敵マスターが消えたあと、決闘場にはしばらく音が戻らなかった。
騎士ショー用に作られた城壁セットは歪んだまま止まり、跳ね橋の鎖も沈黙している。FIELD SHIFTによって動いていた舞台装置は役目を終えたように固まり、観客席跡のライトだけが、倒れたエリス・グレイラットと、剣を下ろしたバーゲストを白く照らしていた。勝負はついた。バーゲストは勝ち、エリスは敗れた。だが、そこに残っている空気は、単純な勝利の余韻とは違っていた。
エリスはまだ消えていない。
それだけで、俺はスマホを見る手に力が入った。敗北した契約体が勝者側へ移る。ルプスレギナの時に起きたことが、今回も起きるのかもしれない。そう思った瞬間、画面に黒地の表示が浮かぶ。
――SECOND MATCH:COMPLETE
――WINNER:BARGHEST
――LOSER MASTER:ERASED
――CONTRACT TRANSFER
やはり来た。
続けて、エリスの名前が表示される。
――ERIS GREYRAT:NEW MASTER REGISTERED
「……やっぱりか」
俺の声に、エリスが床に倒れたまま顔を上げた。傷と疲労で呼吸は荒い。それでも目だけは死んでいない。獣のような鋭さは残ったままで、その視線が俺のスマホへ向けられた時、彼女の表情に苦いものが走った。
「……結局、私はまた誰かのものになるってこと?」
その言葉は、怒りというよりも疲れに近かった。
前のマスターは消えた。エリスを戦いの見世物にし、彼女の怒りさえ娯楽として眺めていた男はもういない。それなのに、自由になったわけではない。MEDESは彼女を勝者の陣営へ移し、俺の契約欄に名前を刻んだ。勝った側から見れば戦力が増えたと言える。だが、エリスから見れば、鎖の持ち主が変わっただけに見えてもおかしくなかった。
「そう表示されてる」
「なら、次はあんたが私に命令するの?」
エリスは片腕をついて起き上がろうとした。身体が痛むのか、わずかに顔を歪める。それでも退こうとはしない。剣は手元にない。バーゲストが弾き飛ばしたまま、少し離れた床に転がっている。だが、剣がなくても、彼女はまだ戦う気配を消していなかった。
前の主が消えた直後、新しい主に何を命じられるのかを警戒している。
それが見えたから、俺はすぐに言った。
「今は休め」
エリスの目が細くなる。
「……は?」
「戦えとは言わない。立てとも言わない。まずは傷を見せろ」
「命令じゃないの?」
「必要なら命令にする。でも、今はお前が選べ」
「選ぶ……?」
「ああ。休むか、話すか、黙っているか。少なくとも今この場で、俺はお前に剣を振れとは言わない」
エリスはすぐに返事をしなかった。怒鳴るか、睨みつけるか、拒絶するか。そのどれでもなく、彼女は困惑しているように見えた。戦えと命じられる準備はしていたのだろう。立て、従え、次の戦いに備えろ。そういう言葉なら、怒りながらでも反応できたのかもしれない。
だが、休めと言われて、選べと言われたことで、エリスの中にあった構えが一瞬だけ行き場を失った。
デルタが鼻をひくつかせる。
「仮ボス、こいつ強いです。噛んでいいです?」
「駄目だ」
「むぅ……」
デルタは不満げに唸ったが、それ以上は出ない。エリスの強さに反応しているだけで、ルプスレギナに向けるような嫌悪とは違う。むしろ、強い相手を見つけた時の純粋な興味に近かった。
ルプスレギナは少し離れたところで、いつもの笑みを浮かべている。
「うふふー。ご主人様の命令と、あの人の命令はずいぶん違いますねぇ」
「またその呼び方するです」
「だって、ご主人様ですしぃ」
デルタが牙を見せかけたが、ムジナが間に入るように軽く声を挟んだ。
「命令されると思って構えたら、休めって言われたわけか。そりゃ混乱するよね」
壌竜はエリスの方を見たまま、低く続ける。
「命令しないことも、主の判断だ。甘さだけではない」
「……変な奴ら」
エリスが呟く。
「否定はしない」
俺が返すと、彼女は少しだけ眉を寄せた。納得したわけではない。ただ、前のマスターに向けていたような明確な嫌悪とは、少し違う視線になっている。
バーゲストが、ゆっくりとエリスの近くへ歩いた。彼女は警戒されることを分かっているように、すぐそばまでは近づかない。剣を下ろしたまま、膝をつくでもなく、見下ろすでもなく、剣を交えた相手として距離を保って立つ。
エリスはバーゲストを見る。
倒された相手を見る目ではない。恨みもある。悔しさもある。だが、それだけではなかった。バーゲストはエリスを侮らなかった。殺さなかった。前のマスターの命令が剣に混ざる瞬間だけを斬り、エリス本人の剣を否定しなかった。その事実は、エリスの中にも残っているはずだった。
