洗面台の前で、俺は風呂の栓をひねった。湯が勢いよく流れ込み、脱衣所に白い湯気が立ち込め始める。換気扇の音が低く唸り、狹い空間を満たしていく。
背後で衣擦れの音がした。
振り返らなくても分かる。廊下との境目に立つバーゲストの気配は、重く、靜かで、それでいて空気そのものを押しのけるような存在感があった。
「お邪魔でしょうか」
声は硬く、しかし丁寧だった。脱衣所の明かりが彼女の金髪を照らし、鎧ではなく簡素な部屋着姿のバーゲストが、わずかに首を傾げている。
「別に。風呂の準備だ」
俺は洗面台の鏡越しに彼女を見た。長身のバーゲストは脱衣所の天井に頭がつきそうで、肩幅もドア枠より広い。この家のどこに立っても、彼女は異物に見えた。
「何か決まりがあるなら従います」
「決まり?」
「入浴の順番です。私は後で構いません。あるいは、あなたが先に使われても」
バーゲストは一歩も動かず、背筋を伸ばしたまま言った。まるで上官に報告する兵士のように、視線はまっすぐ俺に向けられている。
「そんなに固くならなくていい」
俺は栓を止めて、浴室のドアを閉めた。湯気が鏡を曇らせ、バーゲストの姿をぼやけさせる。
「順番なんて決めてない。先に入りたいなら、そう言えばいい」
「……そういうわけには」
彼女は少しだけ言いよどみ、それから背筋をさらに伸ばした。胸の大きな彼女が姿勢を正すたびに、布地が窮屈そうに張るのが視界の端に入る。
「狹い家です。だからこそ、崩さないようにしています」
「礼儀を?」
「私自身を、です」
俺はタオルを手に取って、洗面台の縁に置いた。バーゲストはまだ動かない。彼女にとって「先に入る」「後にする」という単純な選択が、何か大きな意味を持っているように見えた。
「……騎士ってのは、風呂の順番まで作法があるのか」
「茶化しているのですか」
「確認してるだけだ」
俺は彼女の方を向いた。バーゲストの目は真剣で、冗談を受け流す余裕はないらしい。彼女の太くて力強い脚は脱衣所の床に根を下ろしたように動かず、その姿は「生活」ではなく「待機」と呼ぶほうがしっくりきた。
「私にとって礼節は、相手に気を遣うためだけのものではありません。自分が自分であるための芯です」
「この家の中ででも?」
「この家だからです」
バーゲストは短く答えた。それから少しだけ視線を落とし、自分の手のひらを見る。そこには見えない剣があった。彼女はいつも、目に見えない剣を握っている。
「広い戦場ならば、多少の乱れは気になりません。ですが、こうして私的で距離の近い場所では、むしろ崩したくない。私はバーゲストです。妖精騎士として、あなたの契約体として、この家の中でもそうありたい」
俺は鏡の曇りを手で拭った。バーゲストの顔がもう一度はっきりと映る。彼女の目は揺るがず、しかしどこか必死だった。
「じゃあ、この家の中のルールを一緒に決めるか」
「……ルール、ですか」
「そうだ。風呂の順番ひとつでも、お前が納得できる決め方があるなら、それでいい。俺はお前に従えとは言わない。だけど、お前が勝手に俺に合わせる必要もない」
バーゲストはしばらく黙っていた。それから、かすかに肩の力が抜ける。鎧を外した彼女の体は、それでもなお頑丈で、厚みがあって、脱衣所の蛍光灯の下で神話の彫像のように見えた。
「あなたは、変わっていますね」
「よく言われる」
「私がこれまで仕えた主は、もっとこう……命令することをためらわない方ばかりでした。風呂の順番に騎士の尊厳を持ち出す私を、面倒だと思わないのですか」
「面倒だとは思う」
俺が即答すると、バーゲストはほんの少しだけ口元を緩めた。
「ですが、それをルールにしようと言う。それが変わっていると申し上げたのです」
「俺は、お前に呑まれないためにルールを決める。お前も、自分を見失わないためにルールがいる。なら、方向は違うが目的は同じだろ」
バーゲストは靜かにうなずいた。それから一歩、脱衣所の中に足を踏み入れる。