※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

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泥の結末

 スマホへ指を落とした瞬間、河川敷の空気が裂けたような気がした。

 

 足元を這っていた脈が、一拍だけ止まる。泥人形の腕が中途半端な形で固まり、湿った土の匂いだけが遅れて鼻へ届いた。ムジナがそこでようやく視線を外し、大きく息を吐く。張りつめていた糸が切れたみたいに、膝からその場へ崩れ落ちた。

 

「っ……もう、無理」

 

 掠れた声だった。気だるい調子を保つ余裕も残っていない。額の汗が頬を伝い、肩が細かく上下している。あそこまで無理をさせていたのだと、今さら喉の奥が苦くなった。

 

 それでも、盤面はひっくり返っていた。

 

 目の前で、壌竜の身体を縛っていた見えない繋がりが、静かにほどけていく。本体は動けるようになったはずだ。けれど、すぐには踏み込んでこない。褐色の肌も、白い翼も、戦闘の熱を引きずったままなのに、その立ち姿だけは異様に静かだった。

 

 少し離れた高所で、元のマスターがスマホを叩いている。何度画面を触っても反応が返らないのだろう。声が少しずつ上擦っていく。

 

「何をした……?」

 次いで、怒鳴る。

「壌竜! 動け! 今すぐあいつらを潰せ!」

 

 その命令に、壌竜は振り向かなかった。

 

 いや、正確には一度だけ、ゆっくり視線を向けた。けれど、それだけだ。拳も、翼も、地面の脈も、もうあの男の焦りに応じてはいない。代わりに、壌竜の眼差しは俺の手の中のスマホへ落ちた。

 

「……終わったか」

 

 低い声は、驚くほど穏やかだった。

 

 勝敗を飲み込んだ者の声だと思った。取り乱しも、怒りもない。その代わり、今この場で何が切り替わったのかを、一番正確に理解した者の冷たさがある。

 

 次の瞬間、男の肩口から白い光が零れた。

 

 見覚えのある光景に、胸の奥が嫌なふうに強張る。肩。指先。喉元。輪郭の薄いところから順番に、存在そのものがほどけていく。あの時と同じだ。バーゲストの元マスターが消えた時と、何も変わらない。

 

「待て」

 男が自分の腕を見下ろし、息を呑む。

「待て、待てって……!」

 

 壌竜の名を呼ぶ声は、さっきまでと違っていた。命令ではない。縋る声だ。

 

「お前、俺と一緒にやってきただろ……!」

「共に戦っていた」

 壌竜は短く答える。

「それは事実だ」

 

 白い粒が風へ舞う。男は腕を振って払い落とそうとするが、払った指先から先に崩れていく。そこにあるはずの重みだけが、薄くなって消えていく。

 

「だったら――」

 言葉が続かない。喉の輪郭がほどけ、口元が光へ溶ける。

 

 壌竜は最後まで目を逸らさなかった。助けようともしない。見捨てるような嫌悪も見せない。ただ、終わりゆくものをそのまま受け止めている。

 

 ムジナが地面へ手をついたまま、小さく鼻を鳴らした。

 

「ほんと、趣味悪いよね。これ」

「趣味の話ではない」

 壌竜の視線はまだ男へ向いたままだ。

「盤面の処理だ」

 

 その言い方に救いはない。だが、軽さもなかった。

 

 男の輪郭は、最後にはほとんど白い影みたいになっていた。目だけが、妙にくっきり残って見える。怒りでも、悔しさでもない、信じられないものを見る目だ。そこでようやく、あの男も理解したのだろう。自分が盤面から外れたことを。

 

 風が吹く。

 

 その一息で、最後の白い粒までほどけた。

 

 跡は残らない。砕けたコンクリ片と泥の匂いだけが、そこに人がいた事実の代わりみたいに散らばっている。

 

 しばらく、誰も喋らなかった。

 

 地面の脈は静まり、泥人形は形を失い、河川敷の工事現場には水の流れる音だけが戻ってくる。その真ん中で、壌竜がやっとこちらを向いた。

 

