エリスの剣は、なおもバーゲストを押し込んでいた。
跳ね橋が傾き、城壁セットが左右へ動き、観客席跡のライトが視界を白く焼く。FIELD SHIFTは決闘場を少しずつ変えていたが、エリス・グレイラットはその変化に遅れない。足場が沈めば重心を低くし、壁が迫ればそれを蹴って斬撃の角度を変える。荒々しく見える剣筋の奥には、反射だけでは片付かない精度があった。
バーゲストは倒れない。だが、押し返せてもいない。
肩口から流れた血が腕を伝い、握る剣の柄へ滲んでいる。それでも彼女は構えを崩さず、エリスの剣を正面から受け続けていた。防御は間に合っている。受けも流しも成立している。それなのに、一歩ずつ追い詰められている。あのままなら、いつかバーゲストの受けが遅れる。
俺は、前回見つけた一点を見逃さないように、エリスとそのマスターを交互に見た。
「バーゲスト、聞こえるか!」
俺が叫ぶと、バーゲストはエリスの袈裟斬りを受けながら答えた。
「はい、マスター」
「エリスの剣そのものを崩そうとするな。あの剣は強い。エリス自身の剣は、正面から崩せない」
エリスの目がこちらへ一瞬だけ向く。
「何を言ってるの」
「狙うのは命令の直後だ。あの男の声が入った瞬間だけ、剣が硬くなる」
エリスの顔に、怒りとは違う色が混じった。図星を突かれた者の反応ではない。自分でも分かっていたことを、他人の口から言われた時の拒絶だった。
壌竜が低く言う。
「主従の歪みが、剣に出ている」
「ああ。エリスじゃない。あの男が混ぜた余計な一手を斬れ」
バーゲストはエリスの突きを剣で逸らし、斜めに踏み込まれる前に半歩下がった。傷は増えている。それでも、今の一歩は逃げではない。俺の言葉を受け取った上で、戦い方を変えるための一歩だった。
「承知しました、マスター」
その声に、エリスが唇を噛む。
「……そうやって、言われた通りに動くのね」
エリスの剣が低く走る。バーゲストは受け、押し返さずに衝撃だけを流した。
「言われた通りではありません。信じて預けられたものに、私が応えているだけです」
「同じことでしょう!」
「いいえ。違います」
バーゲストはなおも反撃しない。あえて押し返さず、エリスの剣を受け続ける。外から見れば、さらに劣勢になったようにしか見えなかった。エリスもそれを逃さず、速さを上げる。斬り下ろし、返し刃、横薙ぎ、突き。赤い髪が動くたび、バーゲストの防御が削られていく。
だが、バーゲストの目はエリスの剣だけを追っていない。
舞台の外にいる男の口元を見ている。
「いいですね。そのまま押し切りなさい、エリス。騎士の誇りを、君の怒りで砕くのです」
エリスの肩が揺れた。身体が命令に引かれる。剣速は上がる。威力も増す。けれど、その瞬間だけ、流れるようだった剣筋がわずかに硬くなる。本人の意志だけで振っていた時にあった、獣じみた鋭さと自由さが消える。
バーゲストは受ける。受けながら、まだ動かない。
エリスが怒鳴る。
「何を狙ってるの!」
「あなたの剣を見ています」
「私の剣を、そんなふうに見るな!」
「侮っているのではありません。強いからこそ、見誤れないのです」
その言葉に、エリスの斬撃がさらに重くなる。バーゲストの足が床を削り、背後の城壁セットへ近づく。FIELD SHIFTの警告音が響き、舞台の床が円形に沈み始めた。バーゲストの立つ位置だけが低くなり、エリスが上段から斬り下ろすには絶好の形が作られていく。
エリスのマスターが、待っていたとばかりに微笑んだ。
「今です、エリス。その騎士を叩き伏せなさい」
エリスの表情が歪む。
嫌悪。怒り。屈辱。それでも身体は動く。剣が大きく振り上げられ、赤い髪がライトに照らされる。上から落ちる一撃は、まともに受ければバーゲストの防御ごと押し潰すだけの力を持っていた。けれど、俺にははっきり見えた。
あれは、エリス本来の剣ではない。
「今だ、バーゲスト!」
バーゲストが動く。
彼女は横へ逃げなかった。沈んだ足場を利用して、低い姿勢のまま前へ出た。エリスの剣が振り下ろされる直前、バーゲストの踏み込みが一拍早く間合いへ入る。剣と剣がぶつかり、音が弾けた。
その衝突は、防御ではない。
バーゲストの剣が、エリスの刃を横へ弾いた。命令で硬くなった軌道は、わずかにずれた瞬間に修正が利かない。エリスの目が見開かれる。
「なっ……!」
「斬るのは、あなたではありません」
バーゲストがさらに一歩踏み込む。重い一撃が入った。ただし刃ではない。剣の腹に近い部分で、エリスの胴を叩く。殺すためではなく、立っていられなくするための一撃だった。
エリスの身体が吹き飛ぶ。床を転がり、手から離れた剣が鋭い音を立てて滑った。赤い髪が床に広がり、彼女はすぐには起き上がれない。バーゲストは追撃しなかった。剣を下ろさず、しかし次を叩き込む姿勢も取らない。
「その剣を汚す命令です」
決闘場に静けさが戻る。
エリスは荒い息を吐きながら、バーゲストを睨んだ。敗北の悔しさはある。怒りもある。だが、そこに混じったものは、さっきまでの嫌悪とは違っていた。
「……あんた、いい主を持ったのね」
バーゲストは少しだけ目を伏せる。
「そう言えるほど、簡単な関係ではありません」
「それでも、羨ましいわ」
エリスは剣を失った手を握る。自分が縛られていた命令と、バーゲストが受け取った指示。その違いを見てしまった者の声だった。
「負けた私に、説教?」
「敬意です。あなたの剣は、あなた自身のものです。それを忘れないでください」
エリスは短く息を吐いた。笑ったわけではないが、怒鳴り返すこともしなかった。
その直後、MEDESの表示が舞台の上に浮かぶ。
――SECOND MATCH:WINNER BARGHEST
――LOSER MASTER PROCESSING
エリスのマスターの身体が、指先から光に削られ始めた。
それでも、男は笑っていた。焦りも怒りもない。むしろ、満足そうに拍手までしている。自分が消えるその瞬間すら、舞台の終幕として眺めているようだった。
「素晴らしい。最後まで実に美しい戦いでした」
エリスは倒れたまま、男を睨む。
「……最後まで、それなのね」
「ええ。私の終わりにふさわしい幕引きです」
俺はその笑みに、腹の底から嫌悪が湧くのを感じた。
「お前は、最後までエリスを見てないんだな」
男は消えかけの顔をこちらへ向け、穏やかに微笑む。
「見ていましたよ。最高の剣として」
バーゲストの声が、静かに響く。
「それが、あなたの敗因です」
男は少しだけ目を細めた。負けを認めるようでもあり、まだ何かを楽しんでいるようでもある。身体の輪郭が薄れていき、声だけが決闘場の空気に残った。
「ええ……実に、美しい……」
最後まで笑みを浮かべたまま、エリスのマスターは光の中へ消滅した。
その光が消えたあと、決闘場に残ったのは、倒れたエリスと、剣を下ろしたバーゲストだけだった。
エリスはまだ生きている。消えていない。敗北しても、そこに残っている。
スマホが震える。
画面には、新しい表示が浮かび始めていた。