廃遊園地の中央に残されたステージへ上がると、夜気の中で錆びたスピーカーが一度だけ軋み、耳障りなノイズのあとにMEDESの無機質な音声が流れ始めた。観覧車は止まったまま闇へ輪郭を溶かし、回転木馬の白い馬たちは首を垂れたまま、誰も乗せない背中へ月明かりだけを受けている。かつて子どもの笑い声が満ちていたはずの場所で、一回戦のルールが読み上げられる光景は、それだけで十分すぎるほど気分が悪かった。
――第一試合、探索ゲーム。舞台は園内第三区画、お化け屋敷。勝利条件は、区画最深部に設置された本物の終了札を確保し、入口側の返還箱へ投入すること。偽札三枚を混在。対戦者への直接攻撃は許可。ただし壁面、床面、主要導線、演出装置の破壊は原則禁止。重大違反は即時失格。
読み上げが終わる前から、隣でデルタの尾が不機嫌に揺れていた。耳は立っている。目も冴えている。けれど、漂う気配の色だけがはっきりと不満だった。
「えぇ、直接戦わないなんてデルタは不満なんです!」
噛みつくように言って、舞台の向こうに立つ相手へ視線を飛ばす。ルプスレギナ・ベータは暗いメイド服の裾を軽く持ち上げ、まるで夜会へ招かれたみたいな顔で笑っていた。褐色の肌も、柔らかな声も、この場の悪趣味さに妙に馴染んでいる。そのくせ、笑みの奥だけが冷たい。
「うふふー、そんなこと言わないでくださいよぉ。遊園地なんですから、もう少し楽しくいきましょー?」
「うるさいです」
「怖いですねぇ。まだ始まってもいないのに」
デルタが前へ出かけたので、肩へ手を置いて止めた。力を入れれば振り払えたはずなのに、ぎりぎりのところで踏みとどまったのは、こいつなりにこっちの声を待っていたからだろう。
「倒すだけが勝ちじゃない」
「でも、あいつを倒せば早いです」
「それを向こうも分かってる。だから、こういうルールにした」
お化け屋敷の口へ目を向ける。口を開けた巨大な化け物の看板は色褪せて、赤い塗料が黒ずんでいた。
「今回は突っ切る戦いじゃない。見つけて、嗅いで、追い詰めて、獲る戦いだ」
デルタの耳がぴくりと動く。言葉を飲み込む早さが変わった。
「……んっ、つまりはこれって狩りですか!」
「そうだ」
「デルタ、狩りは得意です!」
不満の色が、今度は別の熱へ変わる。唇の端が持ち上がった。目の奥に灯るものも、さっきまでの苛立ちとは違う。真正面から殴れないなら不満だったが、追っていい、嗅いでいい、仕留めていいと理解した瞬間に、こいつの中では全部が一本へ繋がったらしい。
向こう側でルプスレギナが笑う。
「わあ、分かりやすいですねぇ」
「……お前、嫌な匂いがするです」
「ひどーい。レディに向かって」
開始の合図が落ちる。赤いランプが点き、お化け屋敷の入口脇にある鉄柵がゆっくり上がった。デルタは飛び出しそうになったが、もう一度だけ呼ぶ。
「デルタ」
「何です!」
「見つけた瞬間に飛びつくな」
こっちを振り返った獣の目へ、そのまま言い切る。
「相手は、お前を怒らせて、ずらして、偽物へ食わせる。匂いだけじゃなく、間を見ろ」
「……分かってるです」
本当かどうかは怪しい返事だったが、聞く気はある。今はそれで十分だった。
デルタが闇の口へ滑り込み、少し遅れてルプスレギナも中へ入る。入口の頭上で赤いランプが点滅し、こちらのスマホ画面へ簡易マップが出た。全体図は粗い。通路の形と大まかな区画、反応点がぼんやり見える程度で、詳細は現地で掴めということらしい。
「嫌な作りですね」
バーゲストが俺の横へ並ぶ。
「見世物の形を整えた上で、判断まで急がせようとしている」
「分かってる」
「落ち着いて」
短く、しかしはっきり言う。
「デルタは暴れる戦士ではあっても、狩る獣でもあります。噛み合わせを誤らなければ、相性は悪くありません」
ムジナが少し離れた位置で画面を覗き込む。
「でも、あのルプスレギナってやつ、喋って揺さぶるタイプでしょ。デルタ、そういうの嫌いそう」
「だからこそ見ろって言った」
壌竜は腕を組んだまま、お化け屋敷の外観を見上げていた。
「主、追うのはデルタだ。だが、狩り場の癖を見るのはお前の役目だ」
その頃、デルタは暗い通路の最初の角を曲がっていた。
中は外よりも冷えている。湿気を吸った木材の匂い、古い塗料、埃、配線の焼けた残り香、そして人形に染みついた薬品めいた臭いが混ざっていた。通路の左右には安っぽい墓石の飾りが並び、黒い布の奥で風もないのに人影が揺れる。赤い電球が一定ではない間隔で明滅し、そのたびに床へ落ちる影の形が変わる。普通の人間なら、それだけで足が鈍るだろう。だがデルタにとって厄介なのは、怖さではなく匂いの多さだった。
「……邪魔です」
