デルタと暮らすようになってから、部屋の中の空気は少し変わった。
変わった、といっても、家具が増えたわけじゃない。ワンルームの間取りも、安っぽいテーブルも、壁際の小さな棚もそのままだ。変わったのは、そこで流れる時間の密度だった。一人でいる時には気にも留めなかった生活音が、今はひとつひとつ意味を持つ。冷蔵庫を開ける音、鍋が火にかかる匂い、ベッドの軋み、カーテンの向こうを走る車の音。そういうものの合間に、黒い耳がぴくりと動き、尾が床を払う気配が混じる。
台所で皿を洗っていると、背後で食後の満足そうな息がした。
「今日はうまかったです」
振り返ると、デルタがソファの肘掛けへ体を預け、こちらを見ていた。口元にはまだ少しだけ機嫌の良さが残っている。黒髪が肩から胸元へ流れ、尾は気ままそうに揺れていた。召喚されたばかりの頃なら、あの尾はもっと低く、警戒心むき出しで張っていたはずだ。今は違う。この部屋の匂いにも、俺の足音にも、ずいぶん慣れている。
「それは良かった」
「肉が多かったのもいいです」
「そこが一番大事か」
「大事です」
即答だった。思わず笑いそうになる。
デルタは懐いた。少なくとも、最初の頃のように俺を“知らない場所へ引きずり込んだ怪しいやつ”としてだけ見てはいない。食事を出せば喜ぶし、買い物の袋を覗き込むし、眠くなれば俺の隣へ来る。けれど、それを平穏と呼ぶには、まだ喉の奥へ小骨が引っかかったみたいな感覚が残っていた。
そもそも、俺たちを繋いでいるのは普通の縁じゃない。
机の上に置いていたスマホが、そこでふっと暗く光った。
通知音は鳴らない。ただ、画面だけが沈むように明度を落とし、黒を深める。嫌な予感という言葉じゃ足りない、生理的なざわつきが背中を走った。デルタも気づいたらしい。耳がぴたりと立つ。
「仮ボス」
「ああ」
手を拭いてスマホを取る。画面に浮かび上がった文字列は、前に見た無機質な起動画面より、さらに悪趣味だった。
――BATTLE ROYAL MODE / ACTIVE
その一行だけで、胃の底が冷える。スクロールもしていないのに、下へ新しい文章がひとりでに追加されていく。
――CURRENT CONTRACT SLOT : 01
――SIMULTANEOUS SUMMON LIMIT : 01
――ADDITIONAL CONTRACTS MAY BE ACQUIRED THROUGH SEIZURE
――OWNERS SHALL COMPETE FOR CONTROL OF CONTRACTED SUBJECTS
目で追いながら、意味を頭の中で噛み砕く。
「……召喚は一体だけ」
「今のデルタだけ、です?」
「そういうことらしい」
「でも、奪えば増えるです」
デルタが低く言う。
俺は返事の代わりに画面を見つめた。そこへさらに次の文が滲む。
――VICTORY ALONE DOES NOT GRANT SEIZURE RIGHTS
――SEIZURE REQUIRES COMPLETION OF DISPLAYED CONDITIONS
――LOSS OF MEDES RESULTS IN ERASURE OF OWNER AND CONTRACTED SUBJECT
喉が鳴った。
勝っただけでは奪えない。表示された条件を満たさなければ、相手の契約体は奪取できない。そして、MEDESを失えば、所有者も契約体も消滅する。
ルールの説明としては整いすぎていた。簡潔で、冷たくて、反論の余地がない。最初から全部決まっていた。俺がデルタを召喚した瞬間から、このゲームの盤上に乗せられていたのだと、今さら突きつけられている。
「最悪だな」
漏れた声は、自分で思ったより低かった。
「今さら分かったです?」
「分かってたつもりだったけど、想像より趣味が悪い」
デルタはソファから身を起こし、俺の肩越しに画面を覗き込む。近い。食後のあたたかい匂いがまだ少し残っていて、そんなものまで現実感を引き留める材料になっているのが嫌だった。
「奪う、ですか」
「ああ」
「デルタのことも、誰かが狙うです」
「……そうなる」
そう認めるしかない。
