コインが、軽い音を立てて空へ弾かれた。
たったそれだけだった。投げつけられたわけでもない。刃物でも、弾丸でもない。ただの小さな金属片が、照明の縁へ当たって跳ねる。その瞬間、真上のガラス灯がわずかに傾いた。白い光が角度を変え、目の奥へ鋭く差し込んでくる。
「っ……!」
反射で顔を背けた、その一拍がまずかった。
横を通り過ぎようとしていたウェイターの足が滑る。銀のトレーが傾き、乗っていたグラスが空中へ散るように飛んだ。割れる音。床へ弾ける透明な破片。こぼれた液体が磨き上げられた床を薄く濡らし、その上へ別の客の靴が乗る。悲鳴。身体の向きが崩れ、その客が俺の方へ倒れ込んできた。
「主!」
壌竜の腕が肩を引く。強い。引かれた勢いのまま半歩退いた場所へ、今度は上階の装飾棚から外れた金具が落ちてきた。ついさっきまで立っていた位置だ。
心臓が、嫌な音を立てる。
バカラは笑っていた。薄く、柔らかく、まるでこちらの無様さを気遣っているみたいな顔で。
「まあ、お気の毒」
赤い唇が、上品に弧を描く。
「今日は本当に、運がお悪いんですのね」
「……ふざけるな」
口の中が乾く。何もしていない顔で。指一本触れずに。そういう体裁のまま、人を落とす。壊す。巻き込む。
俺が前へ出ようとした瞬間、壌竜の手がまた腕を掴んだ。
「動くな、主」
「離せ」
「今は駄目だ」
低い声だ。怒鳴っていない。なのに、それ以上踏み込むのを身体が拒む。
バカラがもう一枚、コインを指先で弄ぶ。爪先で転がすだけの仕草が妙に優雅で、それがかえって腹立たしかった。
「そんなに睨まないでくださいまし」
「睨むだろ……!」
声が荒くなる。
「見えてるくせに、人まで巻き込むのかよ!」
言い切った直後、後方で女の短い悲鳴が上がった。振り向く。ラウンジ側の飾り棚が傾いていた。固定具が外れ、グラスとボトルがまとめて揺れている。下には一般客がいる。逃げ遅れた子どもが一人、呆然と見上げていた。
息が止まる。
壌竜が動いた。床を蹴る音はほとんどしない。重い身体が一直線に割り込み、片腕で棚の縁を受け止める。ガラスのひび割れる高い音が耳へ刺さった。崩れ落ちるまではいかない。だが、間に合っていなければ確実に巻き込まれていた。
それでも、バカラは笑顔を崩さなかった。
「ええ、見えておりますわ」
俺の問いへ、丁寧に答える。
「けれど、不運は平等ですもの」
そこで、頭の中の何かがきしんだ。
平等。そう言えば、自分の手は汚れていないことになるのか。自分はただ、運が悪い人間を眺めているだけだと。そんな顔で。
「っ、この……!」
今度こそ踏み込みかけた足が、床の破片を踏んだ。嫌な感触。滑る。体勢が崩れる。壌竜が棚を押し戻したまま、もう片方の腕で俺の胴を止める。
「主」
「分かってる、けど――!」
「怒るのは構わん」
壌竜の声が落ちる。
「だが、崩れるな」
「……!」
「怒りは後で使え。今は読む時だ」
その一言が、頭へ冷たい水をかけられたみたいに効いた。
バカラの後ろ、高所から敵のマスターが見下ろしている。焦ってはいない。むしろ、この盤面の傾き方を当然のものとして受け止めている顔だ。
「遊びは終わりだ、バカラ。さっさと落とせ」
「遊んではおりませんわ」
バカラは肩をすくめる。
「最も効率よく、不運へ沈めているだけですもの」
「口答えしている暇があるのか」
「結果が出ている以上、問題はありませんでしょう?」
忠誠とは違う。従順でもない。ビジネスライクという言葉で片づけるには、少し湿っている。だが、少なくともバカラは、あの男に心酔しているわけじゃない。勝ち筋があるから並んでいる。そういう温度だった。
壌竜が視線を外さず言う。
「主。接触の後から、事故の向きがすべてこちらへ寄っている」
「……ああ」
「偶然ではない。盤面操作だ」
「運を奪うだけじゃないってことか」
「奪った上で、連鎖を寄せている」
バカラが、そこで少しだけ楽しそうに目を細めた。
「おや。そこまで見えますのね」
コインが指の上で一度だけ跳ねる。
「ですが、見えたところで避けられます?」
答えなかった。代わりに、ポケットの中の震えへ手を突っ込む。スマホだ。取り出した画面はすでに黒く沈み、白い文字が浮かび始めていた。
――TARGET CONTRACTED SUBJECT : BACCARAT
――ENGAGEMENT ANALYSIS START
「……来た」
「主」
壌竜が一歩、前へ出る。
「今は前へ出るな。盤面を戻せ」
「分かってる」
怒りは消えていない。むしろ、さっきよりはっきり燃えている。
だが、そのまま突っ込めば負ける。あの女はそういう相手だ。笑ったまま周囲を壊し、人の不幸を足場にして、自分だけ綺麗な顔で立っている。
「……許せるかよ、こんなやり方」
低く漏れた声へ、壌竜が返す。
「許す必要はない」
「なら」
「答えで潰せ」
短い。だが、それで十分だった。
俺はスマホを握り直し、バカラを見た。壌竜の背越しに、赤いドレスの女がまたコインを弾こうとしている。上品な笑みは、まだ崩れない。
「今度は、こっちが読む」
そう言った直後、コインがまた空へ上がった。