砕けたスマホの音は、思っていたより小さかった。
もっと派手に弾けるかと思っていた。火花でも散るのではないかと、どこかで勝手に構えていた。実際に床へ落ちたのは、薄い破片と、黒い殻みたいな残骸だけだった。なのに、その小さな音が止んだ瞬間、施設じゅうに張りついていた嫌な気配が、すっと引いた。
揺れていた照明が止まる。
落ちかけていた飾り棚が、そこでようやく静止する。
床を滑っていたグラスの破片も、ただの割れたガラスへ戻った。
耳の奥に残っていたざわめきが消え、代わりに、人の息を呑む音だけが広がった。
「……あ」
敵マスターが、壊れたスマホを見下ろしていた。
最初は、それが何を意味するのか分かっていない顔だった。自分の足元へ膝をつき、残骸を拾おうとする。だが、伸ばした指先が、そこでふっと白くほどけた。
「は……?」
肩。手首。喉元。
輪郭の薄いところから順番に、光が滲み出していく。見慣れたはずの消え方なのに、今回は妙に生々しかった。問題を解き切って勝った時のような“処理”ではない。俺が走って、俺が壊して、俺が引き起こした終わり方だった。
「待て……」
掠れた声が漏れる。
「待て、まだ……」
もう遅い。
男はそれを本能で理解したのか、顔を上げた。視線が俺を通り越して、バカラへ向かう。
「バカラ!」
その名に、赤いドレスの女がゆっくりと振り返った。
まだ笑っている。けれど、完璧ではない。口元の形は保っているのに、目だけがほんの僅かに硬かった。自分のマスターが崩れていく光景を、あの女なりに見ているのだと分かる顔だった。
「何とかしろ!」
男が手を伸ばす。
「お前、俺の――」
言葉は最後まで続かなかった。腕の先が白く零れ、手そのものが形を失っていく。掴もうとしたものに届く前に、体が自分からほどけ始めている。
バカラは、その様子をじっと見ていた。
助けに走るでもなく、かといって目を逸らすでもなく、舞台の幕が降りるのを最後まで見届ける観客みたいに静かに。
「……本当に」
唇だけで、そう呟く。
「乱暴な方ですこと」
その言い方が、妙に刺さった。
責めているのか、呆れているのか、それとも事実を整えて口にしているだけなのか分からない。分からないまま、俺は壊れたスマホの破片を見ていた。自分の靴の先に、黒い欠片が引っかかっている。
敵マスターの光が強くなる。
「待て……!」
声が裏返る。
「まだ、俺は――」
その“俺は”の先に、どんな言葉が続いたのかは分からない。名前か、命乞いか、それとも言い訳か。白い光が喉元まで満ちて、言葉ごと掻き消してしまった。
やがて、そこには何も残らなかった。
割れたスマホの残骸だけだ。
そして、少し遅れて。
「……あら」
今度は、バカラ自身の口から漏れた。
視線がそちらへ向く。細い指の先。そこから、同じ白い光が滲んでいた。赤いドレスの裾ではなく、まずは指先から。コインを持つための綺麗な手が、爪の縁から淡く崩れ始めている。
バカラは自分の手を見る。
最初は、ただ確認するように。次に、理解したように。最後には、その事実を受け入れるように。
「そう……でしたわね」
静かな声だった。
「契約体も、同じ」
笑みは消えない。消えないまま、ほんの少しだけ薄くなる。上品さを最後まで守ろうとするみたいな顔だった。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
終わるのはマスターだけではない。分かっていたはずなのに、実際に目の前でそうなると、別の重さが出る。あの女は敵だった。巻き込みを厭わない、最悪に近い相手だった。それでも、俺が壊したスマホの先で、今こうして消えようとしている。
「……っ」
喉が詰まる。
その時、壌竜が俺のすぐ横へ並んだ。何も言わない。ただ、こちらが崩れない程度の距離へ立つ。重い気配が横にあるだけで、どうにか立っていられる気がした。
バカラがこちらを見る。
