ルプスレギナの回復光が、赤い照明の下で薄く滲んだ。
裂けた腕の血が止まり、崩れかけた姿勢がまた整う。普通なら、そこには焦りが見えるはずだった。デルタの速度は明らかに上で、踏み込みも、爪の鋭さも、近距離での反応も勝っている。それなのに、ルプスレギナは笑う。傷を受けた腕を軽く振り、痛みすら場を盛り上げる小道具みたいに扱っていた。
「うふふー、怖い怖い。そんなに睨まれたら、わたし泣いちゃいますよぉ?」
「泣く匂いじゃないです」
デルタの返しは低かった。
獣の喉奥で鳴る音と一緒に、身体が沈む。次の瞬間、床板が軋み、赤い影が横へ伸びた。ルプスレギナは後ろへ逃げる。逃げるというより、誘っている。棺の影、吊り人形の下、鏡の前、いずれもデルタが一撃を外せば、破壊禁止の警告へ触れそうな場所ばかりだった。
スマホの簡易マップを見ていた俺にも、その狙いは分かる。
「またギミックの近くだ」
声に出すと、バーゲストがすぐ頷いた。
「デルタ様に力を出させ、周囲を壊させるつもりでしょう。直接倒すより、失格を誘う方が安全です」
「性格悪いね」
ムジナの呟きに、壌竜が低く返す。
「悪辣だが、合理的だ」
デルタはその誘いを噛み砕くように踏み込んだ。爪はルプスレギナへ向かう。だが、壁は裂かない。床も砕かない。身体を捻り、肩で距離を詰め、棺の縁を蹴る時も力を殺している。暴れているようで、狩場そのものは壊していない。
その変化に、ルプスレギナの笑みが細くなった。
「あれぇ? もっと派手に来てくれていいんですよぉ?」
「壊したらダメって言われてるです」
「真面目ですねぇ」
「仮ボスが嫌がるからです」
その返しに、喉の奥が一瞬だけ詰まった。
デルタは続けて飛び込む。今度は右から爪、左足で床を押し、低く潜って膝へ噛みつくような体勢へ変えた。ルプスレギナは補助魔法で足場をずらす。淡い白が床を走り、デルタの軌道を半歩だけ外へ逃がした。直後に拳が入る。デルタの頬が跳ね、黒い髪が揺れる。
それでも、デルタは止まらない。
噛むように前へ出て、ルプスレギナの袖を爪で引き裂いた。布が飛ぶ。褐色の腕に赤い線が増える。ルプスレギナは笑いながら退き、指先で回復を走らせようとした。
その瞬間、デルタの鼻が別の方を向いた。
ほんのわずかだった。戦闘中の反応としては、あまりに小さい。デルタ自身もすぐルプスレギナへ視線を戻したが、俺の目には引っかかった。
「……今、違う方向を見た」
画面を見る。反応点は二つ。デルタとルプスレギナ。その奥に、探索対象らしい薄い表示が揺れている。けれど位置は曖昧で、偽札と区別がつかない。スマホのマップでは拾いきれない何かがある。
壌竜が横から言う。
「主、デルタは戦いながら狩場も読んでいる」
「ああ」
もう一度、デルタが反応した方向を見る。お化け屋敷の奥、鏡の小部屋から外れた裏通路。そこには派手な札もない。目立つ人形もない。ただ、古びた布の幕が下がり、演出用の白い煙が床を這っているだけだ。
ルプスレギナは、そこへデルタを近づけたがらない。
そこへ考えが届いた瞬間、胸の奥で線が繋がった。
「見た目じゃない」
ムジナがこちらを見る。
「なに?」
「本物の札は、見た目じゃ分からないようにしてある。偽物は目立つ場所に置いて、匂いか、触れた痕跡で分けさせる作りだ」
バーゲストの視線が鋭くなる。
「なら、デルタ様の嗅覚が最短です」
「そうだ。あいつはルプスレギナだけじゃなく、札の匂いも拾ってる」
中では、ルプスレギナが声を弾ませた。
「あはは、よそ見ですかぁ? そんなことしてると、噛まれるのはそっちですよぉ?」
デルタの耳が揺れる。怒りに乗れば、そこでルプスレギナへ飛び込む。けれど、もう一度だけ鼻先が裏通路へ向いた。
通信へ声を入れる。
「デルタ、そいつだけ追うな」
「はぁ!? デルタはあいつを噛みたいです!」
「分かってる。だが、今反応した匂いを忘れるな。ルプスレギナが避けてる場所がある」
ルプスレギナの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「へえ。そっちに気づいちゃうんですかぁ」
