一回戦後に案内された控室は、遊園地の管理棟を無理やり使ったような場所だった。
壁には剥がれかけた避難経路図が残り、古いロッカーには誰かの名前を書いたシールが貼られたままになっている。窓の外では観覧車が止まっていて、試合が終わったあとだというのに、廃遊園地そのものがこちらを見下ろしているようだった。勝ったはずなのに、胸の奥にはすっきりしないものが残っている。相手マスターの表示が消えた瞬間も、ルプスレギナの名前が俺の契約欄へ追加された瞬間も、まだ頭の中にこびりついていた。
その原因の一つは、目の前にいる。
「うふふー。改めまして、今日からよろしくお願いしますねぇ、新しいご主人様?」
ルプスレギナ・ベータは、戦闘で受けた傷などなかったみたいに、メイド服の裾を軽く摘んで頭を下げた。裂けていたはずの肩や腕は綺麗に戻っていて、笑顔にも敗者の湿り気はない。むしろ、相手陣営にいた時よりも楽しそうに見えるのが、余計に信用ならなかった。
デルタが即座に唸る。
「その呼び方、嫌な匂いがするです」
「えー、そうですかぁ? ご主人様はご主人様ですしぃ」
「仮ボスに変なこと言うなです」
「仮ボス、ですかぁ。可愛い呼び方ですねぇ」
ルプスレギナが笑うと、デルタの尾が床を叩いた。爪が少しだけ伸びている。今にも飛びかかりそうだが、ぎりぎりで止まっているのは、俺の契約体になった相手を勝手に噛むわけにはいかないと分かっているからだろう。デルタは単純に見えて、そこだけは間違えない。
「デルタ」
名前を呼ぶと、デルタはこちらを見ずに返事をする。
「分かってるです。仮ボスのものになったから、いまは噛まないです」
「いまは、なんですねぇ」
「うるさいです。次に変なことしたら噛むです」
ルプスレギナは怖がるどころか、口元に手を当てて肩を揺らした。負けた相手に対しても、態度が変わらない。いや、負けたからこそ面白がっているのかもしれない。デルタの真っ直ぐな殺意も、俺への懐き方も、あいつにとってはからかう材料になっている。
「でも、強かったですよぉ。あんなに真っ直ぐ噛みついてくる子、嫌いじゃありません」
「デルタは子じゃないです」
「ご主人様の言うことはちゃんと聞いて、邪魔を止めて、尻尾まで分かりやすく反応してましたし、わんちゃんみたいで可愛かったですよぉ?」
空気が変わった。
デルタの耳が伏せ、牙が見えた。さっきまでの威嚇とは違う。完全に地雷を踏まれた顔だった。
「狼です! 犬じゃないです!」
「はいはい、強い狼さんですねぇ」
「噛むです」
デルタが本当に一歩踏み出したので、俺は二人の間へ体を入れた。身体能力で止められるわけではないが、デルタは俺を押しのけてまで噛みには来ない。ルプスレギナも、それを分かったうえでにこにこと見ているのだから性質が悪い。
「仲良くしろとは言わない」
「しないです」
「残念ですねぇ」
二人の返事がほぼ同時に返ってきて、頭が痛くなる。バーゲストは腕を組んで控えていたが、表情は硬い。ムジナは面白そうに見ているようでいて、いつでも止めに入れる位置に立っている。壌竜は壁際から全体を見ていて、この場の空気そのものを測っているようだった。
「ただし、同じ陣営になった以上、最低限のルールは守れ。勝手に仲間を攻撃するな。戦闘中に俺の指示を邪魔するな。味方を罠にかけるな。食事や寝床で揉めるな。俺のスマホに勝手に触るな」
最後の一つを言った瞬間、ムジナが小さく笑った。
「急に生活感出たね」
「大事だろ。これが壊れたら全員終わる」
ルプスレギナの目が、ほんの少しだけ細くなる。笑顔は崩れていないが、今の一言がどこかへ刺さったのは分かった。こいつはきっと、そういう弱点を探す。契約体になったからといって、本質が変わったわけではない。
「味方、ですかぁ」
ルプスレギナがその言葉だけを拾う。
「少なくとも、MEDESの上ではそうなってる」
「では、味方らしく振る舞えばいいんですねぇ」
「振る舞うだけじゃ足りない。俺たちを裏切るな」
「契約に縛られている間は、できるだけ従いますよぉ」
「その言い方がもう信用ならないです」
デルタが低く言うと、ルプスレギナは楽しそうに目を細めた。
