決闘場の灯りが落ちても、エリスの剣だけは床の上に残っていた。
バーゲストに弾かれ、決着の瞬間にエリスの手から離れた剣だ。刃には戦いの痕があり、ライトの残光を受けて鈍く光っている。前のマスターが消え、MEDESの契約移行が終わったあとも、その剣だけはまだ誰の手にも戻っていなかった。
エリスは床に座ったまま、それを見ている。休むと口にしたばかりだというのに、目は剣から離れていない。警戒しているというより、自分の一部をそこに置き忘れているような顔だった。負傷と疲労で身体は重いはずなのに、剣がある場所だけは見失わない。
バーゲストが静かに歩き、剣を拾い上げた。
刃の状態を確かめ、欠けや歪みがないことを見る。その動きに、勝者の余裕や戦利品を扱う雑さはない。剣を交えた相手の武器として、慎重に扱っている。
「マスター」
バーゲストがこちらを見る。
「……エリスの剣か」
俺が言うと、ムジナが少し眉を上げた。
「それ、どうするの?」
問いは軽く聞こえたが、中身は軽くない。エリスは新しく契約されたばかりだ。前のマスターを嫌悪していたとはいえ、俺たちを信頼しているわけではない。しかも、さっきまでバーゲストを追い詰めていた剣士だ。その武器を返すことが危険なのは、誰が見ても分かる。
デルタが鼻を鳴らす。
「返すです? 返したらまた戦えるです?」
「戦わせるために返すわけじゃない」
「でも、強いです。武器があったらもっと強いです」
「だから問題なんだろうね」
ムジナが肩をすくめると、ルプスレギナがくすりと笑った。
「うふふー。でも、危なくないですかぁ? 新入りさん、かなり怖い剣士さんですよぉ」
その言葉に、エリスの視線がこちらへ向く。鋭い目だ。剣を奪われると思っている。あるいは、命令に従うなら返すと言われると思っているのかもしれない。
「……私の剣を、どうするつもり?」
声は低い。倒れていても、負けていても、そこにある誇りは折れていなかった。
俺はバーゲストから剣を受け取った。柄に触れた瞬間、これがただの武器ではないことが分かる。エリスがあれほどの怒りを乗せ、あれほどの速度で振るった剣だ。前のマスターに命令されて振らされた剣でもあり、エリス自身が己の意志で握ってきた剣でもある。
だから、奪ったままにするのは違う。
「返す」
短く告げると、エリスの表情がわずかに変わった。
「……本気?」
「ああ」
俺は刃を向けず、柄をエリスの方へ差し出した。
エリスはすぐには手を伸ばさない。俺の顔と剣を交互に見て、試すように目を細める。
「私があんたを斬るかもしれないとは思わないの?」
「思う」
「だったら、なんで返すのよ」
「持っていない方が危ない顔をしてる」
エリスの眉が寄る。
「……何それ」
「剣がないと落ち着かないんだろ。お前にとって、それはただの武器じゃない」
エリスは黙った。反論したいのに、言葉が出てこないような顔をしている。図星だったのだろう。剣を奪われたままなら、身体を休めても心は休まらない。戦うためだけではない。剣を握っている状態が、エリスにとって自分を保つ形なのだと思えた。
「信じてるって言いたいの?」
「違う」
「違うの?」
「信じたから返すんじゃない。危険だと分かった上で返す」
ムジナが呆れたように言う。
「それ、普通は返さない理由じゃない?」
「普通ならな」
壌竜が横から静かに続けた。
「だが、剣を奪ったままでは、その者の形を壊すことになる」
「ああ。剣を取り上げたままなら、俺はお前を剣士として見ていないことになる」
エリスは、こちらを睨んだまま動かない。
「剣士として見るから、危険でも返すってこと?」
「斬るかもしれないなら、その時は俺の判断が間違ってたってことだ」
「馬鹿じゃないの」
「たぶん、普通よりは」
「そこは否定しなさいよ」
エリスの声には苛立ちが残っている。けれど、前のマスターへ向けていたものとは違う。嫌悪で切り捨てるのではなく、理解できないものをどう扱えばいいか分からずに苛立っているようだった。