認めた瞬間、部屋の中の静けさが別物になった。さっきまでの落ち着いた夜じゃない。この壁の向こうに、すでに見知らぬ誰かがいるかもしれない。その誰かが、俺とデルタを“奪う対象”として見ているかもしれない。
画面がまた切り替わる。今度は規約めいた細かな文字列じゃなかった。黒地の中央へ、三つの空欄が縦に並ぶ。見出しは一つだけ。
――SEIZURE CONDITIONS
「条件、ってこれか」
タップする前に、自動で説明文が出た。
――THREE QUESTIONS WILL BE PRESENTED FOR EACH TARGET
――QUESTIONS SHALL CONCERN IDENTITY / COMBAT SYSTEM / RELATIONAL CORE
――ONLY AFTER ALL CONDITIONS ARE SATISFIED WILL SEIZURE RIGHTS BE GRANTED
思わず眉を寄せる。
「相手についての問題を解け、ってことか」
「変なゲームです」
「ゲームって呼ぶのも嫌だな、これは」
言いながらも、頭の中ではもう整理が始まっていた。
正体。戦闘機構。関係性の核。
誰なのか。どう戦うのか。なぜその相手に従っているのか。
戦って勝つだけじゃ足りない。相手を観察し、見抜き、理解しなければ奪えない。要するに、相手の外側だけじゃなく、中身まで剥がせと言っている。
「気持ち悪いです」
デルタがぽつりと漏らした。
意外だった。力の論理に近い側の彼女なら、もっと単純に受け入れるかと思っていた。
「おまえもそう思うのか」
「力で取るなら、まだ分かるです。でも、これは、腹の中まで嗅げって言ってるです」
「……ああ」
正確だ。
こいつはただ奪い合わせたいんじゃない。相手を暴き、関係を裂き、そのうえで奪わせたいのだ。悪趣味にもほどがある。
デルタは画面を見下ろしたまま、低く鼻を鳴らした。
「仮ボスはこういうの嫌いです」
「好きになる要素がない」
「知ってるです」
そこで、少しだけこちらを見る。紫の瞳に映るのは、いつもの食事時の機嫌の良さじゃなかった。もっと静かな、値踏みの色に近い光だ。
「でも、逃げる顔でもないです」
「逃げたところで、これが消える気がしないからな」
スマホを持つ手に汗が滲んでいる。捨てる。壊す。水に沈める。そんな案は一度ならず頭を過った。けれど、MEDESが最初からこちらの都合を無視していたことを思えば、そんな単純な手で終わる相手とも思えない。
だったら、少なくとも知らないまま飲まれるより、構造を知っておきたかった。
画面の下へ指を滑らせると、さらに別の項目が現れる。
――KILLING A TARGET IS PERMITTED
――HOWEVER, KILLED TARGETS CANNOT BE SEIZED
短い一文に、心臓が嫌な音を立てた。
殺すことは可能。だが、殺した相手は奪えない。
つまり、こいつは最初から二つの道を用意している。理解して奪うか、理解を捨てて消すか。
「仮ボス」
デルタの声が近い。
「デルタは、奪う方がいいです」
「どうしてそう思う」
「増やせるから、です」
言い方は単純だ。けれど、その単純さが今はありがたかった。俺みたいに余計なところまで考える人間は、こういう時に足が止まる。デルタはそこを真っすぐ切る。
「でも、ただ増やしたいわけじゃないです」
「……じゃあ?」
「噛み殺すだけのやつに、あとで噛み殺されるの、嫌です」
その台詞には、獣の直感と、この数日で積み上がった生活の感覚が両方滲んでいた。俺たちはもう、“たまたま一緒にいるだけの他人”じゃない。少なくともデルタは、この部屋の時間を気に入っている。食事も、匂いも、眠る場所も。その全部を守るために、勝ち方を選ぶ必要があると思っている。
俺は息を吐いた。
「分かった。少なくとも、何も知らずにやられる気はない」
「それでいいです」
デルタがそう言った瞬間、画面全体が一度だけ明滅した。
――MATCHING COMPLETE
場の空気が変わる。
背中を冷たいものが走った。デルタも同時に身を硬くする。耳が立ち、尾の揺れが止まる。もう食後の緩んだ気配はどこにもない。
