黒い幕の奥で、赤い照明が一度だけ不自然に瞬いた。
それはお化け屋敷に仕込まれた演出ではない。安っぽい恐怖を作るための点滅なら、もっと分かりやすく、もっと雑に人の目を引く。けれど今の光は、こちらが近づいたことへ反応したように揺れ、すぐに沈んだ。デルタが嗅ぎ取った異質な匂いと、スマホの画面で揺れる反応点が、ようやく同じ場所で重なる。
「デルタ、場所は分かった。お前は邪魔を止めろ」
通信へ声を入れると、返事より先に爪が床を擦る音がした。
「分かったです。あいつはデルタが噛むです」
「うふふー、独り占めですかぁ? 嬉しいですねぇ」
ルプスレギナは床に膝をついたまま笑っていた。肩の傷は深い。腕の回復も追いついていない。けれど、その目はまだ負けを認めていない。むしろ、こちらが黒い幕へ意識を移したことで、最後に噛みつく場所を見つけたように細くなる。
相手マスターの声が、場内のスピーカーから割り込んだ。
「ルプスレギナ、止めろ! そのアイテムを取らせるな!」
声には焦りが混じっていた。つまり、あの幕の奥にあるものは、ただの終了札ではない。相手陣営も、それが取られたら終わりだと分かっている。
俺はスマホを握ったまま、黒い幕へ向かって走った。破壊禁止のルールがあるせいで、近道はできない。足元に散った演出用の骨、倒れた人形の腕、煙を吐く機械箱を避けながら進む。その背後で、ルプスレギナが立ち上がる気配がした。
「困りますねぇ。そこまで取られると、本当に負けちゃうじゃないですかぁ」
甘い声と同時に、白い光が広がる。回復ではない。補助魔法を重ねた拘束のようなものだろう。細い糸めいた光が床を這い、俺の足元へ伸びる。
それを、デルタが横から踏み潰した。
床は砕かない。けれど、魔法の光だけを爪で引き裂く。黒い影が走り、ルプスレギナの前へ割り込んだ。デルタの尾が低く振れ、牙を見せる顔が、獲物を逃がさない距離に入る。
「仮ボスの邪魔はさせないです」
「あらぁ、番犬みたいですねぇ」
「狼です」
「そういうところ、可愛いですよぉ」
「黙るです」
デルタが踏み込む。ルプスレギナは笑顔のまま腕を上げ、最後に残した魔法を指先へ集めた。淡い白が赤い照明の中で膨らみ、周囲の人形や幕を巻き込むように震える。自分の傷を治すためではない。俺を止め、デルタを逸らし、探索物へ届く一瞬を潰すための魔法だ。
だが、デルタはもうそれを見ていた。
爪が腕へ入る。切り落とすのではなく、魔法の流れが集まる手首を押さえ込み、身体ごと床へ叩き伏せる。重い音が小広間へ響いた。破壊警告は出ない。床も壁も壊れていない。壊されたのは、ルプスレギナの最後の一手だけだった。
「ひどいですねぇ。女の子の手をそんなに乱暴に扱うなんて」
「仮ボスに言いつけるです」
「今のご主人様じゃないんですかぁ?」
「もう負けるやつの言うことは聞かないです」
その言葉へ、ルプスレギナの笑みが一瞬だけ薄くなった。
俺は黒い幕をくぐる。奥には狭い隠し部屋があった。壁には古い護符の演出が貼られ、中央には小さな箱が一つだけ置かれている。終了札を入れるような返還箱ではない。黒い金属で作られたタグのようなものが、箱の中で低く光っていた。
手を伸ばす前に、スマホが震える。
――WARNING
――SPECIAL ITEM AREA
「終了札じゃない……何だ、これ」
画面の文字が切り替わる。
――NEXT MATCH OBSERVATION TAG
――ACQUIRE TO CLEAR FIRST MATCH
親切なのか、嫌がらせなのか分からない表示だった。勝利条件の本体を、終了札の形にすらしていない。偽物の札をばら撒き、探索ゲームだと思わせ、最後は匂いでしか辿れない場所に次の試合の情報を隠していた。運営は、ただ戦わせているだけではなく、勝った側へ次の餌を与えている。