 最初に見た時より、ずっと近い場所にいる気がした。敵として立っていた時の圧はまだある。けれど、向けられる視線の意味が変わっている。

 

 壌竜はまずムジナを見た。

 

「お前の拘束、珍しいな」

 ムジナが顔を上げる。息はまだ荒い。

「そっちが止まりにくすぎるだけ」

「普通なら崩れている」

「褒めてる?」

「評価している」

 

 さらりと言われて、ムジナが少しだけ目を細めた。面白がる時の顔だ。だが、いつもの軽い笑い方とは違う。ちゃんと届いた言葉を、ちゃんと受け取っている顔だった。

 

「へえ。そっちのそういうの、ちょっと意外」

「お前もな」

「何それ」

「気だるげなわりに、強引だ」

 

 そこで、ムジナが息だけで笑った。

 

「それ、たまに言われる」

「頻繁に言われるんだろう」

 

 やり取りは短い。なのに、その数往復だけで、二人の間に戦闘の延長とは別の緊張が生まれていた。噛み合うかどうかはまだ分からない。それでも、敵としてぶつかった相手を、単なる厄介者ではなく“見ておく価値があるもの”として認識し始めているのが分かる。

 

 次に、壌竜の視線が俺へ移る。

 

「お前」

「……何だ」

 

「止めたのはそいつだ」

 顎でムジナを示す。

「だが、戦いを崩したのはお前だな」

 

 思わず言葉に詰まった。ムジナが横から、面白そうに肩を揺らす。

 

「そうそう。わたしが止めて、こいつが読む」

「勝手にまとめるな」

「でも本当じゃん」

「……まあ、そうだけど」

 

 認めるしかない。認めたところで、壌竜の眼差しは変わらなかった。

 

「悪くない」

 低い声で言う。

「力だけではない」

 

 褒めているのかと問いたくなる口調ではなかった。ただ、見たものをそのまま評価しているだけだ。その重さが、逆に心へ残る。

 

「何が見えた」

 そう訊かれて、一瞬だけ迷った。だが、隠しても仕方がない。

 

「お前は、誰かに無理やり縛られて戦うタイプじゃない」

「……ほう」

「目的が同じだから並んでいた。少なくとも、そう見えた」

 

 壌竜はすぐには答えなかった。

 

 代わりに、視線だけで俺の言葉を測る。軽く言っていないか、思い込みで綺麗にまとめていないか。そういうところまで見られている気がした。

 

 やがて、ほんのわずかに頷く。

 

「外してはいない」

 

 それだけで十分だった。

 

 ムジナが、地面へついた手をぱっと離して立ち上がる。まだふらついているのに、口だけはよく動く。

 

「じゃあ、どうするの」

 壌竜を見ながら言う。

「もう終わったよ。戻るなら戻るし、残るなら残るでしょ」

 

 問いかけは軽い。けれど、そこを曖昧にしたまま次へ進める段階でもない。

 

 俺も、息をひとつ整えて口を開く。

 

「これからどうする」

 

 壌竜は、今度はすぐには答えなかった。

 

 河川敷の工事現場を見回す。崩れた足場。泥の跡。消えたマスターが立っていた場所。さっきまでの戦闘を、その目で一度なぞり直しているようだった。

 

「それを決めるのは、まだ早い」

 ようやく落ちた声は、やはり静かだった。

 

「なら、決めるまで離れるのか?」

「そうとも限らん」

 

 そこで、壌竜は俺へ視線を戻す。

 

「興味がある」

「何にだ」

「お前たちの戦い方に」

 

 ムジナが、そこで少しだけ眉を上げた。俺も同じだった。思わず訊き返す。

 

「戦い方?」

「お前は読む」

 壌竜が言う。

「そいつは止める。正面から殴り合わず、盤面を崩した」

 

 その言葉が、河川敷の湿った空気の中へゆっくり沈む。

 

「そういう戦い方は、珍しい」

 壌竜は続けた。

「見ておく価値がある」

 

 それは好意ではなかった。信頼とも違う。だが、間違いなく高く評価している者の言い方だった。

 

