部屋を出る前、靴紐を結ぶ手が一度だけ止まった。
止まったからといって、何かが変わるわけでもない。スマホに浮かんだ案内は消えず、参加登録済みの表示も淡く残ったままで、出発時刻だけが無遠慮に近づいてくる。壁際に置いたままのバッグへ目をやっても、逃げ道の形には見えなかった。必要なのは荷物じゃなく覚悟だと、そんな言い方をしたところで気分が軽くなるわけではないから、俺は何も言わずに立ち上がった。
デルタはもう玄関の近くまで来ていて、耳をぴんと立てたまま外の気配を嗅いでいた。強い相手の匂いでもするのか、落ち着きのない尾が小さく揺れている。バーゲストはいつも通り背筋を伸ばし、こちらが動き出すのを待つだけの姿勢で立っていた。ムジナは壁へ肩を預けたまま、面倒そうな顔を崩さないくせに、目だけはとっくに外へ向いている。壌竜は最後尾にいるのに、部屋の空気の重みはあいつが一番持っていく。
「……行くか」
誰へ向けたともつかない言葉だったが、それで十分だったらしい。デルタが先に扉へ寄り、バーゲストが無言で頷き、ムジナは「ほんとに行くんだ」と小さくこぼしてから体を起こした。壌竜だけは返事をしなかったが、俺の背中へ向けられた視線の重さで、遅れずついてくるのが分かった。
夜の街は、思ったより普通だった。
コンビニの灯りはまだ明るく、遠くを走る車の音も途切れない。歩道の隅に転がる空き缶も、信号待ちでぼんやりスマホを見ている通行人も、こっちが今から何処へ行くのかなんて知るはずがない。その普通さが、逆に嫌だった。こっちだけが別の段取りへ組み込まれ、別の舞台へ押し出されていくのに、街の側は何も知らずに同じ顔をしている。
「匂い、増えてきたです」
デルタが低く言う。喜んでいるのか警戒しているのか、今の声だけでは分かりにくかったが、少なくとも足取りは軽い。
「分かるのか」
「分かるです。嫌なやつと、強いやつと、面倒なやつの匂いが混ざってるです」
「最後のやつ、匂いで分かるんだ」
ムジナが肩越しに笑う。
「便利だね」
「面倒なやつは面倒な匂いがするです」
そんなやり取りを挟んでいるうちに、人通りが目に見えて減っていった。MEDESの誘導表示は、地図アプリの案内みたいな顔でこちらを導くくせに、選ばせているようで選ばせない。広い通りから一本外れ、さらに二本外れ、人気の薄い道へ入る頃には、街の灯りも背中の方へ遠ざかっていた。
「導線が整いすぎていますね」
バーゲストが周囲を見回しながら言う。
「偶然ではなく、こちらを通すために空いた道のようです」
「歓迎じゃなく、誘導って感じ」
ムジナが続ける。
「逃げられないように、気持ちよく歩かせてるだけでしょ」
「だろうな」
吐き出した声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「遊園地に呼び出しておいて、案内だけ親切とか、趣味が悪すぎる」
その言葉のあと、壌竜が初めて口を開いた。
「主、見るべきは敵だけではない」
「分かってる」
間を置かずに返す。
「今度はこっちの立ち位置も見る。そうしないと足りない」
「それでいい」
短い。その一言だけで会話が終わるのが、今は妙にありがたかった。励まされたいわけじゃない。納得もしていない。ただ、足を止める理由がもう残っていないことだけは、嫌でも分かっている。
やがて、錆びたゲートが見えてきた。
遊園地だった。
いや、正確には遊園地の残骸だったと言った方が近い。入口のアーチに残った色褪せた文字は半分ほど剥がれ、閉園のお知らせらしい看板は風雨にさらされて端からめくれている。中では観覧車が止まり、客を乗せるはずだったゴンドラが夜風に揺れもせずぶら下がっていた。メリーゴーラウンドの天蓋は暗く、屋台の電飾は死んだ魚の目みたいに沈んでいる。楽しい場所だったはずのものが、楽しかった気配だけを残して中身を抜かれたような景色だった。
「……最悪だな」
口から漏れた言葉は、それしかなかった。
ムジナが珍しく顔をしかめる。
「笑えるくらい悪趣味」
「走る場所は多いです」
デルタは別のところを見ていた。
「高いところも、隠れるところもあるです」
「そこを評価するのか」
「戦うなら大事です」
バーゲストはゲートの向こうを見つめたまま、静かに言う。
「“楽しい場所”の跡をそのまま試合場にするのは、見せ方として悪辣ですね」
「見せ方、か」
「はい。壊れたものを見せつけるための舞台にもなります」
その言い方が胸に刺さった。たぶん、その通りだった。これは単に広い場所を選んだのではない。楽しさや高揚や無邪気さの記憶がある場所を、わざわざ殺し合いの枠に嵌め直している。見世物として整えるなら、その方が趣味が悪くて映えるとでも思ったのだろう。
スマホがまた淡く震えた。
――ENTRY GATE OPEN
――PROCEED TO ASSEMBLY POINT
表示された文面は、催し物の開始案内みたいに整っている。だからこそ腹が立った。
「こんなもの、戦いって呼びたくもない」
誰へ向けるでもなく言うと、バーゲストが少しだけこちらを見た。
「それでも、始まるのでしょう」
「嫌なまま行けばいいよ」
ムジナが肩をすくめる。
「好きになる必要はないし」
「来るなら噛むです」
デルタは変わらない。
「主が盤面を選べ」
壌竜の声が、最後に重く落ちた。
錆びたゲートの間を風が抜ける。奥の方から、かすかな気配がした。人か、契約体か、どちらともつかない視線のようなものが、暗い園内のどこかからこちらをうかがっている。観覧車の影、鏡の迷路の外壁、ステージ跡、色の抜けた屋台列。そのどこに誰がいてもおかしくない。
俺は一度だけ深く息を吸い、止めたくなる足をそのまま前へ出した。
「……ああ。行く」
納得はしていない。それでも進むしかない。その嫌な現実だけを抱えたまま、俺たちは廃遊園地の入口を越えた。