外へ出た瞬間、夜気の薄さがやけに頼りなく感じた。
人通りは少ない。住宅街を抜けた先、深夜の商店通りは半分ほどがシャッターを下ろし、街灯の白さだけが路面を鈍く照らしている。昼なら生活の匂いが濃い場所なのに、今はどこか舞台の書き割りみたいだった。音が少ないぶん、余計なものまで浮く。
デルタの尾が低く揺れる。
「いるです。近いです」
俺の隣を歩いていたはずの黒い影が、その一言のあとで前へ出た。音もなく、息を詰める間もない。獣が獲物を見つけた時の動きだった。慌てて視線を巡らせた、その瞬間だ。
通りの奥、閉まった花屋の軒先を掠めるように、重い金属音がひとつ落ちた。
背筋が粟立つ。
立っていたのは、大きい、という表現だけでは足りない女だった。夜気を押し返すような体格。街灯を受ける銀の刃。その一方で、ただの騎士然とした威圧では終わらない。腰から垂れた鎖が、蛇のように石畳を擦っている。鎧にも、剣にも、むき出しの力があるのに、それより先に目へ入るのは、獣がこちらを測る時の、あの静かな殺気だった。
「……新入り、ですか」
低い声だった。整っているのに柔らかくない。視線はデルタを捉えたまま、こちらへはまだ半分しか向いていない。
その横に、もう一人。
バーゲストの半歩後ろ。痩せた男だった。年の頃は俺とそう変わらないように見える。けれど、立ち方が嫌だった。隠れているわけじゃない。守られているのを当然とした位置にいる。細い指でスマホを持ち、こちらを見て、口元だけで笑っていた。
「へえ。ほんとにいたんだな、他の所有者」
軽い。場違いなほど軽い声だった。
デルタが一歩前へ出る。俺の前を完全に塞ぐ形だ。
「仮ボス、下がるです」
「でも――」
「下がるです」
短く言われ、足を止めた。従ったというより、そうするしかないと本能が判断した。バーゲストの圧が重い。真正面からぶつかれば、まずデルタが受ける。なら俺は、今は目で追うべきだ。
スマホが震えた。
黒い画面の中央で、三つの問題が淡く光っている。
――対象契約体が冠する“妖精騎士”の名を特定せよ
――対象契約体の主戦闘様式を特定せよ
――対象契約体を現在の所有者へ縛っているものを特定せよ
あちらにも、こっちの情報が出ているはずだ。だが、内容は互いに見えない。問題を抱えたまま、読み合って、削って、答えへ近づくしかない。
そう理解した時には、もう遅かった。
デルタが跳んでいた。
黒い軌跡が一筋、街灯の下を裂く。低く沈み込んだ姿勢から、一気に喉元へ届く角度。人間相手なら反応もできない。バーゲストはその一撃を、剣の腹で横へ逸らした。金属と爪がぶつかる音が、夜の通りへ甲高く弾ける。
重い。
見ているだけで分かる。デルタは本能剥き出しの速度で噛みつき、バーゲストは真正面からそれを受け切った。受けただけじゃない。剣を滑らせ、流した先で鎖が唸る。
「ッ」
デルタが身をひねる。さっきまでいた場所を鎖が薙いだ。街灯の支柱へ巻きつき、次の瞬間、根元からひしゃげる。白い光が跳ね、火花を散らしながら傾いた。
とんでもない。
デルタが壁を蹴って上を取る。黒い耳が伏せられ、爪が一直線に振り下ろされた。バーゲストは一歩も退かない。剣を立て、受けたまま前へ出る。鎧の重さを感じさせない踏み込みだ。押し返されかけたデルタが空中で体を捻り、今度は横から爪を薙ぐ。バーゲストの鎖がそれを絡め取りにいく。爪、剣、鎖。三つの軌道が絡み合い、商店のガラスがまとめて砕け散った。
破片が雨みたいに降る。
道の端へ寄っていた自転車が吹き飛び、花屋の看板が真っ二つになった。周囲の被害が一気に広がる。人の気配が少ない時間帯なのが、せめてもの救いだった。
「は、はは……すげぇな、お前の契約体」
敵のマスターが笑う。声に震えはない。守られていると知っている人間の笑い方だ。
「バーゲスト、押し切れ。時間をかけるな」
命令の響きは軽い。だが、バーゲストの肩がほんのわずかに強張った。
見逃しかけるほど小さな硬さだった。けれど、あった。
次の瞬間、バーゲストの剣筋が変わる。重さはそのまま、鋭さだけが増した。大ぶりで叩き潰す形じゃない。デルタの踏み込みを読んだうえで、逃げ道ごと断つ斬り方だ。鎖が先に走り、剣があとから本命になる。正面突破型でありながら、雑に振っているわけじゃない。
俺の視線は自然と問題文の二つ目へ落ちた。
――対象契約体の主戦闘様式を特定せよ
主戦闘様式。
剣、だけじゃない。鎖も使う。だが、それも表面だ。バーゲストの強さは武器の種類にあるんじゃない。あの体格。踏み込み。正面から押し切るフィジカル。そこへ剣と鎖が噛み合っている。
「デルタ!」
叫ぶと同時に、黒い影がこちらを一瞥した。ほんの一瞬だけ目が合う。
「相手の主軸は剣と鎖だけじゃない! あの体ごと押し潰す近接戦だ!」
「知ってるです!」