その一言で確信する。やはり、あの裏通路だ。
デルタは一瞬だけ黙った。怒りは消えていない。殺意も濃いままだ。ただ、その奥で狩りの回路が動き直したのが分かる。
「……変な匂いもするです」
「追えるか」
「追えるです。でも、こいつも邪魔です」
「両方だ。そいつを追い詰めて、その匂いも切るな」
デルタの牙が見えた。
「分かったです。両方、狩るです!」
次の踏み込みは、これまでと違った。デルタはルプスレギナへ真っ直ぐ突っ込まない。右へ走る。ルプスレギナが裏通路へ入らせまいと横へ出た瞬間、デルタはその動きごと読んでいた。棺の影を踏み台にし、上から爪を落とす。ルプスレギナは腕で受ける。血が散る。白い回復光が灯るより先に、デルタの膝が腹へ入った。
鈍い音が響き、今度こそルプスレギナの身体が大きく揺れる。
「っ、うふふ……いいですねぇ」
声はまだ明るい。だが、息が混ざった。
デルタは逃がさない。回復を使わせる腕へ爪を重ね、魔法の光が集まる指先を狙う。切断ではない。壊すのでもない。使う間を潰す狩り方だ。身体能力で押し切るのではなく、逃げ道と回復の瞬間を同時に塞いでいる。
ルプスレギナの笑みから、遊びの色が削れた。
「やっぱり嫌ですねぇ、こういう獣は」
「お前も獣の匂いがするです。でも、嫌な匂いです」
「ひどいですねぇ」
「だから、コロスです」
デルタが低く潜る。ルプスレギナは補助魔法を使い、足場をずらそうとする。だが、デルタはそこへ乗らない。手前で止まり、身体を反転させ、逆側へ回り込む。狭いお化け屋敷の中で、初めてルプスレギナの方が逃げ道を失った。
背後は鏡、横は棺、正面はデルタ。
ルプスレギナの指先に白い光が灯る。
デルタはその腕を噛むように掴み、床へ叩きつけた。破壊禁止の警告が一瞬だけ光る。だが、床は割れていない。叩きつけたのは腕だけで、狩場は壊していない。
次に爪が、ルプスレギナの肩を深く裂いた。
「あ――」
初めて、軽い笑いではない声が漏れた。
デルタは止まらない。喉を狙う。ルプスレギナはぎりぎりで顔を逸らし、首の代わりに肩口を裂かれる。回復光が走るが、もう間に合いが悪い。デルタは回復を見てから殴るのではなく、回復する場所を読んで潰している。
「デルタ」
俺が呼ぶと、耳だけが動いた。
「殺し切る前に、匂いを覚えろ。裏通路の方だ」
「覚えてるです」
返事は短い。獣の目はルプスレギナから離れない。それでも鼻は、あの裏通路の匂いを逃していない。
ルプスレギナが苦しげに笑う。
「ひどいですねぇ。せっかく、わたしと遊んでるのに」
「遊びじゃないです」
デルタの爪がルプスレギナの胴を打つ。壁へ叩きつける一歩手前で力を殺し、床へ崩す。派手な破壊音はない。代わりに、身体が舞台板へ落ちる重い音だけがした。
「狩りです」
その言葉と同時に、デルタはルプスレギナの首元へ爪を突きつけた。
ルプスレギナはまだ笑っていた。けれど、その笑みは薄い。回復も補助も切れていないが、使う前に潰される距離まで詰められている。デルタの身体能力が上なのは最初から分かっていた。だが今は、それだけではない。怒りを抱えたまま、狩りとして相手の勝ち筋を噛み潰した。
スマホの表示が小さく揺れる。
――COMBAT ADVANTAGE : DELTA
――SEARCH TARGET : UNCONFIRMED
勝負は傾いた。だが、探索ゲームはまだ終わっていない。
デルタがゆっくり顔を上げる。鼻先は、ルプスレギナではなく、裏通路の黒い幕へ向いていた。白い煙の奥に、見えない何かがある。偽札ではない。見た目では拾えない、デルタだけが掴んだ匂い。
「仮ボス」
「何だ」
「あっちです」
その一言で、全員の視線が動いた。
ルプスレギナは床に伏したまま、薄い笑みで息を吐く。
「……そこまで、鼻が利くんですねぇ」
その声には、もうさっきまでの余裕だけではないものが混ざっていた。
俺はスマホを握り直す。デルタはルプスレギナとの決着をつけた。だが、本当の探索物はまだ闇の中にある。戦いは終わったのに、試合は終わっていない。
お化け屋敷の奥、黒い幕の向こうで、赤い照明が一度だけ不自然に瞬いた。