新しい表示が、中央へ淡々と並ぶ。
――TARGET CONTRACTED SUBJECT : BARGHEST
――TARGET OWNER : UNREGISTERED
――ENGAGEMENT ZONE : CURRENT AREA
「バーゲスト」
声に出してみると、その名は思った以上に重かった。知識として知らないわけじゃない。黒い犬の妖精。騎士。異形。それらが頭の中で重なって、ひどく嫌な像を結ぶ。
隣でデルタが、ほとんど唸るみたいに低く言った。
「強いです」
「分かるのか」
「名前じゃなくて、圧です」
デルタは画面そのものを睨んでいるわけじゃない。もっと向こうを見ていた。表示された名の先、その存在の輪郭みたいなものを、獣の感覚で拾っている。
「まっすぐ殴るだけのやつじゃないです」
「どういう意味だ」
「でかい牙があるです。でも、それだけじゃないです。固いです。噛む前に、ちゃんと狙うやつです」
その表現に、背筋がさらに冷えた。
デルタは力を信じる。だからこそ、ただ強い相手と、“強くて、なおかつ噛み方を知っている相手”の違いが分かるんだろう。
画面の下に、今度ははっきりと三つの問題が表示される。
――対象契約体が冠する“妖精騎士”の名を特定せよ
――対象契約体の主戦闘様式を特定せよ
――対象契約体を現在の所有者へ縛っているものを特定せよ
そこまで読んで、俺は自然と息を止めていた。
妖精騎士の名。戦い方。そして、所有者へ縛っているもの。
最後の問いが、一番嫌だった。従っている理由、じゃない。縛っているもの。つまり、そこに歪みがある前提で出されている。
「主従がまともじゃないです」
デルタが静かに言う。
「分かるのか」
「問題の出し方で分かるです。好きで従ってるなら、こんな聞き方しないです」
その通りだった。MEDESは、最初から敵陣営の綻びを知っている。こちらにそれを暴かせようとしている。
気分が悪い。だが、同時に、そこが勝ち筋にもなるのだと理解してしまう自分がいた。
「デルタ」
「ん、です」
「おまえが拾えるものを拾ってくれ。匂いでも、気配でも、違和感でも何でもいい」
「仮ボスは?」
「それを言葉にする。答えに変える」
短く頷くと、デルタはようやく口元だけで笑った。戦う前の顔だ。部屋で食事をねだる時の顔でも、眠たそうに寄ってくる時の顔でもない。
「分担、です」
「ああ」
その時だった。
デルタの耳が、唐突に一点へ向いた。
玄関じゃない。窓でもない。壁の向こう、建物の外縁をなぞるような、もっと曖昧な方向だ。尾がぴたりと止まる。呼吸まで変わる。
「……来るです」
声が低い。
ぞっとして、俺も息を潜める。何の音も聞こえない。けれど、デルタの顔はもう確信していた。黒い狼の少女としての顔だ。食卓の温度も、さっきまでの生活の匂いも一瞬で切り替わっている。
「どっちだ」
「まだ、回ってるです」
デルタはゆっくり立ち上がった。床へ落ちる影の重さまで違って見える。
「玄関でも窓でもないです。周りを見てるです」
「こっちの位置を探ってる?」
「そうです。重いのに、雑じゃないです」
バーゲストだ、と理屈より先に理解した。正面から叩き潰せる力があるくせに、いきなり飛び込まず、まず位置を測っている。その慎重さが逆に怖い。
デルタは一歩だけ前へ出て、それから振り返った。
「仮ボス」
「何だ」
「問題、ちゃんと覚えるです」
紫の瞳が真っすぐこちらを見る。
「デルタが嗅ぐです。仮ボスが答えるです」
それは命令じゃなかった。戦うための、短い確認だ。
俺は頷いた。スマホを握る手に、じわりと汗が滲む。けれど、もうさっきまでみたいな嫌悪だけではない。怖い。間違いなく怖い。だが、怖がったまま立ち尽くしている時間は終わった。
画面に並ぶ三つの問いが、黒の中で冷たく光っている。
バーゲスト。妖精騎士。主戦闘様式。所有者へ縛るもの。
その答えを、これから戦いながら探らなければならない。
デルタはわずかに唇を吊り上げた。獲物の気配を捉えた時の顔だ。
「……強いの、嫌いじゃないです」
その一言のあと、部屋の外を巡っていた気配が、ぴたりと止まった。