夜は、焼き肉の匂いを薄く残したまま静まっていた。
窓を少しだけ開けてある。そこから入る空気は冷えていて、昼の河川敷にまとわりついていた土の湿りとは違う、乾いた夜の感触を運んでくる。ベッドへ横になって目を閉じても、眠気はなかなか降りてこなかった。
肉を焼く音。デルタの満足そうな声。ムジナのだるい笑い。バーゲストが皿を重ねる静かな手つき。そこまでは、どうにか生活の側へ寄せられた気がしていたのに、灯りを落として一人になると、やはり別のものが浮く。白くほどけていく輪郭。消えていく声。跡も残らない終わり方。
寝返りを打とうとした時、控えめな気配が部屋へ入ってきた。
「……壌竜?」
呼ぶと、暗がりの中で二本の角がわずかに輪郭を持つ。
「起きていたか」
低い声だった。変わらない。戦っていた時と同じ声なのに、今は拳の代わりに沈黙を持っている。
「そっちこそ。どうした」
「少し、ここを借りる」
問いというより、確認に近い言い方だった。断る理由は思いつかなかった。体を起こして少しだけ端へ寄ると、壌竜はベッドの反対側へ腰を下ろす。近い。けれど、触れそうで触れない距離だ。重みでマットレスがわずかに沈み、その揺れがこちらまで届く。
しばらく、どちらも喋らなかった。
窓の外で、遠くの車の音が流れていく。部屋の向こうでは、デルタかムジナの寝息がかすかに聞こえた。壌竜は正面を向いたまま、動かない。けれど、ただ黙っているのとも違う。何かを押しとどめている静けさだった。
「眠れないのか」
ようやくそう聞くと、壌竜は少しだけ間を置いた。
「……そういう言い方もある」
「違うのか」
「眠れぬのではない。眠る前に、整理がつかんだけだ」
らしい言い方だと思った。弱いとも苦しいとも言わず、ただ整理がつかないと言う。その曖昧さが、かえって今の重さをよく表している気がした。
「共に戦っていた」
壌竜がぽつりと言う。
「それは事実だ」
俺は答えず、続きを待った。
「好んで従っていたわけではない。だが、価値は認めていた」
「……ああ」
「だからこそ、ああして消えるのを見て、何も感じぬわけではない」
視線はまだ前を向いたままだ。悲しいとも悔しいとも言わない。ただ、何も感じないわけではない、とだけ言う。その言い方の方がずっと重かった。
「主は、そこを軽く扱わなかった」
低い声が、少しだけ近く聞こえる。
「それが、妙に残る」
あの時のことを言っているのだと分かった。軽い慰めにも、分かったふりにも乗らなかったこと。そこを見ていたのかと思うと、不思議な気分になる。
「割り切ることはできる」
壌竜の指が、シーツの上で静かに止まる。
「戦場で終わったものを、いつまでも引きずるつもりもない」
「壌竜らしいな」
「だが」
そこで言葉が切れた。
短い沈黙のあと、ようやく落ちてきた声は、さっきまでよりも少し低かった。
「それで、重さが消えるわけではない」
その一言が、この夜の全部だった気がした。
整理はできる。前を向くこともできる。切り替えることもできる。けれど、重くないわけじゃない。そこを無視しないのが、たぶん壌竜の強さなのだろう。
「主」
「何だ」
「私は今、前の戦いを終えた者でもあり、新たにここへ置かれた者でもある」
「……ああ」
「そのどちらにも、まだ完全には馴染まん」
その言葉へ、綺麗な返事はできなかった。
分かる、とも言えない。全部を受け止めてやれるほど、俺も器用じゃない。だから、少しだけ壌竜の方へ寄る。肩が触れるほどではない。ただ、距離を一つ縮めるだけだ。
「無理に馴染まなくていい」
そう言うと、壌竜は初めてこちらを見た。
「俺だって、まだ全部を受け止め切れてるわけじゃない」
「……」
「お前がここにいることも、前の相手が消えたことも、正しい答えが出てるわけじゃない」
壌竜の目が細くなる。
「それを言うか」
「言うさ。分かった顔で軽いこと言う方が、たぶん嫌だろ」
すぐには返事がなかった。けれど、拒まれもしなかった。ベッドの沈み方が、ほんの少しだけ変わる。壌竜が肩の力を抜いたのだと分かった。
「主は甘い」
「知ってる」
「甘いくせに、逃げぬ」
「それも知ってる」
「……厄介だな」
「よく言われる」
そこで、ほんの少しだけ空気が緩んだ。笑い声にはならない。けれど、張りつめていたものが少しだけほどける感じがした。
「だが、今はそれでいい」
壌竜が静かに言う。
「今は、か」
「今は、だ」
それで十分だった。
壌竜はそれ以上喋らず、少しだけ目を閉じた。眠ったわけではない。ただ、戦いのあとの重さを、今だけここへ置くと決めたような静けさだった。俺ももう何も言わなかった。
同じベッドの端で、同じ夜をやり過ごす。
それだけで、今は少し足りる気がした。