窓を開けた瞬間、夜気が細く差し込んできた。
昼の熱が壁や床にまだ残っていて、部屋の中だけ息苦しい。寝るには微妙に暑く、かといって冷房を強くする気にもなれず、俺はそのままベランダへ出た。手すりの向こうに、遅い時間の街の灯りが散っている。近くの道路を走る車の音も、ここまで来ると薄い。
「……起きてたんだ」
先にいたのはムジナだった。
手すりへ半分寄りかかるようにして、外を見ている。振り向きもしないまま、気だるい声だけが返ってきた。
「そっちこそ。寝ないの?」
「ちょっと暑くてな」
「わかる。あの部屋、思ったより熱こもるし」
隣へ並ぶ。近すぎず、離れすぎず。肘がぶつからないくらいの距離だ。開けた窓の向こう、部屋の灯りが細く床へ伸びている。その縁に、ムジナの影が長く落ちていた。
「みんなは?」
「デルタは寝た。バーゲストはたぶん本読んでる」
「壌竜は」
「起きてるんじゃないか。あいつ、寝てても起きてても雰囲気変わらないし」
それにムジナが小さく笑う。喉の奥で転がすような、短い笑いだった。
「デルタってさ、ほんと分かりやすいよね」
「何がだ」
「主の近く、すぐ取るし。冷蔵庫の前でも、ごはんの時でも」
「……そうか?」
「そうだよ。あれ、縄張り主張してるやつじゃん」
言われて思い返す。たしかに、席でも距離でも、デルタはだいたい俺の近くにいる。無意識にやっているのかと思っていたが、あれはあれでちゃんと考えているのかもしれない。
「バーゲストは逆。近すぎない位置から全部見てる」
ムジナが続ける。
「壌竜は、いるだけで重い。なんか部屋の角が一個増えた感じ」
「ひどい言い方だな」
「でも分かるでしょ」
「……分かる」
もう一度、小さく笑う気配がした。
「お前、意外とよく見てるんだな」
「見てるよ」
あっさり返る。
「見てないと、生き残れないし」
「戦いの時だけじゃないだろ、それ」
「まあね」
そこで会話が一度切れた。
風が吹く。ベランダの手すりに置いた指先が、少し冷えた。ムジナは外を見たまま、次の言葉をしばらく選んでいるようだった。
「ここ」
ぽつりと落ちる。
「思ったより嫌いじゃない」
夢主の家。狭い一人暮らしの部屋。生活感が抜けきらない、小さな場所だ。
「だろうな」
「何その返し」
「そんな顔してる」
「どんな顔」
「少なくとも、今すぐ出ていきたい顔じゃない」
ムジナが鼻で笑う。
「うん。嫌いじゃないよ」
そこまでは軽かった。
けれど、その次に来た間だけは、妙に長かった。
「でも、あんまり居心地いいと困る」
そっちを見る。ムジナはまだこっちを見ない。街の灯りを映した横顔が、少しだけ硬い。
「困る?」
「……受け入れられるのって、ちょっと怖いし」
声は小さかった。風に紛れそうなくらいに。なのに、変に耳へ残る。
問い返そうと思えばできた。どうして、と。何が、と。でもそれを言った瞬間、たぶん何かが雑になる気がした。ムジナは今、全部を説明しようとしてるわけじゃない。ただ、少しだけ零しただけだ。
だから、俺は言い方を探した。
「じゃあ」
少し考えてから口を開く。
「怖くない範囲でいればいい」
ムジナが、そこで初めてこっちを見た。拍子抜けしたような、呆れたような顔だった。
「……なにそれ」
「無理して馴染めって言うつもりはない」
「うん」
「でも、出ていけとも言わない」
言ってから、少しだけ肩をすくめる。
「そういうことしか言えない」
ムジナは何も言わず、数秒だけ黙った。それから、ふっと息を漏らす。
「それ、ずるいな」
「何がだ」
「そういう返し方するところ」
責めているようで、声は少しだけやわらかかった。
もう一度、風が吹く。部屋の中から、かすかに物音がした。誰かが寝返りを打ったのかもしれない。そこでようやく、ムジナが手すりから身体を起こす。
「戻る?」
「そうだな」
先に歩き出したのは俺だった。いつもなら、ムジナは半歩後ろか、少し離れた位置につく。そういう距離の取り方をするやつだ。
でも、今夜は違った。
部屋へ戻る時、あいつは後ろじゃなく、横へ並んだ。
肩は触れない。近すぎもしない。ただ、同じ速さで、同じ明るさの方へ戻っていく。それだけのことなのに、思ったよりちゃんと違っていた。
何かが解決したわけじゃない。ムジナが全部を話したわけでもない。
それでも、今はそれで十分だった。