跡が入った泥地が盛り上がり、そこからゆっくりと、一人の女が姿を現す。褐色の肌、二本の角、白い翼。派手な見た目のはずなのに、立ち姿そのものは妙なほど静かだった。怒鳴りもしない。威嚇もしない。ただ、その場に立っただけで、重い。
壌竜。
名前を知らなくても、そう呼ぶしかない気配だった。
その少し後ろ、資材置き場の高いパレットの上に男がいる。腕を組み、こちらを見下ろしている。露骨に笑ってはいないが、状況を楽しむ目をしていた。
「なるほど」
男が先に口を開いた。
「噂通りだな。妙な連中を引き寄せる」
壌竜は短くこちらを見た。その視線が、まず俺ではなくムジナへ向く。
「……止めるか」
低い声だった。
「面白い」
ムジナが鼻で笑う。
「そっちこそ。怪獣じゃないのに、怪獣みたい」
「怪獣ではない」
「でも、近い」
その言い方が、妙にしっくり来た。ムジナにとって怪獣とは、単なる呼び名じゃない。自分の力が届くかどうかの境界線なのだろう。そして壌竜は、その境界のすぐそばにいる。
男がスマホを見下ろしながら言う。
「なら試せるな。壌竜」
壌竜が一歩、踏み出す。
その瞬間、ムジナの空気が変わった。肩の力は抜けたままなのに、目だけがぴたりと壌竜へ固定される。すると、踏み出したはずの壌竜の脚が、その途中で止まった。
止まったのは脚だけじゃない。拳を作った腕も、翼の角度も、そのままだ。動こうとしている途中の姿勢で、全部が固められたように静止している。
「……っ」
ムジナが小さく息を漏らす。
俺は思わず壌竜を見た。あれだけ重い存在が、本当に動きを奪われている。信じがたい光景だった。
「本体、止めたのか」
「全部は無理」
ムジナの答えは短い。額のこめかみにうっすら汗が滲んでいる。やはり相当無理をしている。
「長くもたない」
「十分だ」
そう返した、次の瞬間だった。
壌竜の足元の泥が、盛り上がる。
まず一体。次に三体。泥人形だ。人の形をしているが、表面は乾きかけた土と水のまだらで、目鼻も曖昧なまま蠢いている。壌竜本人は止まっている。なのに、その周囲だけが勝手に生き物みたいに動き始めた。
「……は?」
思わず声が漏れる。
泥人形が一斉にこちらへ走る。同時に、地面そのものが脈打った。土の下を何かが走るような揺れ。次の瞬間、足元から衝撃が突き上げた。
「っ、避けろ!」
叫んで飛ぶ。さっきまで立っていた地面が裂け、土砂が爆ぜる。泥人形の腕がその飛沫の中から伸びた。ムジナは壌竜を見据えたまま、その一体を横目で止める。だが、一体だけだ。他の泥人形がその隙へ踏み込む。
「止めてるんじゃなかったのか!」
「止めてる!」
ムジナが苛立った声を返す。
「でも、地面の方が止まってない!」
その言葉が、妙に耳へ残った。
壌竜本人は静止している。けれど、泥人形は動く。地面から衝撃が来る。つまり、本体を止めても戦場支配は終わらない。壌竜の強さは、肉体だけに乗っていない。
男が上から淡々と言う。
「そこに気づくのが遅いと死ぬぞ」
ムジナが舌打ちした。珍しい。完全に余裕がない。
「黙っててよ」
「無理はするな、ムジナ」
壌竜が、動かないまま言った。
「止め切れていない」
その声音は静かだ。悔しがっている様子もない。ただ事実を置いているだけなのが、余計に怖い。
俺はポケットのスマホを引き抜いた。画面はもう反応している。黒地に、見慣れた文字列。
――対象契約体の力の源泉を特定せよ
――対象契約体が本体を止められても戦える理由を特定せよ
――対象契約体が現在の所有者と共にいる理由を特定せよ
壌竜の問題だ。
ムジナが時間を稼いでいる。俺が答えを見つけるしかない。
泥人形がまた一体、飛びかかる。足で払う。重くはない。だが数が厄介だ。しかも動きが一定じゃない。精密でもないのに、ただの雑な人形とも違う。誰かが操作しているようで、完全操作ではない。戦場そのものが壌竜の手足になっている。
「……力の源泉」
思考が自然と口をつく。
まず一問目だ。壌竜の力の源泉。見たままなら答えは簡単だ。土。大地。けれど、それをどう掴むかだ。大地を操る力、では表面的すぎるかもしれない。だが、少なくとも今の戦場を見れば、壌竜の能力が地面から切り離せないのは明白だ。
