スマホへ指を落とした瞬間、河川敷の空気が裂けたような気がした。
足元を這っていた脈が、一拍だけ止まる。泥人形の腕が中途半端な形で固まり、湿った土の匂いだけが遅れて鼻へ届いた。ムジナがそこでようやく視線を外し、大きく息を吐く。張りつめていた糸が切れたみたいに、膝からその場へ崩れ落ちた。
「っ……もう、無理」
掠れた声だった。気だるい調子を保つ余裕も残っていない。額の汗が頬を伝い、肩が細かく上下している。あそこまで無理をさせていたのだと、今さら喉の奥が苦くなった。
それでも、盤面はひっくり返っていた。
目の前で、壌竜の身体を縛っていた見えない繋がりが、静かにほどけていく。本体は動けるようになったはずだ。けれど、すぐには踏み込んでこない。褐色の肌も、白い翼も、戦闘の熱を引きずったままなのに、その立ち姿だけは異様に静かだった。
少し離れた高所で、元のマスターがスマホを叩いている。何度画面を触っても反応が返らないのだろう。声が少しずつ上擦っていく。
「何をした……?」
次いで、怒鳴る。
「壌竜! 動け! 今すぐあいつらを潰せ!」
その命令に、壌竜は振り向かなかった。
いや、正確には一度だけ、ゆっくり視線を向けた。けれど、それだけだ。拳も、翼も、地面の脈も、もうあの男の焦りに応じてはいない。代わりに、壌竜の眼差しは俺の手の中のスマホへ落ちた。
「……終わったか」
低い声は、驚くほど穏やかだった。
勝敗を飲み込んだ者の声だと思った。取り乱しも、怒りもない。その代わり、今この場で何が切り替わったのかを、一番正確に理解した者の冷たさがある。
次の瞬間、男の肩口から白い光が零れた。
見覚えのある光景に、胸の奥が嫌なふうに強張る。肩。指先。喉元。輪郭の薄いところから順番に、存在そのものがほどけていく。あの時と同じだ。バーゲストの元マスターが消えた時と、何も変わらない。
「待て」
男が自分の腕を見下ろし、息を呑む。
「待て、待てって……!」
壌竜の名を呼ぶ声は、さっきまでと違っていた。命令ではない。縋る声だ。
「お前、俺と一緒にやってきただろ……!」
「共に戦っていた」
壌竜は短く答える。
「それは事実だ」
白い粒が風へ舞う。男は腕を振って払い落とそうとするが、払った指先から先に崩れていく。そこにあるはずの重みだけが、薄くなって消えていく。
「だったら――」
言葉が続かない。喉の輪郭がほどけ、口元が光へ溶ける。
壌竜は最後まで目を逸らさなかった。助けようともしない。見捨てるような嫌悪も見せない。ただ、終わりゆくものをそのまま受け止めている。
ムジナが地面へ手をついたまま、小さく鼻を鳴らした。
「ほんと、趣味悪いよね。これ」
「趣味の話ではない」
壌竜の視線はまだ男へ向いたままだ。
「盤面の処理だ」
その言い方に救いはない。だが、軽さもなかった。
男の輪郭は、最後にはほとんど白い影みたいになっていた。目だけが、妙にくっきり残って見える。怒りでも、悔しさでもない、信じられないものを見る目だ。そこでようやく、あの男も理解したのだろう。自分が盤面から外れたことを。
風が吹く。
その一息で、最後の白い粒までほどけた。
跡は残らない。砕けたコンクリ片と泥の匂いだけが、そこに人がいた事実の代わりみたいに散らばっている。
しばらく、誰も喋らなかった。
地面の脈は静まり、泥人形は形を失い、河川敷の工事現場には水の流れる音だけが戻ってくる。その真ん中で、壌竜がやっとこちらを向いた。
最初に見た時より、ずっと近い場所にいる気がした。敵として立っていた時の圧はまだある。けれど、向けられる視線の意味が変わっている。
壌竜はまずムジナを見た。
「お前の拘束、珍しいな」
ムジナが顔を上げる。息はまだ荒い。
「そっちが止まりにくすぎるだけ」
「普通なら崩れている」
「褒めてる?」
「評価している」
さらりと言われて、ムジナが少しだけ目を細めた。面白がる時の顔だ。だが、いつもの軽い笑い方とは違う。ちゃんと届いた言葉を、ちゃんと受け取っている顔だった。
「へえ。そっちのそういうの、ちょっと意外」
「お前もな」
「何それ」
「気だるげなわりに、強引だ」
そこで、ムジナが息だけで笑った。
「それ、たまに言われる」
「頻繁に言われるんだろう」
やり取りは短い。なのに、その数往復だけで、二人の間に戦闘の延長とは別の緊張が生まれていた。噛み合うかどうかはまだ分からない。それでも、敵としてぶつかった相手を、単なる厄介者ではなく“見ておく価値があるもの”として認識し始めているのが分かる。
次に、壌竜の視線が俺へ移る。
「お前」
「……何だ」
「止めたのはそいつだ」
顎でムジナを示す。
「だが、戦いを崩したのはお前だな」
思わず言葉に詰まった。ムジナが横から、面白そうに肩を揺らす。
「そうそう。わたしが止めて、こいつが読む」
「勝手にまとめるな」
「でも本当じゃん」
「……まあ、そうだけど」
認めるしかない。認めたところで、壌竜の眼差しは変わらなかった。
「悪くない」
低い声で言う。
「力だけではない」
褒めているのかと問いたくなる口調ではなかった。ただ、見たものをそのまま評価しているだけだ。その重さが、逆に心へ残る。
「何が見えた」
そう訊かれて、一瞬だけ迷った。だが、隠しても仕方がない。
「お前は、誰かに無理やり縛られて戦うタイプじゃない」
