※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

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運の先へ

 バカラの指先で、またコインが跳ねた。

 

 高くもない音だったのに、その小さな響きだけで空気の向きが変わる。照明が揺れる。割れたグラスの破片が、床の上で嫌な光を返す。さっきまで立っていた客の足元へ、誰かの落としたナプキンが滑り込み、その向こうでは外れかけた装飾棚が今にも傾きそうだった。

 

 全部が、こちらへ寄ってくる。

 

「では、続きを」

 バカラは笑う。

「今度はもう少し、分かりやすく不運になっていただきますわ」

 

 その笑顔を見た瞬間、腹の底で何かが固まった。

 

 もう読む時間はない。読む前に崩される。周りを巻き込みながら、こっちへ事故を押しつけ続ける。だったら――。

 

「壌竜」

「言え、主」

 

 俺は上階の欄干を見上げた。敵マスターの右手。黒いスマホ。指のかかり方。手首の角度。自分が狙われる側になるなんて、まだ本気では考えていない顔。

 

「あれを落とす」

 喉がひどく乾いていた。それでも、言葉だけは驚くほどはっきり出た。

「一瞬でいい。道をくれ」

 

 壌竜が、ほんのわずかにこちらを見る。驚きも、ためらいも見せない。ただ、俺が何を決めたのかを量るみたいに、その視線だけが重く落ちた。

 

「分かった」

 返事は短い。

「真っ直ぐ行け、主」

 

 その直後、壌竜が一歩前へ出た。

 

 褐色の脚が床を踏み鳴らす。鈍い衝撃が複合施設の磨かれた床を震わせた。次の瞬間、俺の足元だけがわずかに持ち上がる。割れた破片の帯が左右へ押し退けられ、滑っていた床の一部が盛り上がって、細い一直線の足場になる。

 

 壌竜の大地操作だ。

 

 だが、それは河川敷で見たような豪快な支配じゃない。たった一人を通すための、無理やり作った細い道。余計なものは何も守らない。ただ、俺の進路だけを、こじ開ける。

 

「まあ」

 バカラが初めて、少しだけ目を細めた。

「そんな力任せで、幸運を押し切るおつもり?」

 

「押し切る必要はない」

 壌竜が答える。

「主を通すだけだ」

 

 言い終えるのと同時に、バカラのコインがさらに二枚、三枚と弾かれた。

 

 照明が落ちる。ガラスが割れる。手すりの飾りが外れ、上階から金属片が雨みたいに降ってくる。

 

 壌竜は退かない。

 

 拳で一つを叩き逸らす。肩で落下物を受け、翼の片側を盾みたいに広げて、横から飛んできた破片を防ぐ。床の盛り上がりが一瞬崩れかけても、次の踏み込みでまた押し戻す。

 

 一直線。

 

 細く、危うく、それでも確かに続く道。

 

「走れ、主!」

 

 壌竜の声が飛ぶ。

 

 その一声で、足が動いた。

 

 前だけを見る。読む暇はない。考える時間もない。照明の破片が肩を掠める。誰かの悲鳴が後ろで上がる。視界の端でバカラがまだ笑っているのが見えた。

 

「無駄ですわよ」

 その声だけが、妙に近い。

「運の悪い方は、真っ直ぐ走ることすら――」

 

 最後まで聞かなかった。

 

 足元が一度だけ滑る。次の瞬間、壌竜の操作した床がせり上がって、崩れた体勢を押し返す。走る。上階へ続く階段。手すりの影。欄干に寄りかかる敵マスターの目が、そこでようやく本気で見開かれた。

 

「……っ、おい!」

 初めて、焦りの乗った声だった。

「バカラ、何してる! 止めろ!」

 

「止めておりますわ」

 下から返るバカラの声は、まだ柔らかい。

「ですが、少し強引でいらっしゃるんですもの」

 

 遅い。

 

 階段を踏み切る。上階の床へ足が届く。敵マスターがスマホを庇うように引いた。反射だけは早い。だが、それでも一歩遅い。

 

「来るな!」

「お前が始めたんだろ」

 

 吐き出すと同時に、相手の手首を払う。鈍い感触。スマホが指から離れて宙へ浮く。

 

 その一瞬だけ、時間が伸びた。

 

 落ちる黒い長方形。画面に映る、割れた照明の白。自分の手の震え。壌竜の「途中で止まるな」という声。バカラの上品な笑み。巻き込まれそうになった子どもの顔。

 

 全部が、そこへ詰まる。

 

「悪い」

 

 誰へ向けた言葉か、自分でも分からなかった。

 

 伸ばした手で、そのスマホを叩き落とす。床へぶつかったそれが跳ねる。追いつく。踏み砕く。

 

 硬い音がした。小さく、嫌な、終わりの音だった。

 

 バキッ。

 

 それだけで、施設の空気が死んだ。

 

 揺れていた照明が止まる。落ちかけた飾りが、中途半端な角度で静止する。床の滑りが途切れ、転がっていたコインがただの金属片として転がる。さっきまで嫌というほど寄ってきた“不運”の気配が、嘘みたいに薄れる。

 

「……あら」

 

 バカラの声が、初めてそこで揺れた。

 

 見下ろす。赤いドレスの女はまだ笑っている。けれど、その笑みはもう完璧じゃない。唇の端が、ほんの少しだけ引きつっている。

 

「まあ……本当に、乱暴な方ですこと」

 

 それでも言葉遣いは崩れない。そこだけは最後まで守るつもりらしい。上品で、無責任で、腹が立つほど綺麗なままだ。

 

 足元で、敵マスターが息を呑む。

 

「う、そ……だろ」

 

 右手を見る。空の掌。砕けたスマホ。次の瞬間、その指先から白い光が零れ始めた。

 

 肩、喉元、輪郭の端。見慣れたはずの消滅の兆候が、また静かに始まる。

 

 胸の奥が鈍く痛む。

 

 勝った、とは思えなかった。終わらせたのだと、嫌でも分かる。自分の意思で。自分の足で走って。自分の手で壊した。

 

 その重さが、遅れて身体へ落ちてくる。

 

「主」

 

 背後から、壌竜の声がした。

 

 振り返らない。振り返ったら、たぶん少しだけ足が止まる気がした。壌竜はすぐ後ろまで来ていたらしい。重い足音もなく、ただ声だけが追いつく。

 

「まだ終わってはいない」

 

 分かってる、と答えようとして、喉が詰まった。

 

 下階では、バカラが割れた笑みのままこちらを見上げている。敵マスターの白い光が、その横でゆっくりほどけていく。壌竜はその全部を背後で受け止めながら、俺だけに短く言う。

 

「主。立て」

 

 その一言で、ようやく息を吸えた。

 

 拳を握る。震えている。けれど、まだ動く。

 

「……ああ」

 

 返すと、バカラが少しだけ首を傾けた。

 

「本当に」

 笑みの形を取り戻そうとするみたいに、赤い唇が持ち上がる。

「無粋な勝ち方をなさるのね」

 

 その言い方へ、今度は怒りより先に、冷たいものが戻ってきた。

 

 まだ終わっていない。

 

 壊れたスマホの先で、ようやく本当のバカラ戦が始まろうとしていた。

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