バカラの指先で、またコインが跳ねた。
高くもない音だったのに、その小さな響きだけで空気の向きが変わる。照明が揺れる。割れたグラスの破片が、床の上で嫌な光を返す。さっきまで立っていた客の足元へ、誰かの落としたナプキンが滑り込み、その向こうでは外れかけた装飾棚が今にも傾きそうだった。
全部が、こちらへ寄ってくる。
「では、続きを」
バカラは笑う。
「今度はもう少し、分かりやすく不運になっていただきますわ」
その笑顔を見た瞬間、腹の底で何かが固まった。
もう読む時間はない。読む前に崩される。周りを巻き込みながら、こっちへ事故を押しつけ続ける。だったら――。
「壌竜」
「言え、主」
俺は上階の欄干を見上げた。敵マスターの右手。黒いスマホ。指のかかり方。手首の角度。自分が狙われる側になるなんて、まだ本気では考えていない顔。
「あれを落とす」
喉がひどく乾いていた。それでも、言葉だけは驚くほどはっきり出た。
「一瞬でいい。道をくれ」
壌竜が、ほんのわずかにこちらを見る。驚きも、ためらいも見せない。ただ、俺が何を決めたのかを量るみたいに、その視線だけが重く落ちた。
「分かった」
返事は短い。
「真っ直ぐ行け、主」
その直後、壌竜が一歩前へ出た。
褐色の脚が床を踏み鳴らす。鈍い衝撃が複合施設の磨かれた床を震わせた。次の瞬間、俺の足元だけがわずかに持ち上がる。割れた破片の帯が左右へ押し退けられ、滑っていた床の一部が盛り上がって、細い一直線の足場になる。
壌竜の大地操作だ。
だが、それは河川敷で見たような豪快な支配じゃない。たった一人を通すための、無理やり作った細い道。余計なものは何も守らない。ただ、俺の進路だけを、こじ開ける。
「まあ」
バカラが初めて、少しだけ目を細めた。
「そんな力任せで、幸運を押し切るおつもり?」
「押し切る必要はない」
壌竜が答える。
「主を通すだけだ」
言い終えるのと同時に、バカラのコインがさらに二枚、三枚と弾かれた。
照明が落ちる。ガラスが割れる。手すりの飾りが外れ、上階から金属片が雨みたいに降ってくる。
壌竜は退かない。
拳で一つを叩き逸らす。肩で落下物を受け、翼の片側を盾みたいに広げて、横から飛んできた破片を防ぐ。床の盛り上がりが一瞬崩れかけても、次の踏み込みでまた押し戻す。
一直線。
細く、危うく、それでも確かに続く道。
「走れ、主!」
壌竜の声が飛ぶ。
その一声で、足が動いた。
前だけを見る。読む暇はない。考える時間もない。照明の破片が肩を掠める。誰かの悲鳴が後ろで上がる。視界の端でバカラがまだ笑っているのが見えた。
「無駄ですわよ」
その声だけが、妙に近い。
「運の悪い方は、真っ直ぐ走ることすら――」
最後まで聞かなかった。
足元が一度だけ滑る。次の瞬間、壌竜の操作した床がせり上がって、崩れた体勢を押し返す。走る。上階へ続く階段。手すりの影。欄干に寄りかかる敵マスターの目が、そこでようやく本気で見開かれた。
「……っ、おい!」
初めて、焦りの乗った声だった。
「バカラ、何してる! 止めろ!」
「止めておりますわ」
下から返るバカラの声は、まだ柔らかい。
「ですが、少し強引でいらっしゃるんですもの」
遅い。
階段を踏み切る。上階の床へ足が届く。敵マスターがスマホを庇うように引いた。反射だけは早い。だが、それでも一歩遅い。
「来るな!」
「お前が始めたんだろ」
吐き出すと同時に、相手の手首を払う。鈍い感触。スマホが指から離れて宙へ浮く。
その一瞬だけ、時間が伸びた。
落ちる黒い長方形。画面に映る、割れた照明の白。自分の手の震え。壌竜の「途中で止まるな」という声。バカラの上品な笑み。巻き込まれそうになった子どもの顔。
全部が、そこへ詰まる。
「悪い」
誰へ向けた言葉か、自分でも分からなかった。
伸ばした手で、そのスマホを叩き落とす。床へぶつかったそれが跳ねる。追いつく。踏み砕く。
硬い音がした。小さく、嫌な、終わりの音だった。
バキッ。
それだけで、施設の空気が死んだ。
揺れていた照明が止まる。落ちかけた飾りが、中途半端な角度で静止する。床の滑りが途切れ、転がっていたコインがただの金属片として転がる。さっきまで嫌というほど寄ってきた“不運”の気配が、嘘みたいに薄れる。
「……あら」
バカラの声が、初めてそこで揺れた。
見下ろす。赤いドレスの女はまだ笑っている。けれど、その笑みはもう完璧じゃない。唇の端が、ほんの少しだけ引きつっている。
「まあ……本当に、乱暴な方ですこと」
それでも言葉遣いは崩れない。そこだけは最後まで守るつもりらしい。上品で、無責任で、腹が立つほど綺麗なままだ。
足元で、敵マスターが息を呑む。
「う、そ……だろ」
右手を見る。空の掌。砕けたスマホ。次の瞬間、その指先から白い光が零れ始めた。
肩、喉元、輪郭の端。見慣れたはずの消滅の兆候が、また静かに始まる。
胸の奥が鈍く痛む。
勝った、とは思えなかった。終わらせたのだと、嫌でも分かる。自分の意思で。自分の足で走って。自分の手で壊した。
その重さが、遅れて身体へ落ちてくる。
「主」
背後から、壌竜の声がした。
振り返らない。振り返ったら、たぶん少しだけ足が止まる気がした。壌竜はすぐ後ろまで来ていたらしい。重い足音もなく、ただ声だけが追いつく。
「まだ終わってはいない」
分かってる、と答えようとして、喉が詰まった。
下階では、バカラが割れた笑みのままこちらを見上げている。敵マスターの白い光が、その横でゆっくりほどけていく。壌竜はその全部を背後で受け止めながら、俺だけに短く言う。
「主。立て」
その一言で、ようやく息を吸えた。
拳を握る。震えている。けれど、まだ動く。
「……ああ」
返すと、バカラが少しだけ首を傾けた。
「本当に」
笑みの形を取り戻そうとするみたいに、赤い唇が持ち上がる。
「無粋な勝ち方をなさるのね」
その言い方へ、今度は怒りより先に、冷たいものが戻ってきた。
まだ終わっていない。
壊れたスマホの先で、ようやく本当のバカラ戦が始まろうとしていた。