ホットプレートの火を落とすと、部屋の中に残った熱が、ゆっくり形を失っていった。肉の脂が焼けた匂い。少し遅れて、玉ねぎの甘い香りが混じる。テーブルの上には空いた皿と、まだ油の照りを残した鉄板。四人で囲んだ食卓の跡は、思った以上に騒がしく見えた。
「うまかったです……」
デルタは満足しきった声でそう言うと、そのまま椅子の背へ沈んだ。尾だけが気の抜けた調子で揺れている。ムジナは頬杖をつき、半分閉じた目で煙の残りを眺めていた。
「煙くさいけど、悪くなかった」
「その言い方、褒めてるのか」
「褒めてるよ。一応」
バーゲストが皿へ手を伸ばすより先に、俺は首を振った。
「今日はいい。少し休んでてくれ」
「ですが」
「片づけくらいはやる」
そう言って皿を重ねる。油の残った鉄板を持ち上げたところで、背後で椅子の脚が鳴った。
振り返ると、壌竜が立っていた。
白い翼は小さく畳まれているのに、それでも台所へ入るには少し窮屈そうだった。河川敷で見た時と同じ顔だ。静かで、重い。けれど今は、拳を構える代わりに空いた皿を一枚、当然みたいに手に取っていた。
「……いいのに」
「主一人で済ませる理由がない」
短い返答だった。迷いがない。客扱いをされる側の遠慮ではなく、この場で自分が動くのは自然だと考えている者の声だった。
「客のつもりだったんだけどな」
「客ではない」
一拍置いてから、壌竜が続ける。
「少なくとも、今は」
言葉の重さに、妙な返事はできなかった。俺はそのまま流し台へ向かい、水をひねる。金属のボウルへ当たる音が、小さく台所へ広がった。
壌竜は皿を並べるのが妙に正確だった。大きいものを奥、小さいものを手前。箸と小皿を分け、汚れの強いものを先に寄せる。無駄がない。
「手際いいな」
「乱れていると、動きが鈍る」
「片づけの話か?」
「生活も戦場も、散らかれば足を取られる」
洗剤を垂らしながら、その言葉へ少しだけ笑ってしまう。
「なるほどな」
「可笑しいか」
「いや。お前らしいと思っただけだ」
しばらく、水音だけが続いた。皿の擦れる音。スポンジの泡が弾ける音。部屋の向こうでは、デルタが欠伸をして、ムジナが小さく何かを言い、バーゲストがそれへ静かに返している。その気配が遠く聞こえるぶん、台所の狭さが妙にはっきりした。
ホットプレートの縁についた油を拭っていると、壌竜の視線が手元へ落ちるのを感じた。
「どうした」
「主の手は、前へ出る者の手ではないな」
「そういう役でもないからな」
布巾を動かしながら答える。壌竜はその返事を急がせなかった。少し考えるようにしてから、皿の水気を切る。
「だが、お前は戦場を動かす」
「褒めてるのか?」
「見ているだけだ」
その言い方に、思わず口元が緩む。真正面から持ち上げられるより、そっちの方がまだ落ち着いた。
最後の皿を受け取る時、壌竜が自然に言った。
「主、これで終いだ」
手が一瞬だけ止まる。
「……その呼び方、まだ慣れないな」
「嫌か」
「嫌じゃない。ただ、重い」
「軽く呼ぶつもりはない」
そう言われると、納得するしかない。こいつが何でも軽く済ませる相手じゃないことくらい、もう分かっている。
「なら、今はそのままでいい」
「そうか」
皿を拭き終え、壌竜が食器棚の前で立ち止まる。どこへ戻すかを一瞬だけ迷ったらしい。その間が妙に人間臭くて、俺は棚を指した。
「そこだ」
「覚えた」
その一言のあと、俺は何気なく口にした。
「無理なら、ここまで手伝わなくてもよかったんだけどな」
壌竜の手が、ほんのわずかに止まる。振り向いた顔に怒りはない。ただ、静かに測る目があった。
「主は、まだ私を外に置くのか」
「違う」
即座に言い切る。
「そういう意味じゃない」
沈黙が落ちる。短いのに、変に長く感じた。
やがて壌竜は視線を外し、最後の皿を棚へ戻した。
「ならいい」
低い声が、狭い台所へ落ちる。
「私は今しばらく、ここにいる。それで足りる」
それは宣言というより、確認に近かった。主従の誓いじゃない。だが、河川敷で拾った強者が、自分の意思でこの家に留まると言った。その事実だけで、胸の奥の何かが少し落ち着く。
手を拭きながら、小さく息を吐く。
「……助かった」
「片づいた。それで十分だ」
「それだけか」
「他にいるか」
少しだけ間が空く。部屋の向こうでは、デルタがとうとう寝息を立て始めていた。
壌竜が、わずかに目を細める。
「主のやり方は、まだ甘い」
「だろうな」
「だが、無駄ではない」
その言葉に、今度はちゃんと笑ってしまった。
「それ、だいぶ高評価だろ」
「受け取り方は任せる」
流し台の前に並んで立つ影が、薄い蛍光灯の下で静かに伸びている。戦場で向き合っていた相手が、今は同じ皿を片づけている。それが正しいのかは、まだ分からない。
けれど、こうして水音の中で肩を並べられるなら、少なくとも、ここから先を考える余地はある。
壌竜はまだ俺を見極める立場のままだ。それでも、少しだけ、この家の中へ入ってきた気がした。