※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

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狼の戦い

 鏡張りの廊下を抜けた瞬間、空気の質が変わった。

 

 お化け屋敷の奥にある小広間は、通路よりも天井が高い。赤い照明が壁際を舐めるように這い、吊り下げられた蝋人形の首が、風もないのにこちらを向いているように見えた。床には古びた舞台板が継ぎ足され、その隙間へ黒い影が沈んでいる。外から見ていた時より広いのに、逃げ道は狭い。飾りの墓石、崩れかけた柵、演出用の棺が視界を刻み、一直線に駆け抜けるには邪魔が多すぎた。

 

 その中央で、ルプスレギナ・ベータが振り返る。

 

「やっと追いつきましたかぁ」

 

 軽い声だった。肩口へかかる髪を払う仕草まで柔らかく、笑っている口元だけを見れば、深夜の肝試しではしゃぐ女にしか見えない。だが、デルタの喉から漏れた低い唸りが、その仮面の下にあるものを正確に嗅ぎ取っていた。

 

「見つけたです」

 

 返した声は短く、獲物へ爪をかける前の獣そのものだった。さっきまでの探索で、偽物の札も、誘導の声も、足跡の罠も何度か踏まされかけた。だがその全部を経て、いま目の前にいるこれは本物だと、デルタの鼻も皮膚も断言している。

 

「うふふー、こわいですねぇ。そんな顔で見られると、こっちまで緊張しちゃいますよぉ?」

 

 言葉が終わるより先に、デルタの身体が沈んだ。

 

 踏み込みは低い。獣が草の中から獲物へ飛びかかる時の角度だった。赤い光が尾の先を掠め、次の瞬間には、爪がルプスレギナの喉元を裂く軌道へ入っている。通路での追跡より速い。真正面へ出た相手を、もう追う必要がないからだ。

 

 その一撃を、ルプスレギナは半歩だけ下がって躱した。

 

 躱したと言っても余裕のある退き方ではない。髪の先が切れ、メイド服の襟元が裂け、褐色の首筋へ細い赤が走る。デルタは構わず二撃目を重ね、肩口から脇腹へ爪を薙いだ。今度は浅く当たる。布が裂け、肉を掠めた感触が爪先へ返ってくる。

 

「わあ、本当に速いですねぇ」

 

 笑っている。だが、間合いはもう軽く取っていない。

 

 デルタがさらに前へ出る。壁を壊せない以上、進路は限られる。それでも身体の捌きだけで障害物の隙間を抜け、棺の角を蹴って高さを変え、真横から噛みつくように飛び込んだ。種族の近さというより、獣じみた反応そのものが噛み合っている。見つけた瞬間に殺し切れなければ、あとはどちらが近い殺気を押しつけるかになる。

 

 外でスマホを見ていた俺にも、その押し込みの強さははっきり伝わっていた。簡易マップの反応点は重なりかけ、警告表示が何度も明滅する。デルタの動線は迷いがない。さっきまでの探索戦ではなく、狭い檻の中で獲物を壁へ追い詰める動きだ。

 

「押してるな」

 思わず漏れた声に、バーゲストが小さく頷く。

「身体能力だけなら、やはりデルタが上です」

「だが、勝ち切らせる気はない」

 壌竜の声が低く落ちた。

 

 その通りだった。

 

 小広間の中で、デルタは三度目の踏み込みから膝蹴りを差し込んだ。ルプスレギナの腹へめり込む。鈍い音。相手の身体が浮く。そこへ追撃の爪を叩き込もうとした瞬間、ルプスレギナの口元がひどく綺麗に笑った。

 

「痛いのは嫌いじゃないんですよねぇ」

 

 言葉と同時に、白い光が指先で弾けた。

 

 補助魔法だった。強い破壊ではない。だが、デルタの前脚が一瞬だけ鈍る。足元の床へ淡い光の輪が走り、踏み込みの重さが僅かに逸れた。致命的ではない。けれど、仕留めるための一拍には十分だった。

 

 ルプスレギナがその隙間を抜ける。吹き飛ばされたはずの身体が、棺の縁へ手を掛けただけで立て直る。腹に入った打撃の跡は残っているのに、息は乱れきらない。浅い傷へとっくに回復が流れているのだと、離れた位置からでも分かった。

 

「やっぱり、真正面だとこうなりますかぁ」

 棺の向こうから覗き込むように顔を出す。

「でもぉ、力任せで来てくれる方が、こっちは楽なんですよねぇ」

 

 デルタの耳が寝た。

 

「逃げるなです」

「逃げてませんよぉ? ちゃんと遊んでます」

「遊びじゃないです」

「そうですかぁ?」

 ルプスレギナは赤い照明を受けたまま肩をすくめる。

「わたしからすると、あなたの方がずっと楽しそうですけど」

 

 その一言が、デルタの尾を強く打たせた。真正面からの圧では勝っている。爪も脚も反応も、届く距離ではデルタが上だ。けれど、ルプスレギナはその優位を勝ち筋へ変えさせない。傷を受ける位置を選び、逃げる角度を揃え、回復で浅い不利を流しながら、わざと余裕を見せることで怒りだけを積ませてくる。

 

「デルタ」

 通信へ声を入れる。

「怒るな。そいつはそこを噛みたい」

「分かってるです!」

 

 返事は鋭い。分かっている。だが、腹は立っている。その両方が入った声だった。

 