「……ほう」
「目的が同じだから並んでいた。少なくとも、そう見えた」
壌竜はすぐには答えなかった。
代わりに、視線だけで俺の言葉を測る。軽く言っていないか、思い込みで綺麗にまとめていないか。そういうところまで見られている気がした。
やがて、ほんのわずかに頷く。
「外してはいない」
それだけで十分だった。
ムジナが、地面へついた手をぱっと離して立ち上がる。まだふらついているのに、口だけはよく動く。
「じゃあ、どうするの」
壌竜を見ながら言う。
「もう終わったよ。戻るなら戻るし、残るなら残るでしょ」
問いかけは軽い。けれど、そこを曖昧にしたまま次へ進める段階でもない。
俺も、息をひとつ整えて口を開く。
「これからどうする」
壌竜は、今度はすぐには答えなかった。
河川敷の工事現場を見回す。崩れた足場。泥の跡。消えたマスターが立っていた場所。さっきまでの戦闘を、その目で一度なぞり直しているようだった。
「それを決めるのは、まだ早い」
ようやく落ちた声は、やはり静かだった。
「なら、決めるまで離れるのか?」
「そうとも限らん」
そこで、壌竜は俺へ視線を戻す。
「興味がある」
「何にだ」
「お前たちの戦い方に」
ムジナが、そこで少しだけ眉を上げた。俺も同じだった。思わず訊き返す。
「戦い方?」
「お前は読む」
壌竜が言う。
「そいつは止める。正面から殴り合わず、盤面を崩した」
その言葉が、河川敷の湿った空気の中へゆっくり沈む。
「そういう戦い方は、珍しい」
壌竜は続けた。
「見ておく価値がある」
それは好意ではなかった。信頼とも違う。だが、間違いなく高く評価している者の言い方だった。
ムジナが肩をすくめる。
「へえ。観察対象になるんだ、わたしたち」
「嫌なら断ってみろ」
壌竜が淡々と返す。
「別に嫌じゃないけど」
「なら問題ない」
いつもの気だるさを装っているが、ムジナは少しだけ嬉しそうだった。認められることに飢えているあいつらしい反応だと思った。
壌竜は俺へ向き直る。
「しばらく共に動く」
「……それは」
「勘違いするな」
すぐに言葉が重なる。
「従うと言っているわけではない」
そう来るだろうと思っていた。だから、驚きはしなかった。
「お前たちの戦い方を、もう少し見たい」
「価値があるか、この先も確かめる」
そこで、ほんの少しだけ目が細くなる。
「それだけだ」
俺は少しだけ息を吐いた。
変に綺麗な仲間入りをされても、かえって困っただろう。壌竜は、そういう相手じゃない。最後まで敵の格を落とさず、自分の価値判断でここに立つ。その方がずっと自然だった。
「分かった」
そう答える。
「それでいい」
壌竜は短く頷いた。納得とも了承ともつかない、重みのある動きだ。
ムジナが横で笑う。
「じゃあ、増えるんだ」
「人ごとみたいに言うな」
「だって増えたの事実でしょ」
肩をすくめる。
「しかも、だいぶ面倒そうなの」
「お前に言われたくはない」
壌竜が即座に返す。
その返しに、ムジナが目を丸くした。
「そういう返しもするんだ」
「必要ならな」
「へえ、ちょっと面白い」
会話の温度が、そこで少しだけ緩む。
俺も張っていた肩を下ろした。戦いの直後、消滅の直後、その上でこういうやり取りが挟まるのは、少し妙だ。だが、妙なくらいでちょうどいいのかもしれない。真っすぐ重いだけだと、人は息が続かない。
スマホが微かに震えた。
画面を見れば、新しい表示が増えている。
――CONTRACTED SUBJECT “JORYU” TRANSFER COMPLETE
――CURRENT OWNED SUBJECTS : 04
デルタ。バーゲスト。ムジナ。壌竜。
四つ目の名前が、黒い画面の中へ整然と並んでいた。
その無機質さへ嫌悪が消えたわけじゃない。だが、今はそれ以上に、現実感の方が先に来る。敵だったはずの存在が、今は同じ方向へ歩く準備をしている。その関係は服従ではないし、信頼ともまだ呼べない。観察され、見極められるための同行。それでも、少なくとも敵ではなくなった。
壌竜が先に踵を返す。
「行くぞ」
自然な命令口調だった。なのに、押しつけがましくない。単に、動くべきだと分かっている者の声だ。
「……ああ」
答えると、ムジナがその横へ並ぶ。
「なんか、もう当たり前みたいに言うね」
「躊躇う理由があるか」
「そういう意味じゃなくてさ」
「なら、何だ」
「べつに」
その“べつに”の中に、妙に楽しそうな響きが混じる。
河川敷の工事現場を離れる。歩き出した足元で、地面はもう静かだった。さっきまでの脈はない。ただ、湿った土が靴裏へまとわりつくだけだ。
俺は少し後ろから、その二人の背中を見る。
気だるげな女と、静かな強者。どちらも従順とは程遠い。なのに、不思議と並んだ姿には無理がなかった。価値があるかを見る。見極めるために共に動く。そういう壌竜の言葉は、今の距離感としては、むしろ誠実なくらいに思えた。
また一人、増えた。
それは単純な味方の増加じゃない。敵だった存在が、それぞれ違う理由でこちらへ加わってくる。そのたびに、俺の立つ場所も少しずつ変わっていく。
スマホをポケットへしまう。
ここから先をどう進むか。まだ答えはない。けれど、少なくとも今は、四人目の背中が同じ方向を向いている。
それだけで、次の戦いへ進む理由としては十分だった。