コインが照明に弾かれた瞬間、白い反射が目の奥を刺した。
眩しさに視界が滲む。その一拍の遅れを待っていたみたいに、床へ散ったグラスの破片が靴裏を滑らせた。踏み直す。今度は上から飾りの鎖が外れ、脇をかすめて落ちる。耳元で鳴った金属音が、やけに長く残った。
「危ないですわね」
バカラは笑っていた。
「こちらは少し、足元が不安定でして」
「お前がやったんだろ」
吐き捨てても、赤い唇は崩れない。
「まあ。わたくしは何もしておりませんわ」
指先でコインを転がす。
「ただ、少し運が傾いているだけですもの」
その言い方が、ひどく腹立たしかった。
真正面から殴ってくるならまだいい。だが、こいつは笑ったまま他人を踏み台にする。責任の形だけ綺麗に切り落として、事故だの不運だので済ませる顔をしている。
後ろで短い悲鳴が上がった。振り返る。転倒した給仕が別の客へぶつかり、持っていた皿が宙を舞う。その軌道の先に、小さな子どもがいた。
「っ、危ねえ!」
踏み出しかけた腕を、壌竜が掴む。そのまま前へ出る。褐色の背が俺の視界を塞ぎ、落ちてきた銀皿を拳で叩き逸らした。皿は柱へ当たり、甲高い音を立ててひしゃげる。
「主、前へ出るな」
「でも、あいつ……!」
「見えている」
低い声だった。怒っていない。けれど、押し返す力が強い。
バカラはその様子を見て、ほう、と息だけで笑った。
「素敵ですこと。怒っても、ちゃんと止めてくださる方がいらっしゃるんですのね」
視線が壌竜へ流れる。
「羨ましいですわ」
「羨ましい?」
思わず言い返す。
「周り巻き込んどいて、よくそんな顔できるな」
「仕方がありませんでしょう?」
バカラは肩をすくめた。
「勝つためですもの。まさか、ここで他人の無事をいちいち数えていらっしゃるの?」
上品だった。声も、笑みも、仕草も。だから余計に質が悪い。薄いレースの手袋でもはめたまま、人の喉元を裂くような女だ。
壌竜が、俺の前で僅かに顎を引く。
「主。最初に触れられてからだ」
「……ああ」
「事故の向きが、すべてこちらへ寄っている」
「分かってる」
分かっている。だから厄介なんだ。
ポケットの中でスマホが震える。取り出した画面の白文字が、揺れた視界の中で滲んだ。
――ENGAGEMENT ANALYSIS START
読む。いつもなら、ここからだ。相手の正体を暴き、条件を掴み、盤面を奪う。だが今は違う。照明が揺れるたび、グラスが割れるたび、階段の縁が足をさらうたび、読むための間そのものが削られていく。
「……読ませる気がないのか」
「ええ」
バカラが即座に頷く。
「だって、不運な方に考える余裕なんて、ございませんでしょう?」
その時、頭の奥で別の言葉が引っかかった。
アプリを消去された場合、所有者は消滅する。
過去に何度も見てきたはずのルールが、今さら冷たく浮かび上がる。消去。破壊。盤面の外側から切る方法。
俺は画面から目を上げ、上階を見た。敵のマスターは吹き抜けの欄干に片肘を預け、余裕ぶってこちらを見下ろしている。右手。黒いスマホ。指のかかり方。落とせる高さ。
「主」
壌竜が呼ぶ。
「何を見た」
喉がひどく渇いていた。
「……問題を読む前に終わるなら」
自分の声が、妙に遠く聞こえる。
「盤面ごと壊す」
壌竜が一瞬だけ黙る。否定しない。肯定もしない。ただ、俺の視線の先を追う。
「スマホか」
「ああ」
「壊せば、終わる可能性が高い」
可能性、じゃない。ほとんど確定だ。分かっていて、なお言葉を選んだのだろう。俺に、軽く決めさせないために。
バカラは何も知らないまま、次のコインを爪先で弾き上げる。
「どうなさいました?」
柔らかく首を傾ける。
「そんなに怖いお顔をして。まだ始まったばかりですのに」
その笑顔の奥で、また誰かが巻き込まれる。
なら、もういい。
「壌竜」
「言え、主」
「道を作れ」
上階から目を逸らさないまま言う。
「一回でいい。あいつの手元に届けばいい」
壌竜の返事は短かった。
「分かった」
その一言で、腹の底の迷いが、少しだけ形を失った。