 ルプスレギナが片手を上げる。次の魔法は派手ではない。壁際の揺れる人形たちが、一斉に落ちてきた。演出用の吊り糸が切れただけに見える落下だが、通路の狭さでは十分な障害になる。破壊禁止だからデルタはそれごと突っ切れない。身体を捻って肩で避け、柵の外へ弾き、棺の縁へ足を掛けて上を抜ける。

 

 その回避の最中、ルプスレギナが懐へ入った。

 

「こっちですよぉ」

 

 拳が飛ぶ。メイドの細腕とは思えない重さだった。頬を掠める。デルタが顔を振り、返す爪で肩口を裂く。布の奥で血が跳ね、ルプスレギナの笑みが一瞬だけ細くなる。それでも下がり切らない。近接戦そのものも弱くはない。正面の純粋な押し合いでは劣るが、痛みを嫌がらず、浅い損傷なら織り込んだ上で踏み込める。そこが厄介だった。

 

「ほらほら、届きそうで届かないでしょう?」

「だったら、届くまでやるです!」

 

 デルタの爪が唸る。低い姿勢から踏み込み、今度は真正面ではなく、右へ誘ってから左へ噛みつく軌道へ変えた。狩りだと理解してからのデルタは、真っ直ぐしか走れない獣ではない。追う獲物の逃げ癖が見えれば、それに合わせて角度を変える。ルプスレギナの目が少しだけ細くなった。

 

「へえ」

 

 その短い反応が、初めて余裕の外へ触れた音だった。

 

 デルタの肩がルプスレギナの胸へぶつかる。壁際まで押し込む。そこへ喉笛を狙った爪が伸びる。受けたのは腕だ。血が飛ぶ。ルプスレギナの表情が歪むかと思ったが、そうはならなかった。代わりに口元だけで笑い、傷ついた腕をわざと見せつけるように垂らす。

 

「ほらぁ、もっと来てくださいよぉ」

 甘い声で囁く。

「そんな半端じゃ、殺せませんよねぇ?」

 

 デルタの喉が鳴る。飛び込めば取れる距離。取れるはずの形。だが、その“はず”がもう怪しいことを、こいつも感じ始めていた。さっきからルプスレギナは、痛みの見せ方が綺麗すぎる。浅い傷は回復で繋ぎ、深く見える傷は角度で誇張し、デルタに「もう一押しで獲れる」と思わせて踏み込ませる。

 

「……お前、わざとです」

 

 吐き出した声は低かった。

 

「気づいちゃいましたぁ?」

 ルプスレギナが笑う。

「でも、怒った顔の方がやっぱり可愛いですよぉ」

 

「乗るな、デルタ」

 通信へ低く入れる。

「そいつは怒らせて崩したい」

「分かってるです」

 返る声は先ほどより重い。

「分かってるから、噛み砕くだけです」

 

 言葉のあと、デルタの動きが変わった。

 

 速さは落ちない。だが、突進の熱が少し冷えた。爪で決めるより、足と肩で距離を潰し、逃げ角度を削る方へ寄せている。狭い小広間の中央へ押し戻し、棺と柵の間へ誘導し、広く回れる余地を奪う。ルプスレギナが一歩下がるたび、デルタは半歩ではなく三分の二だけ詰める。その差で、相手に「まだ逃げられる」と思わせながら、実際には戻りたい位置へ戻さない。

 

 ルプスレギナの笑みが、初めて本物の戦いの色を帯びた。

 

「やだ、賢いじゃないですかぁ」

「獲物を見るのは得意です」

「でも、獲物って決めるの早くないです?」

「もう決まってるです」

 

 次の衝突は真正面だった。

 

 デルタの肩がルプスレギナの胴を捉え、ルプスレギナは魔法の光で足場をずらしながら、それでも押し負ける。鏡板の前まで後退する。割れない。破壊禁止だからではない。デルタももう理解している。壊して道を作るより、この狭い箱の中で獲物の動きを詰めた方が早い。

 

 それでも、決め手はまだ遠い。

 

 ルプスレギナの指先で回復の光が走り、裂けた腕の血が止まる。デルタの頬にも浅い打撃痕が残り、呼吸は荒れていないのに、熱だけが高まっていく。お化け屋敷の奥、まだ見つからない探索物の反応は地図上でも揺れたままだ。本物の札が何処にあるのかも、この戦いそのものが囮なのかも、まだ断言できない。

 

「札はまだ見えないな」

 画面を睨みながら呟くと、壌竜が低く返した。

「今は札より、戦い方を読め」

「分かってる」

 実際、その通りだった。ここで急いで札を探させれば、ルプスレギナの思う壺になる。今は相手の癖、間、魔法を切る位置、その全部を掴む方が先だ。

 

 通信の向こうでデルタが牙を見せた。

 

「だったら、お前をコロス!」

 

 獲物に言う言葉としては直線すぎる。だが、今のデルタにはそれで足りる。殺すと言い切ったからこそ、逆に目が冷えた。

 

 ルプスレギナは傷だらけの腕を上げ、崩さない笑みのまま答える。

 

「うふふー、そういうの大好きですよぉ」

「でも、簡単にはやられませんから」

 

 赤い照明が揺れ、吊り人形の影が壁を這う。まだ札は見えない。まだ勝ちは見えない。けれど、戦いだけははっきりと深くなっていた。

 

 デルタが前へ出る。ルプスレギナも退かない。

 

 お化け屋敷の奥で、探索物の正体がなお闇へ隠れたまま、二つの獣じみた気配だけが濃くぶつかり合っていた。

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