「あんたは、どうしてその主のために剣を振れるの」
エリスの問いはまっすぐだった。
バーゲストはすぐには答えない。決闘の余韻を踏むように、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「最初から信じていたわけではありません」
「なら、どうして」
「彼は、私の剣を慰み物にはしません。命令で縛ることもできるはずなのに、こちらが応える余地を残す」
「それで信じられるの?」
「簡単ではありません。ですが、剣を預けてもよいと思える瞬間はあります」
エリスは俺を見る。次にバーゲストを見る。
決闘の最後、俺の声にバーゲストが応えた場面を、エリスは見ていた。あれは前マスターがエリスへ向けた命令とは違う。俺はバーゲストを縛ったわけではない。バーゲストは俺の読みを受け取り、自分でそれを剣へ変えた。そういう関係を、エリスは目の前で見てしまった。
「……羨ましいって思ったの、たぶんそれね」
エリスの声は小さかった。吐き捨てるようでもあり、認めたくないものを認めるようでもある。
バーゲストは静かに言う。
「羨むだけで終わる必要はありません」
「私にもそうしろって?」
「いいえ。選ぶのはあなたです」
その言葉に、エリスは顔をしかめた。
「選べ、選べって……契約してるくせに」
「契約しているからこそ、選ばせる必要がある」
俺が言うと、エリスの目が戻ってくる。
「勘違いしないで。まだ、あんたを認めたわけじゃない」
「分かってる」
「命令されたら、逆らえないんでしょ」
「たぶん、そうだな」
「だったら、あんたが最低な命令を出したら、その時は本気で睨むわ」
「睨むだけで済むのか?」
「剣が持てるなら斬る」
「それくらいの方が分かりやすい」
エリスは、少しだけ拍子抜けしたような顔をした。
「……変な主」
「よく言われる」
「言われるのね」
「最近、増えた」
ムジナが横で小さく笑い、デルタは「仮ボスは変じゃないです。仮ボスです」とよく分からない擁護をする。ルプスレギナは楽しそうに目を細めているが、そこにはさっきまでの軽いからかいとは違う観察の色が混じっていた。
エリスは息を吐き、剣を失った手を握る。
「今は、休む」
「ああ」
それは命令への返事ではなかった。エリス自身が選んだ言葉だった。
バーゲストが、床に滑っていたエリスの剣を拾う。刃を確認し、柄をエリスの方へ向けた。ただし、無造作には渡さない。武器であることを忘れず、同時に奪ったままにもしていない。信頼と警戒、その両方がある動きだった。
「あなたの剣は、あなた自身のものです」
「負けた相手に言われると、腹が立つわね」
「ならば、次は勝って証明してください」
エリスは柄を見つめる。すぐには掴まない。しばらくその剣を見てから、痛みに顔をしかめつつ、ゆっくりと手を伸ばした。
「……次は負けない」
「望むところです」
二人の間に生まれたものは、友情と呼ぶには硬すぎた。仲間意識と言うにも早い。けれど、敵だった時とはもう違う。剣を交えた者同士の敬意と、次を約束できるだけの信頼が、細い糸のように繋がっている。
スマホが再び震える。
――CONTRACT TRANSFER COMPLETE
――ERIS GREYRAT:REGISTERED
――TEAM STATUS:UPDATED
エリス・グレイラットの名前が、俺の契約欄へ正式に追加された。
戦力は増えた。だが、それは同時に、また一人分の怒りや誇りや傷を抱えるということでもある。ルプスレギナの時もそうだった。勝つたびに仲間が増える。勝つたびに、背負うものが重くなる。
壌竜が横で言った。
「主、また重くなったな」
「分かってる」
「分かっているならいい」
ルプスレギナが、くすくすと笑う。
「うふふー。賑やかになってきましたねぇ」
「強いのが増えたです。でも、まだ噛んでないです」
「そこ基準なんだ」
ムジナが肩をすくめると、エリスは周囲を見回し、少しだけ疲れた顔をした。
「……本当に変な奴らばっかり」
バーゲストが静かに応じる。
「慣れるには時間がかかるでしょう」
「慣れるとは言ってない」
「ええ。それで構いません」
俺はスマホを閉じた。
決闘は終わった。敵マスターは消え、エリスは生き残った。だが、エリスとの契約はまだ始まったばかりだ。認められたわけではない。信頼されたわけでもない。けれど、少なくとも彼女は今、自分の意思で休むことを選んだ。
それだけで、前の主とは違う一歩になったのだと思う。
決闘場のライトが落ち、騎士ショー跡地に夜の静けさが戻ってくる。エリスは剣を抱え、バーゲストはその隣に立つ。二人の距離は近くない。だが、もう遠いだけでもなかった。