 ムジナが肩をすくめる。

「へえ。観察対象になるんだ、わたしたち」

「嫌なら断ってみろ」

 壌竜が淡々と返す。

「別に嫌じゃないけど」

「なら問題ない」

 

 いつもの気だるさを装っているが、ムジナは少しだけ嬉しそうだった。認められることに飢えているあいつらしい反応だと思った。

 

 壌竜は俺へ向き直る。

 

「しばらく共に動く」

「……それは」

「勘違いするな」

 すぐに言葉が重なる。

「従うと言っているわけではない」

 

 そう来るだろうと思っていた。だから、驚きはしなかった。

 

「お前たちの戦い方を、もう少し見たい」

「価値があるか、この先も確かめる」

 そこで、ほんの少しだけ目が細くなる。

「それだけだ」

 

 俺は少しだけ息を吐いた。

 

 変に綺麗な仲間入りをされても、かえって困っただろう。壌竜は、そういう相手じゃない。最後まで敵の格を落とさず、自分の価値判断でここに立つ。その方がずっと自然だった。

 

「分かった」

 そう答える。

「それでいい」

 

 壌竜は短く頷いた。納得とも了承ともつかない、重みのある動きだ。

 

 ムジナが横で笑う。

「じゃあ、増えるんだ」

「人ごとみたいに言うな」

「だって増えたの事実でしょ」

 肩をすくめる。

「しかも、だいぶ面倒そうなの」

「お前に言われたくはない」

 壌竜が即座に返す。

 

 その返しに、ムジナが目を丸くした。

「そういう返しもするんだ」

「必要ならな」

「へえ、ちょっと面白い」

 

 会話の温度が、そこで少しだけ緩む。

 

 俺も張っていた肩を下ろした。戦いの直後、消滅の直後、その上でこういうやり取りが挟まるのは、少し妙だ。だが、妙なくらいでちょうどいいのかもしれない。真っすぐ重いだけだと、人は息が続かない。

 

 スマホが微かに震えた。

 

 画面を見れば、新しい表示が増えている。

 

 ――CONTRACTED SUBJECT “JORYU” TRANSFER COMPLETE

 ――CURRENT OWNED SUBJECTS : 04

 

 デルタ。バーゲスト。ムジナ。壌竜。

 

 四つ目の名前が、黒い画面の中へ整然と並んでいた。

 

 その無機質さへ嫌悪が消えたわけじゃない。だが、今はそれ以上に、現実感の方が先に来る。敵だったはずの存在が、今は同じ方向へ歩く準備をしている。その関係は服従ではないし、信頼ともまだ呼べない。観察され、見極められるための同行。それでも、少なくとも敵ではなくなった。

 

 壌竜が先に踵を返す。

「行くぞ」

 

 自然な命令口調だった。なのに、押しつけがましくない。単に、動くべきだと分かっている者の声だ。

 

「……ああ」

 答えると、ムジナがその横へ並ぶ。

 

「なんか、もう当たり前みたいに言うね」

「躊躇う理由があるか」

「そういう意味じゃなくてさ」

「なら、何だ」

「べつに」

 

 その“べつに”の中に、妙に楽しそうな響きが混じる。

 

 河川敷の工事現場を離れる。歩き出した足元で、地面はもう静かだった。さっきまでの脈はない。ただ、湿った土が靴裏へまとわりつくだけだ。

 

 俺は少し後ろから、その二人の背中を見る。

 

 気だるげな女と、静かな強者。どちらも従順とは程遠い。なのに、不思議と並んだ姿には無理がなかった。価値があるかを見る。見極めるために共に動く。そういう壌竜の言葉は、今の距離感としては、むしろ誠実なくらいに思えた。

 

 また一人、増えた。

 

 それは単純な味方の増加じゃない。敵だった存在が、それぞれ違う理由でこちらへ加わってくる。そのたびに、俺の立つ場所も少しずつ変わっていく。

 

 スマホをポケットへしまう。

 

 ここから先をどう進むか。まだ答えはない。けれど、少なくとも今は、四人目の背中が同じ方向を向いている。

 

 それだけで、次の戦いへ進む理由としては十分だった。

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