二問目はもっと露骨だ。
本体を止められても、なぜ戦えるのか。
泥人形。地面からの衝撃。つまり、壌竜の戦闘機構は肉体と戦場が完全に分離していない。本体が止まっても、大地そのものが戦力になる。
「……私だけを見ているからだ」
壌竜のさっきの言葉が、そこで意味を持った。
本体だけを見て止めても駄目なのだ。
壌竜は、個体で戦っているんじゃない。戦場ごと戦っている。
泥人形の一体が、ムジナの足元へ回り込む。ムジナは壌竜から視線を外せない。代わりに俺が足で蹴る。泥が飛び散り、手首まで冷たい感触が跳ねた。
「っ、持つか?」
俺が問うと、ムジナは息を荒くしながら笑った。
「持たせるしかないでしょ」
顔色は悪い。けれど、その目はまだ壌竜から外れない。そこに妙な信頼が生まれかけていることに、今さら気づく。昨日まで敵だった女が、今は俺に考える時間を作るために踏ん張っている。
なら、答えなければならない。
俺は改めて戦場を見渡す。動いていない壌竜。動き続ける泥人形。脈打つ地面。衝撃を走らせる大地。これだけ揃っていて、二問目の答えはもう目の前だ。
「本体停止と、戦場支配が切り離されてる……」
言葉にした瞬間、スマホが強く震えた。
画面を見る。
――対象契約体が本体を止められても戦える理由を特定せよ
――CLEAR
取れた。
喉の奥が熱くなる。
同時に、三問目の輪郭まで一気に近づいた気がした。
壌竜は、こんなにも静かだ。ムジナに止められ、本体の自由を奪われても、焦らない。怒鳴らない。男の方も、無理やり怒声を飛ばさない。ただ必要な指示だけを飛ばしている。そこに、前のマスターたちのような露骨な支配欲は見えない。
命令で縛っている空気じゃない。
むしろ、壌竜はあの男と“並んでいる”。
主従というより、共闘。
利用でも、依存でもない。
少なくとも、今見える範囲では。
つまり三問目は、そこだ。
現在の所有者と共にいる理由。
強さか。
信頼か。
あるいは、共に戦う価値を見出しているからか。
まだ断定は早い。だが、前二戦みたいな“歪んだ拘束”ではない。そこだけは、もう分かった。
「……なるほど」
思わず漏らすと、壌竜の視線がこちらへわずかに動いた。身体は止まっているのに、目だけでこちらを見る。重い。まるで“そこまで読めたか”と確かめてくるみたいだった。
「見えたか」
低い声だった。
その言い方に、背筋がぞくりとした。壌竜は、自分の戦いがどう見られているかまで理解している。だからこそ静かだ。慌てない。自分が何者で、どう戦っているかを、自分で知っている強者の声だ。
ムジナがそこで、苦しげに息を吐いた。
「……長い」
「あと少しだ」
「あと少しって、そういう時の“あと少し”長いんだよね」
文句を言う余裕があるうちは、まだ持つ。そう判断するしかない。
俺はスマホを握り直した。二つ目の答えを得たことで、三つ目の見え方まで変わってきている。壌竜は大地を力の源泉とし、本体停止と戦場支配を分離している。なら、その戦いを支える所有者との関係も、単なる命令系統ではないはずだ。
戦場の中心で、動けないまま立つ壌竜。
その周囲で、泥人形が蠢く。
少し離れた高所で、必要最低限の指示だけを出すマスター。
奇妙なくらい、噛み合っている。
それを見ながら、俺はようやく理解した。
この戦いは、壌竜を殴り倒す戦いじゃない。
壌竜という存在の構造と、あの男との関係の構造を読む戦いなのだ。
スマホの画面には、緑が一つ増え、最後の一問だけが残っていた。
――対象契約体が現在の所有者と共にいる理由を特定せよ
その文字を見つめながら、俺はゆっくりと息を整える。
答えはまだ入力しない。だが、もう三つ目の意味は理解している。
壌竜は、誰かに縛られているのではない。
共にいるだけの理由がある。
そして、それはきっと、弱いものではない。
そう思った時、ムジナの視線がわずかに揺れた。壌竜の指先が、止められたままの形でかすかに動く。
時間が、もう尽きかけていた。