夜の複合施設は、河川敷の土臭さとはまるで別の生き物みたいだった。磨かれた床は灯りを薄く返し、吹き抜けの上ではガラスの装飾が静かに揺れている。歩くたび、靴音だけが場違いに響いた。
「……来る場所、間違えた気がするな」
思わず漏らすと、隣を歩く壌竜が周囲を見渡したまま言う。
「派手だが、薄い」
「悪口っぽいな」
「事実を言っただけだ」
その返しに肩をすくめた時だった。
「ふふ。ようこそ」
前から声が落ちてきた。視線を向ける。赤いドレスの女が、こちらへ歩いてくるところだった。柔らかな笑み。流れるような所作。いかにも、この場に馴染んだ人間の顔だ。
「初めてのお客様には、少し眩しすぎましたかしら?」
「……まあ、そんなところです」
「でしたら、少しご案内いたしましょうか」
断る理由を探すより先に、女は自然な近さまで寄ってきていた。名乗りもしていないのに、距離の詰め方だけが妙に完成されている。壌竜の視線がわずかに細まるのを見た。
「こちら、床の段差が少し見えにくいんですの」
そう言って、女――バカラの指先が俺の腕へ軽く触れた。
ほんの一瞬だった。案内役としては自然すぎるほど自然な接触。なのに、肌の上を薄い膜が撫でたみたいな違和感だけが遅れて残る。
「主」
壌竜が低く呼ぶ。
「ん?」
「……いや、まだいい」
そこで終わったのが、妙に引っかかった。
歩き出して三歩目で、足が滑った。
「っ――!」
派手には転ばない。だが、踏み出した先がわずかに狂っただけで、体勢は簡単に崩れる。とっさに手すりへ手を伸ばした瞬間、頭上で甲高い音が鳴った。グラスだ。どこかのテーブルから落ちたそれが、床で割れる。破片が足元へ散り、その反射光が目に刺さる。
「あら、大丈夫ですか?」
バカラは笑ったままだった。
その笑顔のまま、今度は吹き抜けの照明がわずかに揺れる。ガラスの飾りがきしみ、留め具の一つが外れた。落ちる。ほとんど反射だった。壌竜の腕が前へ出て、俺の肩を強く引く。次の瞬間、重い装飾がさっきまで俺がいた床へ叩きつけられた。
「動くな、主」
「……今の、偶然か?」
「偶然にしては重なりすぎている」
壌竜の声はいつも通り低い。だが、その低さの底で戦闘の気配が立ち上がっていた。
バカラが、少しだけ首を傾げる。
「運が悪かっただけではなくて?」
「そう見せる気か」
壌竜が一歩前へ出る。
その時、上階のラウンジから男の声が降ってきた。
「手際がいいな、バカラ」
見上げる。手すり越しにこちらを見下ろす影があった。高い場所から、盤面を確認するような目。敵だと分かるには十分だった。
「ええ」
バカラが振り向く。
「主導権は、最初の一手で決まりますもの」
「……最初から、そのつもりか」
俺が言うと、バカラの笑みの温度が一段下がった。
「もちろんですわ。敵意を見せる前に終わらせる方が、美しいでしょう?」
壌竜の視線が俺の腕へ落ちる。
「主。最初に、あれへ触れられたな」
「……腕を、少し」
「やはりか」
バカラが指の間へ、いつの間にかコインを一枚挟んでいた。軽く弾く。高くもない音が鳴る。たったそれだけで、照明の角度が狂った。反射した光が目へ差し込み、その眩みの向こうで階段脇の装飾が外れ、足元の床には誰かの落とした水滴が細く走る。
「少し、運を頂いただけですわ」
バカラは微笑む。
「触れられた時点で、もう少し警戒なさるべきでしたわね」
コインが回りながら落ちる前に、壌竜が俺の前へ立った。褐色の背が視界を塞ぐ。重い。だが、その重さが今は妙に心強かった。
「接触を起点に、盤面を傾ける能力か」
「さすが」
バカラの唇が静かに弧を描く。
「見ていらっしゃるのね」
「主、前へ出るな」
壌竜が言う。
「盤面は向こうが先手だ」
そこで、ポケットの中のスマホが震えた。
冷たい振動が掌へ伝わる。取り出した画面には、黒い表示が浮かび上がっていた。
――TARGET CONTRACTED SUBJECT : BACCARAT
――ENGAGEMENT CONFIRMED
敵マスターが上から告げる。
「終わらせろ」
「ええ。綺麗に」
バカラがもう一枚、コインを指先で弾く。
照明が揺れる。
嫌な偶然の連鎖が、また始まろうとしていた。