返事と同時にデルタが笑う。鋭く、楽しそうに。次の踏み込みがさっきまでより低い。バーゲストの間合いへ正面から入るふりをして、最後の一歩で膝裏を狙う。バーゲストが剣を落としかける。そこへ鎖が反射的に伸びた。
やっぱりだ。
剣と鎖は手段であって、根の様式はもっと太い。強靭な肉体を土台にした近接制圧。武器込みで一つの生き物だ。
スマホが手の中で強く震えた。
画面が一瞬だけ明るくなり、二つ目の問題の横に赤い線が走る。次の瞬間、それは緑へ変わった。
――CLEAR
喉の奥が熱くなる。
「当たった……!」
小さく漏れた声に、敵のマスターが初めてこちらを見る。笑みが少しだけ消える。あっちも気づいたはずだ。こちらが一問、抜いた。
バーゲストの目も動いた。けれど、その視線は俺ではなく、スマホの向こうを見ているようだった。問題の内容は互いに見えない。なら今、あちらは“こちらが何かを解いた”という反応だけを感じていることになる。
その刹那、戦場の空気が変わった。
デルタが一気に詰める。さっきまでの探り合いじゃない。バーゲストの剣圧を正面から受け、弾かれ、壁を蹴って戻り、爪で顔面を狙う。バーゲストも退かない。鎖でデルタの腕を取ろうとし、外されるとそのまま街路樹へ巻きつけて引き倒す。アスファルトが抉れ、店先の植木鉢が砕ける。
互角だ。
はっきり分かる。デルタの速度と本能、バーゲストの質量と技量。どちらかが圧倒しているわけじゃない。むしろ、ここで長引くほど周囲が壊れる。街灯はもう一本倒れていたし、歩道のガードレールはひしゃげ、コンビニのガラスは半分消えている。このまま続けば、いずれ人も巻き込む。
「仮ボス!」
デルタが爪を弾かれながら叫ぶ。俺を見る余裕がまだある。バーゲストも無言のまま追うが、そのたびにほんのわずか、視線が後ろのマスターを確認する。
その癖が、胸に引っかかった。
守るために見ている、というより、命令を待つ側の動きに近い。
最初の問題。妖精騎士の名。あれは見た目や呼称から掴める。時間の問題だ。けれど、最後の問題は違う。
――対象契約体を現在の所有者へ縛っているものを特定せよ
好きで従っているなら、こんな問い方はしない。バーゲストは命令を受けた瞬間だけ肩が硬くなった。顔には出さない。声も崩れない。なのに、体だけが一瞬遅れて嫌がった。
不満がある。けれど断れない。
そこまでは、前提として頭にある。だが、どうやってそれを戦場で確信へ変える?
敵のマスターが半歩下がる。スマホを持つ手が汗ばんでいるのが、この距離でも分かった。余裕があるように見せているだけで、俺たちと同じく問題に追われている。バーゲストが時間をかけるな、と命じられた時の硬さ。命令は通る。なら、あの主従は契約で縛られている。
でも、見抜くだけじゃ足りない。証拠がいる。戦闘の中で、はっきりした形が欲しい。
デルタが着地した。バーゲストの剣を爪で滑らせ、鎖の輪を一つ噛み切るように弾く。火花。金属音。獣の息。
「っ、硬いです!」
「デルタ、長引かせるな!」
叫んだ瞬間、自分で歯噛みした。分かっている。長引かせたくないのはこっちも同じだ。だが、そのための手がまだ足りない。
バーゲストが一歩踏み込む。地面が鳴る。剣が真っすぐ落ち、デルタが横へ逃げる。その一撃でアスファルトが割れた。次に鎖が伸びる。デルタの足首を狙った軌道が、ぎりぎりで躱され、代わりに自販機へ巻きついた。缶が弾け飛び、炭酸の匂いが夜気へ広がる。
駄目だ。このまま互角で削り合うのが一番まずい。
なら――。
俺は敵のマスターを見た。あいつはバーゲストの後ろで、安全圏から命令する位置を崩していない。崩せないのかもしれない。バーゲストが前を抑える限り、あいつは絶対に狙われにくい。けれど、逆に言えば、バーゲストは常にあいつの命令線上へいる。そこを乱せば、何か出る。
命令を無理に重ねさせる。バーゲストが嫌でも従わなければならない瞬間を、もう一度はっきり見せる。
そのためには、デルタをただ殴り合わせるんじゃなく、敵マスターの近くへ意図的に寄せる必要がある。守らせる。庇わせる。そこで、命令と本心のずれを引きずり出す。
「デルタ!」
今度は腹の底から叫んだ。
黒い耳がこちらを向く。
「次、敵のマスター側へ切り込め! バーゲスト本人じゃなく、後ろを揺さぶれ!」
「……守らせるです?」
理解が早い。助かる。
「そうだ。あいつに無理に命令を吐かせる。長引けば街が持たない。だから次で流れを変える!」
デルタの口元が、獣じみた形で吊り上がる。
「面白いです」
その瞬間、バーゲストがこちらを見た。鋭い。気づいたのかもしれない。だが、遅い。
デルタが地面を蹴る。
今度の跳躍は、バーゲストの胸元じゃない。一直線に、その後ろにいる敵マスターへ向かっていた。
夜の街に、鎖の唸りがまたひとつ響く。
俺はスマホを握り直しながら、次に来るはずの綻びを待った。