鼻先をわずかに持ち上げる。作り物の死臭、演出用の煙、古い機械油、その全部の中に細く混じる生きた匂いを拾おうとしている。足音は軽い。だが、軽いだけではない。床板の沈む場所を避け、吊り下がった装飾へ肩を触れさせず、直線で突っ込めないと理解した獣の動きだった。
「聞こえてますよぉ?」
遠くない位置で、ルプスレギナの声が弾む。
「そんなに怒ってると、札を見つける前に息が上がっちゃいますよぉ?」
「うるさいです」
「じゃあ、静かに近づいてみてくださーい」
声の位置は右前方。だが、デルタはそちらへ突っ込まなかった。代わりに立ち止まり、鼻先を少し下げる。壁際の布が揺れた。足元の埃は一部だけ浅い。さっき誰かが通った跡だ。ただ、声の流れと足跡の向きが合っていない。
「……そこじゃないです」
低く呟いて、左の細い通路へ身体を滑らせる。すぐ先に、藁人形の胸へ貼りつけられた札が見えた。終了札に似せた偽物だ。墨の匂いが薄い。紙も新しすぎる。何より、そこには人の手が触れた後の熱がなかった。
デルタは無視して通り過ぎる。
外の画面で、その動きに小さな変化が出た。反応点の一つへ近づきかけ、触れずに離れたのが分かる。
「偽物を弾いた」
ムジナが目を細める。
「鼻だけじゃないな」
「間も見てる」
そう言いながら画面を拡大する。通路の合流点。赤照明区画。鏡面エリア。ルプスレギナの反応はまだ細かく揺れていた。わざと位置を見せている。いや、位置を見せているように見せて、意識だけを引っ張っている。
「声で右へ寄せて、足跡で左へ引いてる」
「楽しそうですね」
バーゲストの声は冷えていた。
「相手の気を乱すこと自体が目的のひとつなのでしょう」
「だろうな」
お化け屋敷の中で、デルタは次の部屋へ入る。そこは鏡の迷路だった。曇った鏡、赤い照明、角度の悪い反射のせいで、獣耳の影がいくつも重なる。ここで困るのは視界ではなく、匂いの跳ね返りだ。空気が淀み、臭いが留まり、方向感覚を狂わせる。
「えー、そっち行くんですかぁ?」
今度は近い。近いが、それでも決め手にはならない。
「迷子になって泣いても助けてあげませんよぉ?」
デルタの喉が小さく鳴った。いらついている。だが、さっきの不満のままではない。狩りの前に獲物が鳴いている時の、低い音だ。
「……だったら」
鏡へ映る自分の目を一瞬だけ見て、次の曲がり角へ身を沈める。
「お前をコロス!」
言葉は鋭かったが、足は真っ直ぐには出なかった。正面の鏡の先に人影が揺れ、白い手袋の先が見えた瞬間、床の擦れた跡を拾って反対側へ切り返す。そこにいたのは吊り人形だけだ。すぐ背後で笑い声が弾けた。
「あははー、こわーい」
ルプスレギナの声は近い。
「でも、そういう顔の方が好きですよぉ?」
デルタが止まる。鼻先を上げる。甘い香料の下に隠した獣の臭い。血の気配は薄い。けれど、回復魔法を使う者特有の、乾いた清潔さが残っている。鏡に囲まれ、音も匂いも乱れる部屋で、その一本だけが壁際へ伸びていた。
「……見えてきたです」
外でそれを聞いた瞬間、画面のルートが一本へ絞れた。ルプスレギナは逃げているようで、毎回同じ広さの通路へ戻っている。狭すぎる場所は選ばない。広すぎる場所も選ばない。振り返って軽く補助魔法を挟める間合いを、無意識に残している。
「逃げ方が同じだ」
壌竜が言う。
「そうだな」
画面を睨む。
「広場へ抜ける前の、あの三叉路に戻ってる。鏡の迷路の奥で一度引いて、声で誘って、通れる幅のある道へ戻す癖がある」
デルタ本人の声が、少し荒く通信へ入る。
「もう見えてるです」
言葉のあと、赤照明区画の反応が一気に動いた。ルプスレギナもデルタの変化に気づいたのだろう。逃げの速度が一段上がる。けれど、デルタももう初手の苛立ちでは動いていない。偽物へ寄りかけては離れ、吊り人形の影を掠め、鏡に映る囮を無視し、床板の軋みが浅い方へ爪先から体重を乗せていく。
「そのまま追え」
短く指示を飛ばす。
「うるさいです。もう追ってるです」
返ってきた声に、さっきまでの苛立ちはもうなかった。狩りに入った獣の声だった。
画面上で、二つの反応が急速に近づく。ルプスレギナのそれも、もはや遊び半分ではない。逃げる位置が丁寧になり、囮を置く間隔も短くなっている。つまり、余裕が削れている。
バーゲストが小さく息を吐く。
「追い詰めていますね」
「まだだ」
そう返しながらも、胸の内で別の感触が立ち上がっていた。デルタは適応した。探索戦だから苛立って終わるわけではない。狩りと理解した瞬間に、こいつの強みはむしろ濃くなる。
「次で届く」
通信の向こうで、デルタが低く言う。
「……次で捕まえるです」
その言葉のあと、お化け屋敷の奥から、初めてルプスレギナの笑い声がほんの少しだけ短く切れた。