朝の光は、思ったより普通だった。
カーテンの隙間から細く差し込んだ白が、床の上を静かに伸びている。昨日の夜、あれだけ重いものを抱えたまま目を閉じたのに、朝だけは容赦なく来るらしい。薄い布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。
眠れたのかどうか、自分でもよく分からない。意識が落ちた覚えはある。けれど、その裏にずっと張りついていたのは、砕けたスマホの音だった。小さいくせに、妙に耳へ残る。あの黒い破片。白くほどけていく指先。最後まで崩れきらなかった、赤い唇の線。
息を吐く。喉の奥がまだ少し重い。
枕元に置いたスマホへ手を伸ばしかけて、指先が止まった。
たったそれだけの動きなのに、自分でもはっきり分かるくらい、ためらいがあった。触れれば、また何かが始まる気がした。画面をつけるだけで、昨日の続きを見せられるような、嫌な予感だ。
「主」
低い声が、すぐ近くで落ちた。
そちらを見る。壌竜が、壁際にもたれるように座っていた。いつから起きていたのか分からない。白い翼は小さく畳まれたまま、褐色の横顔だけが朝の光を少し受けている。
「……見てたのか」
「止まったからな」
短い。だが、それで十分だった。誤魔化す気も失せる。
「朝から嫌なとこ見られたな」
「嫌なら隠せ」
「隠せるならそうしてる」
そう返すと、壌竜はそれ以上は言わなかった。軽い慰めも、分かったような顔もしてこない。その静けさが、今は少し助かる。
布団から出る。床の冷たさが足裏へじかに伝わった。いつもの部屋だ。小さい流し台、壁際の棚、昨夜のまま少しずれた椅子。なのに、自分だけがまだ昨日の場所に取り残されているみたいだった。
ベッドの端へ腰を下ろしたところで、奥からごそごそと音がした。デルタだ。黒い耳が先に覗き、次に眠たげな顔が出てくる。目が合うなり、ぴたりと動きを止めた。
「……まだ変です」
「朝一番がそれか」
「朝だからです」
デルタは真顔で言う。
「夜より、匂いがはっきりするです」
言いながら近づいてきて、少しだけ顔を寄せる。鼻先が肩口の辺りで止まる。嫌がるでもなく、慰めるでもなく、ただ確かめている仕草だった。
「嫌な終わり方の匂いです」
「便利なこと言うな」
「便利じゃないです」
デルタは眉を寄せる。
「本当です」
そこへ、今度はムジナが欠伸混じりに姿を見せた。髪をかき上げながら、眠そうなまま椅子へ座る。
「そりゃ一晩じゃ消えないでしょ」
だるそうな声だ。
「消えたら逆に怖いし」
バーゲストは最後だった。きちんと起きて、きちんと身なりを整えている顔で台所へ向かう。何も言わず、やかんへ水を入れた。その手つきの丁寧さが、妙に沁みる。
「……温かいものを用意します」
「悪い」
「気にしないでください」
それだけで終わる。余計なことを言わない。けれど、放ってもおかない。その距離の取り方が、バーゲストらしかった。
やかんの小さな音が流れ始める。朝の部屋は静かだ。静かなまま、誰も俺のそばから完全には離れない。
壌竜が、そこで再び口を開く。
「主」
「何だ」
「今日、どうする」
問われて、返事がすぐには出なかった。
何を、どうする。昨日の続きを考えるのか。考えないふりをするのか。次の反応を待つのか。どれも正しい気がしないし、どれも間違っているとも言い切れない。
「……分からない、が本音だ」
ようやくそう言う。
「答えは出たか」
「出てない」
即答だった。そこに迷いはない。
「そうか」
壌竜は一度だけ頷く。
「なら、出るまで抱えて進め」
「簡単に言うな」
「簡単ではない」
その声は低いまま変わらない。
「だが、捨てるな。止まるな」
返そうとして、言葉が出なかった。
たぶん、あいつは正しい。正しいが、優しくはない。いや、優しくないからこそ、今の俺には必要なのかもしれない。答えを出せとも、忘れろとも言わず、抱えたまま進めと言う。その不器用な重さが、壌竜の言葉だった。
やかんが鳴る。バーゲストが火を止める音。湯気の気配が、台所からこちらへ流れてくる。
「……昨日のやり方は、最後の手段にする」
自分の口から、ぽつりと落ちた。
誰へ向けたわけでもない。けれど、部屋の中の全員がそれを聞いた。
ムジナが頬杖をついたまま、少しだけ顔を上げる。
「じゃあ、次はまた読むんだ」
「読めるならな」
スマホを見ないまま答える。
「壊す前に、できるだけ考える」
「妥当です」
バーゲストが湯呑みを並べながら言う。
「それが、主様の線引きになるのでしょう」
「線引き、か」
「はい」
静かな声だ。
「それを持たずに戦えば、いずれ何も感じなくなります」
デルタはベッドの横へちょこんと座ったまま、こちらを見上げる。
「仮ボスが決めるです」
「雑だな」
「雑じゃないです」
耳がぴくりと動く。
「決めないと進めないです」
ムジナがそこで小さく笑った。
「デルタ、たまにすごく真っすぐだよね」
「たまにじゃないです」
「はいはい」
やかんから注がれた湯気が上がる。湯呑みが一つずつ配られていく。バーゲストの動きにつられるみたいに、部屋の空気が少しだけ生活の方へ戻る。
俺もようやく、枕元のスマホへ手を伸ばした。
やはり、一瞬だけ止まる。昨日よりは短い。だが、確かに止まった。その間を、壌竜が見ているのが分かった。何も言わない。ただ、見ている。
指先で画面に触れる。
点いた。
黒い面が朝の光を返し、次の瞬間、小さく不自然に明滅する。
ぴ、とも鳴らない。ただ、白い線が一瞬だけ走った。
「……来た?」
ムジナがすぐに言う。
「まだ弱い」
バーゲストが画面を覗き込む前に答えた。
「ですが、反応はあります」
「嫌な感じです」
デルタの耳が立つ。
「止まる気はないらしいな」
壌竜が、横から低く言った。
その言葉へ、自然と息が漏れた。
「……ああ」
画面を見つめたまま返す。
「だろうな」
答えは出ない。逃れられるかも、まだ分からない。昨日の重さは、朝になっても残っている。スマホに触れるだけで少しためらうくらいには、ちゃんと残っている。
それでも、疑問を抱えたまま朝は来た。部屋の中には、デルタがいて、バーゲストがいて、ムジナがいて、壌竜がいる。重さは消えないが、独りでもない。
だったら、今はそれでいい。
壊れないために考える。考えたまま進む。今はまだ、それしか持てないのだから。