夕方の台所に立つと、冷蔵庫の中身が急に頼もしく見えた。豚トロ、カルビ、鶏もも、玉ねぎ、ピーマン。二人分なら気にしなかった量も、今日は足りるかどうかを先に考える。振り返れば、部屋の奥には強いのが四人いる。いや、正確には俺を入れて四人だ。
「肉です?」
背中越しにデルタの声が飛ぶ。
「見れば分かるだろ」
「確認は大事です」
そう言いながら、もう冷蔵庫の中を覗き込む気配がある。耳が立っている。肉の匂いを嗅ぎつけた獣そのものだった。
ホットプレートを引っ張り出し、テーブルの中央へ置く。コードを繋いだところで、向かいに座ったムジナが頬杖をついた。
「鍋じゃなくて焼き肉なんだ」
「同じ鍋を突くよりは、少し楽だろ」
「ふうん。気は遣ってるんだ」
「家主だからな」
言いながら皿へ肉を並べる。バーゲストは自然な動きで紙皿を広げ、箸を揃えていた。頼んでもいないのに、そこまでやるのがこの人らしい。反対に壌竜は、少し離れた場所で立ったまま、部屋の狭さと食卓の配置を見ている。戦場を測る目つきのまま、生活の場へ入ってきたような違和感があった。
「座れよ」
声をかけると、壌竜は一度だけ俺を見た。
「ここで、か」
「ここでだ。立ったままだと余計に圧がある」
「……そうか」
腰を下ろすまでに一拍あった。その間にデルタが素早く俺の隣を確保する。
「そこ、デルタです」
「分かってる」
「早いなあ」
ムジナが笑う。
「取られる前に取るです」
「何をだ」
「いろいろです」
いろいろ、に何が入っているのか考えないようにして、俺は肉を置いた。じゅわ、と音が立つ。脂が熱板へ落ち、白い煙がふわりと上がった。玉ねぎの甘い匂いが遅れて広がる。
「全部乗せるです?」
デルタがもう箸を構えている。
「駄目です」
先に答えたのはバーゲストだった。
「火が落ちます」
「でも肉です」
「だからこそです」
静かな言い方なのに、押し返す隙がない。デルタは不満そうに耳を揺らしたが、完全には逆らわない。
ムジナが焼ける肉を眺めながら言った。
「最初はタンとか薄いのからの方が良くない?」
「焼き肉なめてないな」
「こういうのはちゃんと好き」
そう言って、皿の端にあるねぎ塩を指で示す。だるそうな顔のくせに、好みだけははっきりしている。
壌竜は黙っていた。煙の向こうで肉の色が変わるのを見ている。やがて短く言った。
「戦場より、置き方が難しいな」
「焼き網に戦術を持ち込むなよ」
俺が言うと、ムジナが肩を揺らした。
「ちょっと分かるの嫌だな、それ」
バーゲストが一枚を裏返す。
「そろそろです」
「待ってたです!」
デルタの箸が一番に伸びた。熱いまま口へ放り込み、次の瞬間、目を細める。
「あつ……でも、うまいです」
「絶対火傷してるでしょ」
「うまいからいいです」
「良くないです」
バーゲストが真顔で返す。そのやり取りに、ようやく肩の力が少し抜けた。
ムジナは肉より先に玉ねぎを取った。次にえのき、最後にカルビを一枚。壌竜は勢いで手を出さず、焼き具合を見てから静かに箸を伸ばす。
「……悪くない」
「それ、高評価だろ」
「不味いなら言う」
返事は短い。だが、食卓の真ん中でそう言われると、妙に重みがあった。
プレートの上で、最後のカルビが一枚だけ残る。デルタの箸が伸びる。ほぼ同時に、壌竜の箸も動いた。空中で止まる。ほんの一瞬、静かな張り合いが生まれた。
「それ、デルタです」
「そうか」
「引かないです?」
「必要なら引く」
淡々とした返しに、ムジナが吹き出す。
「静かな圧すごいな」
「追加を焼きます」
バーゲストがもう次の皿へ手を伸ばしていた。
「揉めるほど足りてないわけじゃないだろ」
俺が肉を置くと、デルタはすぐ機嫌を直す。
「ならいいです」
「切り替え早いね」
「肉の前では当然です」
煙が薄く天井へ溶けていく。さっきまで敵だった壌竜が同じプレートを囲み、ムジナが横で面白がり、バーゲストが焼き加減を見て、デルタは肉の行方へ一喜一憂している。その全部を眺めていると、妙に現実味が薄い。なのに、肉の匂いと油のはぜる音だけは、どうしようもなく生活だった。
「……これからのこと、少しずつ考えるか」
肉を返しながら言うと、デルタが真っ先に頷く。
「まず食べることは大事です」
「それはもうやってるだろ」
「大事だから二回言うです」
ムジナが笑う。
「次は役割でしょ」
バーゲストが続ける。
「整理は必要です」
壌竜は少しだけ間を置いてから、低く言った。
「急ぐ必要はない。だが、考えはするべきだ」
湯気ではなく、肉の煙の向こうで、その横顔を見る。まだ完全にこちら側の顔ではない。けれど、席を立たない。その事実だけで、今は十分だった。
敵だったはずの相手が、同じ卓で肉が焼けるのを待っている。正しいかどうかは、まだ分からない。だが、少なくとも今は、この火の前で少し先のことを考える理由になっていた。