俺はそのタグを掴んだ。
途端に、お化け屋敷全体の赤い照明が青白く反転した。外の小広間で、デルタがルプスレギナを押さえ込んだままこちらを振り返る。ルプスレギナの指先に残っていた光が霧散し、相手マスターの声が途切れた。
――SPECIAL ITEM ACQUIRED
――FIRST MATCH CLEARED
スピーカーの奥で、何かが壊れたようなノイズが走る。相手マスターの叫びが一瞬だけ混ざった。
「待て、まだ終わってない! 俺は――」
言葉は最後まで続かなかった。視界の端で、場内に浮かんでいた相手側の識別表示が剥がれるように消える。人間が消える音なんて、本来あるはずがない。それでも、胸の奥には嫌な重さが落ちた。勝った。けれど、その勝利は誰かの終わりと引き換えに処理される。
ルプスレギナの身体も光へ包まれた。
「うふふー、負けちゃいましたかぁ」
悔しがる声ではない。最後まで軽く、最後まで他人事のような声だった。デルタは爪を引きながらも、油断なく距離を取る。ルプスレギナは膝をついたまま俺を見ると、少しだけ首を傾げた。
「では、ごきげんよう……と言いたいところですけどぉ」
その先を聞く前に、白い光が彼女の姿を呑んだ。
退場した。そう思った。
けれど、スマホは鳴り止まなかった。青白い画面に、新しい表示が重なる。
――CONTRACT TRANSFER
――LUPUSREGINA BETA : NEW MASTER REGISTERED
息が止まりかけた。
「……待て。退場じゃないのか」
バーゲストが俺の隣へ来る。ムジナも、壌竜も、画面を見ていた。誰もすぐには口を開かない。今の表示が意味するものを、全員が遅れて理解していく。
「勝利陣営へ、契約体が移った……?」
バーゲストの声は低かった。
「勝つたびに増えるってこと?」
ムジナの言葉は軽く聞こえたが、その目は笑っていない。
壌竜が静かに告げる。
「戦力だけではない。主が抱えるものも増える」
その言葉が、一番重かった。勝てば楽になるわけではない。勝てば終わるわけでもない。勝った分だけ、こちらの手元に力が集まり、その力に名前と感情と過去がある。敵だった者を抱え込む仕組みで、MEDESは俺たちを先へ進ませようとしている。
光が収束した先に、ルプスレギナが立っていた。
消えたはずの彼女は、傷のほとんどを消し、メイド服の裂けた跡だけを薄く残して、こちらへ優雅に頭を下げる。顔には、敗者の屈辱よりも、新しい遊び場を見つけたような笑みがあった。
「うふふー。では、今日からよろしくお願いしますねぇ、新しいご主人様?」
デルタが一歩前へ出て、牙を剥く。
「デルタが勝ったです。でも、こいつがこっちに来るのは嫌な匂いです」
「ひどいですねぇ。仲良くしましょうよぉ」
「嫌です」
そのやり取りを聞きながら、俺はスマホに表示された契約欄を見た。デルタ、バーゲスト、ムジナ、壌竜。その下に、新しくルプスレギナ・ベータの名前が追加されている。勝った実感より先に、背中へ冷たいものが這った。
「……最悪だな」
声に出すと、ルプスレギナが楽しそうに笑う。
「そういう顔、嫌いじゃありませんよぉ」
俺は答えず、手の中の黒いタグへ視線を落とした。そこにはまだ、次の対戦相手の情報が完全には開いていない。ただ、ノイズ混じりの映像が一瞬だけ流れる。赤い鳥居のような影。水槽を叩くような音。炎にも見える紋章。そして、画面の端に浮かぶ文字。
――SECOND MATCH : PREVIEW LOCKED
一回戦は終わった。デルタは勝った。探索物も確保した。だが、勝利の先に待っていたのは解放ではなく、さらに増えた戦力と、次の試合への誘導だった。
お化け屋敷の外で、止まった観覧車が闇の中へ沈んでいる。
その輪の向こうに、もう次の盤面が用意されているように見えた。