「信用してくれなくていいですよぉ。その方が、見られてる感じがして楽しいですし」
「デルタが監視するです。お前は嫌な匂いがするです」
「あらぁ、見張り役までついてくれるんですかぁ?」
「見張りです。仲良くないです」
「はいはい」
ルプスレギナは軽く流しているが、デルタの強さを軽く見ているわけではない。試合中に一度押し込まれた相手として、正面からぶつかる危険は理解している。そのうえでからかうのだから、余計に厄介だった。
バーゲストが静かに口を開く。
「信頼には遠いですが、戦場での役割は重なるかもしれません」
「役割?」
俺が聞き返すと、バーゲストはルプスレギナとデルタを順に見る。
「デルタ様は突破と追跡に優れています。ルプスレギナは補助、回復、攪乱に長けています。互いに感情面では相性が悪くとも、戦闘では噛み合う場面があるでしょう」
「性格は最悪だけど、動きは合いそうってこと?」
ムジナが言うと、壌竜が頷いた。
「相性が悪いことと、戦力として噛み合わないことは別だ。むしろ、嫌い合っているからこそ、互いの動きを見続けることもある」
「嫌です」
デルタが即答した。
「見たくないです」
「でも、さっきからずっと見てますよぉ?」
「監視です!」
「うふふー、分かりましたぁ」
デルタがまた唸る。ルプスレギナは笑う。これがこれから同じ陣営にいるのかと思うと、勝利の余韻などどこにも残らなかった。
俺はスマホの契約欄を見る。デルタ、バーゲスト、ムジナ、壌竜、そしてルプスレギナ・ベータ。名前が一つ増えただけなのに、控室の空気は明らかに変わっている。戦力は増えた。だが、扱うべき危険も増えた。勝ち進むほど強くなる仕組みは、こちらを救うためではなく、もっと深い場所へ沈めるために作られているように見える。
「一つだけ確認する」
俺が言うと、ルプスレギナは首を傾げた。
「何でしょう、新しいご主人様?」
「その呼び方を変えろとは言わない。ただ、俺を試すために仲間を傷つけるな」
「ふふ、真面目ですねぇ」
「答えろ」
少しだけ、ルプスレギナの笑みが変わった。軽薄さは残っている。けれど、契約の重みを確かめるような間が入る。
「分かりましたぁ。ご主人様の命令を邪魔するようなことは、しませんよぉ」
「味方を罠にかけるのもなしだ」
「必要がない限りは」
「なしだ」
言い切ると、ルプスレギナはくすりと笑って頭を下げた。
「はいはい。今はそういうことにしておきますねぇ」
信用できる返事ではない。けれど、契約体になった以上、命令として通った感触はある。少なくとも今この場でデルタを煽って噛み合いを始めることはないだろう。
デルタが俺の横へ戻りながら、ルプスレギナから目を逸らさずに言う。
「デルタは認めないです。仮ボスの契約体だから噛まないだけです」
「それでいいですよぉ。その方が楽しそうですし」
「楽しくないです」
「わたしは楽しいですよぉ」
ムジナが肩をすくめ、バーゲストが小さく息を吐く。壌竜だけは、ルプスレギナではなく俺の方を見ていた。
「主、増えたのは戦力だけではない」
「分かってる」
その言葉は重い。相手だった者を抱えるということは、勝った責任を抱えることでもある。ルプスレギナは厄介で、危険で、信用しにくい。それでも彼女は、もうこちら側に登録されている。
控室の外で、二回戦を予告するように園内放送のノイズが鳴った。
デルタはルプスレギナを睨み、ルプスレギナはその視線を楽しそうに受けている。不仲なのは間違いない。だが、この二人が同じ戦場へ出た時、デルタが前を噛み砕き、ルプスレギナが嫌な場所を塞ぐ形になれば、敵にとってはかなり厄介な組み合わせになる。
認めたくないが、戦力としては噛み合うかもしれない。
「……頭が痛いな」
「大丈夫ですよぉ。優しくしますから」
「お前の優しいは嫌な匂いです」
デルタの即答に、ルプスレギナは声を立てて笑った。
その笑い声が控室に響く中で、俺はスマホの画面を閉じた。勝った先で仲間が増える。だが、増えるたびに空気は変わり、背負うものも増えていく。
一回戦の勝利は、まだ終わった感じがしなかった。