※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

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その運の使い方

 コインが、軽い音を立てて空へ弾かれた。

 

 たったそれだけだった。投げつけられたわけでもない。刃物でも、弾丸でもない。ただの小さな金属片が、照明の縁へ当たって跳ねる。その瞬間、真上のガラス灯がわずかに傾いた。白い光が角度を変え、目の奥へ鋭く差し込んでくる。

 

「っ……!」

 

 反射で顔を背けた、その一拍がまずかった。

 

 横を通り過ぎようとしていたウェイターの足が滑る。銀のトレーが傾き、乗っていたグラスが空中へ散るように飛んだ。割れる音。床へ弾ける透明な破片。こぼれた液体が磨き上げられた床を薄く濡らし、その上へ別の客の靴が乗る。悲鳴。身体の向きが崩れ、その客が俺の方へ倒れ込んできた。

 

「主!」

 

 壌竜の腕が肩を引く。強い。引かれた勢いのまま半歩退いた場所へ、今度は上階の装飾棚から外れた金具が落ちてきた。ついさっきまで立っていた位置だ。

 

 心臓が、嫌な音を立てる。

 

 バカラは笑っていた。薄く、柔らかく、まるでこちらの無様さを気遣っているみたいな顔で。

 

「まあ、お気の毒」

 赤い唇が、上品に弧を描く。

「今日は本当に、運がお悪いんですのね」

 

「……ふざけるな」

 

 口の中が乾く。何もしていない顔で。指一本触れずに。そういう体裁のまま、人を落とす。壊す。巻き込む。

 

 俺が前へ出ようとした瞬間、壌竜の手がまた腕を掴んだ。

 

「動くな、主」

「離せ」

「今は駄目だ」

 

 低い声だ。怒鳴っていない。なのに、それ以上踏み込むのを身体が拒む。

 

 バカラがもう一枚、コインを指先で弄ぶ。爪先で転がすだけの仕草が妙に優雅で、それがかえって腹立たしかった。

 

「そんなに睨まないでくださいまし」

「睨むだろ……!」

 声が荒くなる。

「見えてるくせに、人まで巻き込むのかよ!」

 

 言い切った直後、後方で女の短い悲鳴が上がった。振り向く。ラウンジ側の飾り棚が傾いていた。固定具が外れ、グラスとボトルがまとめて揺れている。下には一般客がいる。逃げ遅れた子どもが一人、呆然と見上げていた。

 

 息が止まる。

 

 壌竜が動いた。床を蹴る音はほとんどしない。重い身体が一直線に割り込み、片腕で棚の縁を受け止める。ガラスのひび割れる高い音が耳へ刺さった。崩れ落ちるまではいかない。だが、間に合っていなければ確実に巻き込まれていた。

 

 それでも、バカラは笑顔を崩さなかった。

 

「ええ、見えておりますわ」

 俺の問いへ、丁寧に答える。

「けれど、不運は平等ですもの」

 

 そこで、頭の中の何かがきしんだ。

 

 平等。そう言えば、自分の手は汚れていないことになるのか。自分はただ、運が悪い人間を眺めているだけだと。そんな顔で。

 

「っ、この……!」

 

 今度こそ踏み込みかけた足が、床の破片を踏んだ。嫌な感触。滑る。体勢が崩れる。壌竜が棚を押し戻したまま、もう片方の腕で俺の胴を止める。

 

「主」

「分かってる、けど――!」

「怒るのは構わん」

 壌竜の声が落ちる。

「だが、崩れるな」

「……!」

 

「怒りは後で使え。今は読む時だ」

 

 その一言が、頭へ冷たい水をかけられたみたいに効いた。

 

 バカラの後ろ、高所から敵のマスターが見下ろしている。焦ってはいない。むしろ、この盤面の傾き方を当然のものとして受け止めている顔だ。

 

「遊びは終わりだ、バカラ。さっさと落とせ」

「遊んではおりませんわ」

 バカラは肩をすくめる。

「最も効率よく、不運へ沈めているだけですもの」

「口答えしている暇があるのか」

「結果が出ている以上、問題はありませんでしょう?」

 

 忠誠とは違う。従順でもない。ビジネスライクという言葉で片づけるには、少し湿っている。だが、少なくともバカラは、あの男に心酔しているわけじゃない。勝ち筋があるから並んでいる。そういう温度だった。

 

 壌竜が視線を外さず言う。

 

「主。接触の後から、事故の向きがすべてこちらへ寄っている」

「……ああ」

「偶然ではない。盤面操作だ」

「運を奪うだけじゃないってことか」

「奪った上で、連鎖を寄せている」

 

 バカラが、そこで少しだけ楽しそうに目を細めた。

 

「おや。そこまで見えますのね」

 コインが指の上で一度だけ跳ねる。

「ですが、見えたところで避けられます?」

 

 答えなかった。代わりに、ポケットの中の震えへ手を突っ込む。スマホだ。取り出した画面はすでに黒く沈み、白い文字が浮かび始めていた。

 

 ――TARGET CONTRACTED SUBJECT : BACCARAT

 ――ENGAGEMENT ANALYSIS START

 

「……来た」

「主」

 壌竜が一歩、前へ出る。

「今は前へ出るな。盤面を戻せ」

「分かってる」

 

 怒りは消えていない。むしろ、さっきよりはっきり燃えている。

 

 だが、そのまま突っ込めば負ける。あの女はそういう相手だ。笑ったまま周囲を壊し、人の不幸を足場にして、自分だけ綺麗な顔で立っている。

 

「……許せるかよ、こんなやり方」

 低く漏れた声へ、壌竜が返す。

「許す必要はない」

「なら」

「答えで潰せ」

 

 短い。だが、それで十分だった。

 

 俺はスマホを握り直し、バカラを見た。壌竜の背越しに、赤いドレスの女がまたコインを弾こうとしている。上品な笑みは、まだ崩れない。

 

「今度は、こっちが読む」

 そう言った直後、コインがまた空へ上がった。

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