柔らかい声だ。最初に会った時と同じように、耳当たりは綺麗なままだった。
「主様」
その呼び方に、思わず息が止まる。
「勝ったのは、あなたですわね」
返せない。
「無粋で」
白い光が、手首まで登る。
「乱暴で」
笑みがわずかに揺れる。
「けれど、見事ですこと」
褒めているわけじゃない。認めている、と言うのも少し違う。たぶん、ただ最後まで、自分の言葉を美しく整えようとしているだけだ。それがこの女の矜持なのかもしれない。
「それを」
バカラの肩口から、さらに光が零れる。
「お忘れにならないのなら」
僅かに目を細める。
「少しは、見どころがあるのかもしれませんわ」
そこで、初めて唇の弧が崩れた。
大きくではない。本当に少しだけだ。諦めとも悔しさともつかない影が、上品な笑顔の端へ落ちる。
「……こういう終わりは」
声が細くなる。
「趣味ではありませんけれど」
最後に、バカラの指からコインが落ちた。
硬い床へ当たり、乾いた音を立てて転がる。けれどもう、そのコインは何も起こさなかった。ただの金属片として、吹き抜けの灯りを鈍く返すだけだ。
「でも、まあ」
光が喉元へ届く。
「運が尽きた、と」
そこで一度、俺を真っ直ぐ見た。
「そういうことに、しておきましょうか」
白い光が膨らむ。
赤いドレスの輪郭が、静かにほどけていく。敵マスターの時よりずっと静かだった。悲鳴も、取り乱しもない。ただ最後まで、自分の形を崩さないまま、薄く、薄く、空気へ溶けていく。
そして、何もなくなった。
転がるコインだけが、場違いなくらい小さく残っている。
息を吸おうとして、うまくいかなかった。
「……また」
自分でも、何を言おうとしたのか分からない。けれど、言葉は勝手に出た。
「また、終わらせた」
壊れたスマホの残骸を見る。自分の手を見る。さっき、あのスマホを叩き落とした手だ。震えていた。今も少しだけ震えている。
「今回は、もっとはっきりだ」
喉が焼けるみたいに痛い。
「俺が、壊した」
壌竜は否定しなかった。
「そうだ」
低い声が返る。
慰めない。軽くしない。その代わり、事実からも逃がさない。壌竜らしい返しだった。だからこそ、嘘みたいな安心感があった。
施設の中は静まり返っている。さっきまで聞こえていた悲鳴もざわめきも、今は遠い。一般客たちは状況を呑み込みきれず、ただ息を潜めてこちらを見ていた。
俺は、砕けたスマホと、転がるコインと、バカラが消えた場所を順に見た。
読むか。奪うか。壊すか。
方法が違うだけで、最後にやっていることは何だ。
そこへ辿り着いた瞬間、胸の奥が急に冷えた。
「……この殺し合いから」
言いかけて、声が止まる。
壌竜が横で黙っている。促しもしない。ただ待つ。
「逃れられないのか」
ようやく出た言葉は、自分でも驚くほど弱かった。
「読むか、奪うか、壊すか」
唇の内側が乾く。
「結局、終わらせる方法が違うだけで」
「やってることは……」
そこから先が続かなかった。
壌竜はしばらく答えない。
その沈黙が、妙にありがたかった。安い希望も、綺麗な正論も、今はきっと聞きたくなかったからだ。
やがて、低い声が落ちる。
「……今は、答えは出ん」
短い。
「だが、お前がそれを疑う限り」
視線は正面のまま。
「まだ完全には呑まれていない」
その言葉へ、すぐには返せなかった。
答えになっていない。けれど、それでよかった。今ほしいのは正しさじゃない。少なくとも、自分が何も感じなくなったわけではないと、そう確認できる何かだった。
壌竜が、壊れたスマホの残骸を一度だけ見下ろす。
「行くぞ、主」
促す声は静かだ。
足はすぐに動かなかった。砕けた黒い破片。転がるコイン。さっきまでそこにいた二人の消えた場所。全部が、足首に絡みつくみたいに重い。
それでも、立ち止まれば次が来る。
その事実だけは、もう嫌というほど分かっていた。
「……ああ」
小さく答えて、一歩を出す。
足音が、静まり返った高級施設の床へひどく冷たく響いた。