ムジナの視線が、ほんのわずかに揺れた。
それだけで、壌竜の指先が動く。止められていた拳が、石像みたいな硬さを保ったまま、じり、と半歩だけ先へ出る。小さな動きだ。けれど、その一歩の重さだけで、地面の脈が一段深くなるのが分かった。泥人形の足元が滑らかになり、さっきまで不規則だった動きに、明らかな意志が通い始める。
「……っ、長い」
ムジナが低く吐き捨てた。気だるい響きは残っているのに、声の奥は完全に張りつめている。額の汗がこめかみを伝い、睫毛の際へ溜まる。目を逸らさない。瞬きも極端に減っていた。外から見れば力の抜けた立ち姿のままなのに、限界が近いのは明らかだった。
「あと少しだ」
俺はそう言ったが、自分でも嫌になる。
「そういう“あと少し”って、いつも長いんだよね」
返す余裕がまだある。なら、持つ。そう自分に言い聞かせるしかない。
壌竜は、本体だけを見ればまだ止まっている。褐色の肌も、白い翼も、二本の角も、彫像のように静止したままだ。なのに、その周囲だけが生きている。地面は脈打つ。土砂は盛り上がる。泥人形は増える。まるで壌竜の肉体はここにある一部でしかなく、河川敷そのものが本体の延長になっているみたいだった。
泥人形が二体、同時に俺へ走った。
躱す。すぐ横を擦り抜ける泥の腕が、空気を裂く。重くはない。だが、重さがないくせに勢いがある。骨のない獣みたいで気味が悪い。蹴りで一体を崩す。泥が跳ねる。次の一体は肘で弾いた。崩れた泥がその場へ散る。だが、散った先の土がまた脈打ち、指先の形を取り戻しかける。
「……再生まであるのかよ」
呟いた声に、壌竜が答えた。
「再生ではない」
低い声だ。動けないまま、事実だけを置く。
「戻っているだけだ」
その言葉が、やけに引っかかった。
戻る。地面へ。つまり泥人形は、壌竜から独立した存在じゃない。切り離された手足ですらなく、地面の形を変えたものが、一時的に人形の形を取っているだけだ。
そこへ、高所から男の声が飛ぶ。
「壌竜、押し返せ。時間をかけるな」
敵マスターだ。焦っているわけではない。だが、余裕だけでもない。勝ち筋を急かす声だった。
壌竜は、すぐには答えなかった。
答えないというより、一拍だけ考えたように見えた。それから、静かに言う。
「非効率だ」
「効率の話じゃない。崩せば終わる」
「雑になる理由にはならない」
そのやり取りを聞いた瞬間、胸の中の線が一段濃くなる。
やはり違う。
バーゲストの時みたいな、嫌悪を飲み込んで従う声じゃない。ムジナみたいな、切られたくないから縋る声とも違う。壌竜は壌竜の判断を持っている。相手の命令を受け流しはしないが、呑まれもしない。同じ盤面を見て、同じ勝ちを目指している。だから応じる。けれど、やり方は自分で選ぶ。あれはそういう声だ。
ムジナが、そこでわずかに笑った。苦しげなのに、口元だけが薄く上がる。
「面倒なやつ」
「お前に言われたくはない」
壌竜が返す。
「へえ。まだそんな余裕あるんだ」
軽口みたいな応酬だった。だが、ムジナの狙いははっきりしていた。探っている。壌竜とマスターの距離を。どこまで命令が通り、どこから本人の判断になるのか。
俺は泥人形をもう一体躱しながら、スマホを見下ろす。
――対象契約体の力の源泉を特定せよ
――対象契約体が本体を止められても戦える理由を特定せよ CLEAR
――対象契約体が現在の所有者と共にいる理由を特定せよ
一問目はまだ確定していない。けれど、答えそのものは、もうほとんど出ている。大地だ。河川敷の土、水分、地面の脈。それら全部へ触れている限り、壌竜はこの戦場を自分の器官みたいに扱える。
だが、今の焦点はそこじゃない。
三問目だ。
現在の所有者と共にいる理由。
