部屋の前で、鍵を差し込む手が一度止まった。
冷えた金属の感触だけがやけにはっきりしている。帰る場所のはずなのに、今夜ばかりは扉一枚の向こうが少し遠かった。隣に立つ壌竜は何も言わない。ただ、こちらが止まったことだけは気づいている気配がある。
「入らぬのか」
低い声に、息を一つ吐いた。
「……入る」
鍵を回す。扉を開ける。薄い生活の匂いが流れてきた。肉を焼いた後の甘い脂の残り香。洗剤。布団。いつもの部屋だ。いつものはずなのに、胸の内側だけがまだ戦場から戻れていない。
最初に反応したのはデルタだった。
「……変です」
ベッドの方から起き上がりかけた黒い耳が、ぴんと立つ。紫の目が、俺の顔より先に、服の裾や手元を見る。
「何がだ」
「匂いです」
デルタは鼻先をわずかにひくつかせた。
「嫌な終わり方の匂いがするです」
その言葉で、喉の奥が少しだけ詰まった。
バーゲストが奥から出てくる。何も聞かずに一目見て、空気を読む顔だった。ムジナは椅子へ浅く腰掛けたまま、だるそうな目をこちらへ向ける。
「見れば分かるでしょ」
気のない声なのに、妙に核心を刺す。
「たぶん、楽な勝ち方じゃなかった」
壌竜が俺の少し後ろで止まる。その位置が、かえって逃げ場をなくした。
靴を脱ぎ、数歩だけ進む。そこまでで力が切れたみたいに、ベッドの端へ腰を落とした。マットレスが鈍く沈む。誰も急かさない。沈黙だけが、部屋の真ん中へ静かに置かれる。
「……壊した」
自分でも驚くくらい、声は平坦だった。
デルタの耳が動く。
「何をです」
「敵の、スマホを」
言った瞬間、掌の奥に、あの感触が戻る。叩き落とした手。砕ける音。小さくて、やけに嫌な終わりの音。
「……そうですか」
バーゲストが静かに言う。
軽くもしないし、必要以上に沈めもしない声だった。
ムジナが椅子にもたれたまま、こちらを見る。
「それで、終わったんだ」
「終わった、じゃない」
言い直す。
「終わらせた」
その一言で、部屋の空気が少しだけ重くなった気がした。
デルタは難しい顔をしている。こういう時、真っ先に慰めるような性格じゃない。だからこそ、出てくる言葉もまっすぐだった。
「殺し合いです」
短く、言い切る。
「終わる時は終わるです」
バーゲストが続ける。
「結果としては、その通りでしょう」
そこで一度、目を伏せた。
「ですが、それで軽くなるものではありません」
「終わったからって、すぐ平気になるわけじゃないし」
ムジナが肩をすくめる。
「そういうの、分けて考えられるほど器用でもないでしょ。主って」
誰も、俺のしたことを無かったことにはしない。
それが逆に、少しだけ息をしやすくした。
壌竜がそこでようやく口を開く。
「主は、それを自分の手で選んだ」
低く、動かしようのない声だった。
「だから重い」
否定しない。庇わない。軽くもしない。あの場で俺が走って、壊して、終わらせた。その事実だけを、そのまま置く。
だからこそ、誤魔化せなかった。
視線を落とす。自分の手を見る。もう血もついていないし、傷もない。ただ、あの感触だけがまだ残っている気がした。
「……結局」
言葉が喉の奥で一度つかえる。
「逃れられないのか」
誰も動かない。
「読むか、奪うか、壊すか」
うまく息が続かない。
「やり方が違うだけで、最後は全部……」
その先が言えなかった。
殺す、という言葉を口にしてしまえば、もう少し何かが決定的になる気がした。部屋の中でまでそれを言い切りたくなくて、唇が止まる。
壌竜はすぐには答えなかった。短い沈黙のあとで、低い声が落ちる。
「今は、まだそう見えるだろうな」
肯定とも否定ともつかない返しだった。
バーゲストが静かに続ける。
「ですが、疑問を持つことをやめた時」
「本当に飲まれます」
ムジナが頬杖をついたまま、少しだけ目を細めた。
「嫌だって思えるうちは、まだ終わってないよ」
「それすらなくなったら、たぶん一番まずいし」
デルタはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「……仮ボスが嫌なら」
「まだ大丈夫です」
その言い方が、妙にデルタらしくて、胸の奥に小さく落ちた。
答えにはなっていない。救いでもない。けれど、誰も俺の疑問を潰さなかった。綺麗な言葉で塗り固めもしなかった。
それがありがたかった。
壌竜が一歩だけ近づく。ベッドのすぐ脇、手を伸ばせば届く距離に立つ。
「主」
「……何だ」
「答えを急ぐな」
静かな声だ。
「だが、疑問を捨てるな」
「それを失えば、次はもっと簡単に壊すようになる」
その一言が、今夜一番深く刺さった。
簡単に壊すようになる。
その未来だけは、嫌だと思った。嫌だと思えた。まだそこまで壊れていないのだとしたら、それだけが今の救いなのかもしれなかった。
「……ああ」
小さく返す。
部屋は静かだった。デルタはベッドの近くでじっと座っている。バーゲストは少し距離を取って、こちらを見守っていた。ムジナは椅子へ沈みながらも、目だけは逸らさない。壌竜はすぐ近くに立っている。
答えは出ない。
逃れられるのかも、まだ分からない。
それでも、疑問を抱えたまま帰ってこれた。重さをそのまま部屋の中へ持ち込んで、それでも完全には独りにならなかった。
今夜は、それだけで十分だと思うしかなかった。