バーゲストが一歩だけ近づく。
「彼は、無防備に信じているわけではありません」
エリスは視線を移す。
「じゃあ、何?」
「あなたを危険な剣士だと理解した上で、その剣をあなた自身のものとして扱っているのです」
「それが、あんたの言ういい主?」
「少なくとも、剣を慰み物にする主ではありません」
エリスの目が少しだけ伏せられる。
「……それは、分かる」
その一言は小さかったが、はっきり聞こえた。
エリスは前のマスターを思い出しているのかもしれない。あの男は、エリスの怒りも嫌悪も剣の美しさとして眺めていた。彼女の剣を、彼女自身から切り離し、自分の娯楽にしていた。夢主が今やっていることは、その逆だ。信じたからではなく、危ないからこそ、剣士として扱うために返そうとしている。
エリスは理解しきれない顔をしていた。
理解しきれないからこそ、目を逸らせないようにも見えた。
やがて、彼女はゆっくりと手を伸ばした。痛みで肩が少し震える。指先が柄に触れた瞬間、エリスの表情から張り詰めていたものがほんの少しだけ抜けた。剣を抱えるように引き寄せ、膝の上へ置く。その動きは、武器を確保するというより、失くした自分の一部を取り戻すようだった。
「……変な主ね」
「よく言われる」
「信じたわけじゃないから」
「分かってる」
「私が斬るかもしれないって、本当に思ってる?」
「思ってる」
「それでも返したの?」
「ああ」
「……やっぱり変」
「それもよく言われる」
エリスは小さく息を吐いた。呆れている。警戒もしている。だが、さっきまでのように、すぐ噛みつくための鋭さではなかった。剣を抱え直した手に、少しだけ力が戻っている。
デルタがじっとエリスの剣を見ていた。
「仮ボス、エリスは強いです。今度デルタとも戦うです」
「今は休ませろ」
「むぅ……」
ルプスレギナが目を細める。
「うふふー。ご主人様、危ない子を増やすのが好きなんですかぁ?」
「好きで増やしてるわけじゃない」
「でも、増えてるよね」
ムジナが言うと、壌竜が短く頷いた。
「勝った結果だ。主が背負うものも、また増えた」
エリスは周囲を見回し、疲れたように呟く。
「……本当に変な奴らばっかり」
「否定はしません」
バーゲストが淡々と返すと、エリスは少しだけ眉を動かした。決闘で倒された相手に対する悔しさは残っている。けれど、その奥には、言葉にしにくい納得もあるようだった。
少しして、エリスが俺を見る。
「ねえ」
「何だ」
「あんたは、契約体を全部そうやって扱うの?」
「全部同じには扱えない。それぞれ違うからな」
「……面倒くさい考え方」
「だろうな」
「でも、嫌いじゃないわ」
その言葉は、予想していたよりも静かだった。
好意を認めるような甘さではない。信頼を預けるにはまだ遠い。だが、前のマスターに向けていた冷たい嫌悪とは違う。分からない。けれど、見ていたい。理解できない。けれど、完全に拒む気にはなれない。そんな距離のある言葉だった。
「そうか」
「まだ認めたわけじゃない」
「分かってる」
エリスは剣を抱え直す。刃をこちらへ向けることはしない。柄に触れた手は、離れない。自分自身を取り戻したばかりのように、剣を確かめている。
俺はその様子を見て、スマホを閉じた。
エリスはまだ俺を信じていない。俺も彼女を完全に信じたわけではない。危険だと分かっている。斬られるかもしれないとも思っている。それでも、剣を奪ったままにしておくより、剣士として扱う方を選んだ。
それが正しいかどうかは、まだ分からない。
だが、エリスが剣を抱えたままこちらを見る目は、もう前の主を見る目とは違っていた。
命令しない主。危険を知りながら、剣士として扱う主。
理解しきれないからこそ、エリスはまだ目を逸らせずにいる。決闘場の光が完全に落ちる直前、その赤い瞳に宿った小さな迷いが、確かにこちらへ向いていた。