それを確信へ変えるには、あと一押し必要だった。見えている。だが、見えているだけではMEDESは認めない。あいつらがどういう関係で、何を土台にして並んでいるのか。それを、もっとはっきりした形へしなければならない。
「ムジナ!」
「なに」
「訊け」
短く言うと、ムジナの目が少しだけ細くなった。意図は伝わったらしい。壌竜を見据えたまま、息を整え、一拍置いてから口を開く。
「ねえ」
声音は、戦闘中だというのに驚くほど気だるい。だが、その奥は研ぎ澄まされている。
「そんな男と、なんで一緒にいるの?」
泥人形の動きが、一瞬だけ乱れた。
壌竜自身ではない。地面から生えた腕の一本が、狙いを外して空を切る。質問の内容そのものより、質問を投げられた事実で、戦場の流れが一拍ずれたのだ。
壌竜は静かなまま答えた。
「価値がある」
「へえ」
ムジナが眉を上げる。
「命令するから?」
「違う」
敵マスターが舌打ちした。
「今、そんな話をする必要あるか」
「問題ない」
壌竜は短く返す。
「変わらん」
「じゃあ」
ムジナが、今度はほんの少しだけ熱を混ぜた。
「同じもの見てるってこと?」
「そうだ」
そこで、俺の中で完全に繋がった。
信頼だけじゃない。
命令への服従でもない。
依存でも、拘束でもない。
価値がある。
同じものを見ている。
変わらない。
つまり、壌竜がそこにいる理由は、強引に縛られているからじゃない。目的の一致だ。共に戦う価値を見出しているから、並んでいる。あれは主従の線ではなく、共闘の線だ。
泥人形がもう一度襲う。横へ飛ぶ。着地した足元が、また脈打つ。土の奥から衝撃が来る。膝まで震えが抜けない。けれど、頭だけは妙に静かだった。
「……見えた」
声に出した瞬間、スマホの画面へ指が動く。
入力欄へ、短く打ち込む。
――大地そのもの
――目的の一致と、共に戦う価値を見出しているため
一問目と三問目。どちらも、もう迷わない。
送信の直前で、指先がほんのわずかだけ止まった。止まったが、それは迷いではなく、確認だった。今打った言葉が、ちゃんと壌竜の戦場を表しているか。こいつがどういう相手か、歪めずに掴めているか。
壌竜の目が、そこでこちらを向いた。
止められたままの姿勢で、目だけが動く。その視線には焦りがない。むしろ、試されているのはこっちだと分かる。そこまで見抜けたのか、と。そう問われている気がした。
なら、応えるしかない。
俺は送信した。
スマホが強く震える。黒い画面の中で、白い文字が立て続けに流れ、一問目の横へ緑の表示が灯る。
――対象契約体の力の源泉を特定せよ
――CLEAR
間を置かず、最後の一問にも同じ色が走った。
――対象契約体が現在の所有者と共にいる理由を特定せよ
――CLEAR
息が止まる。
三問、全部。
画面全体が暗く沈み、その中央へ新しい表示がせり上がってくる。
――ALL CONDITIONS CLEARED
――SEIZURE RIGHTS GRANTED
それを見た瞬間、敵マスターの顔色が変わった。
「……何?」
声が低くなる。さっきまでの余裕が、ここで初めて揺れた。
「壌竜!」
叫ぶ。だが、遅い。
ムジナの拘束がそこで一気に崩れた。壌竜の肩が落ち、翼が大きく震える。完全に解けたのだ。地面の脈が跳ね上がり、泥人形の腕が一斉にこちらへ向く。
その直前、ムジナがよろめく。
「っ、もう無理」
膝が折れかける。視線が切れる。完全に限界だ。
壌竜の腕が動く。今度こそ自由だ。敵マスターがその瞬間を逃すまいと声を張る。
「潰せ! 今ならまだ――」
「遅い」
言ったのは俺だった。
自分でも驚くほど、声は静かだった。迷いはもうない。スマホの表示は次の段階へ移っている。
――TRANSFER AVAILABLE
――TARGET : JORYU
指を落とす。
その瞬間、河川敷の空気が目に見えない場所で割れたような気がした。