部屋の灯りを落としても、すぐには眠れなかった。
薄いカーテンの向こうで、夜の色がじわりと滲んでいる。窓は少しだけ開けてあって、外の風が細く入り込み、シーツの端をわずかに揺らした。部屋の向こうは静かだ。デルタも、バーゲストも、ムジナも、それぞれの場所で息を潜めている。耳を澄ませば気配はある。けれど、このベッドの上だけは、妙に切り離されていた。
寝返りを打ちかけた時、戸口の気配が揺れた。
「……壌竜?」
暗がりの中で、低い声が返る。
「起きていたか、主」
壌竜はそれだけ言って、部屋の中へ入ってきた。足音は重いはずなのに、不思議と静かだった。断りとも報告ともつかない間を置いて、ベッドの端へ腰を下ろす。距離は近い。だが、触れはしない。その沈みだけが、こちらの方へじわりと伝わってきた。
「眠れないのか」
「そういう言い方もできる」
答えはいつも通り短い。けれど今夜は、その短さの奥に重さがあった。
少し待つ。急かさない方がいい気がした。壌竜は前を向いたまま、しばらく何も言わなかった。窓の外で、遅い車の音がひとつ流れていく。
「共に戦っていた」
ぽつりと落ちた声が、暗い部屋へ沈む。
「好んで従っていたわけではない。だが、価値は認めていた」
前のマスターのことだと分かった。俺は何も挟まない。
「終わったものは切る。それはできる」
壌竜の指先がシーツへ触れる。握り込むほどではない。ただ、置いただけの指にわずかに力が入る。
「だが、切れることと、重くないことは違う」
その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。
「……そうだろうな」
「主は、軽く扱わなかった」
「当たり前だ」
「当たり前にできる者ばかりではない」
そこで、初めて壌竜がこちらを見た。暗がりの中でも、目だけは妙にはっきりしている。
「私は今、前の戦いを終えた者でもあり、この家へ置かれた者でもある」
低い声は揺れない。
「どちらにも、まだ完全には馴染まん」
強いまま言うからこそ、その言葉は重かった。弱音ではない。言い訳でもない。ただ、今の自分を切り分けた結果が、それなのだと分かる。
俺は少しだけ身体を寄せた。肩が触れない程度に。距離を詰めるというより、離れすぎないための動きだった。
「無理に馴染まなくていい」
「……」
「俺だって、全部分かったわけじゃない」
天井を見たまま言う。
「ここがどこまで守れるのかも、お前たちとどこまで行くのかも、正直まだ曖昧だ」
壌竜はすぐには返さない。数秒の沈黙のあとで、わずかに息を吐いた。
「主は甘い」
「知ってる」
「だが、逃げぬ」
「それも知ってる」
「厄介だな」
口調は変わらないのに、その一言だけ少し温度が違った。
「よく言われる」
「だろうな」
短い応酬のあと、部屋にまた静けさが戻る。さっきまでの沈黙とは違っていた。気まずさではなく、同じものを見ながら黙っていられる静けさだ。
「ここが壊れたら嫌だ」
自分でも思っていなかった言葉が、ふいに出た。
壌竜の視線がわずかに動く。
「家が、か」
「ああ」
喉の奥が少し詰まる。
「場所っていうだけじゃなくて……たぶん、今はもう、それだけじゃない」
壌竜は否定しなかった。笑いもしない。ただ、ゆっくりと頷く。
「それを守るために戦うなら、主の戦い方は変わる」
「すぐには変われない」
「だが、変わる気はある」
問いではなく、確認だった。
俺は少し考えてから答える。
「たぶん、もう少し変わる」
「そうか」
壌竜は短く言う。
「なら、私はそれを見ている」
それ以上は何も足さない。けれど、その言葉だけで十分だった。
カーテンの隙間が、ほんの少しだけ薄くなる。夜明け前の色だ。壌竜はベッドの端に座ったまま、目を閉じはしない。俺も同じだった。眠れないままでも、今はそれでいい気がした。
同じ夜を、同じ部屋で、無理に答えを出さずにやり過ごす。
それだけのことが、思っていたよりずっと大きかった。