黒い影と銀の刃が、街灯の下でまたぶつかった。
火花が散る。砕けたアスファルトの欠片が跳ねる。デルタの爪が低く唸り、バーゲストの剣が真正面からそれを受け止めた。互角。いや、正面から力だけをぶつけ合えば、わずかにバーゲストが重い。だが、デルタの速さと獣じみた勘が、その差を埋めている。
問題は、そこじゃない。
俺のスマホには、二つの緑がもう灯っていた。
――対象契約体が冠する“妖精騎士”の名を特定せよ CLEAR
――対象契約体の主戦闘様式を特定せよ CLEAR
――対象契約体を現在の所有者へ縛っているものを特定せよ
最後の一問だけが、黒いまま残っている。
答えはほとんど見えていた。不満はある。命令されるたび、バーゲストの体はわずかに硬くなる。騎士としての矜持は残っているのに、所有者へ剣を向けない。理由はひとつしかない。契約だ。MEDESによる拘束。だが、見えているだけでは足りない。
MEDESが欲しがっているのは、もっとはっきりした“証明”だ。
戦場の真ん中で、誰の目にも分かる形で。
バーゲストの鎖が唸りを上げる。デルタがそれを紙一重で躱し、店先の壊れた看板を蹴って上を取る。そのまま頭上から飛び込むように爪を振り下ろした。バーゲストが剣を立てて受ける。鈍い金属音。地面が鳴る。次の瞬間、デルタがその剣を足場にして跳ね、まっすぐ敵マスターの方へと軌道を変えた。
「っ、バーゲスト!」
あいつの声がひっくり返る。
バーゲストは反射で動いた。剣を引くより先に体が出る。デルタの爪が敵マスターの頬を掠める寸前、銀の腕甲が割って入った。肉を裂く代わりに、甲冑の表面が爪で深く抉れる。
それでもデルタは止まらない。獣だ。獲物へ噛みつくと決めた以上、そこで引くような動きはしない。低く身体を沈め、次は腰だ。脚だ。守る動きへ入った相手の死角を抉るように爪を振るう。
バーゲストの剣が下がる。鎖が輪を描く。デルタの肩を取ろうとしたそれを、デルタは無理やり振り払った。黒い髪が跳ねる。頬の横を銀の光が走る。
敵マスターが二歩、三歩と後ずさる。
明らかに焦っていた。自分が狙われて初めて、ようやく安全圏が絶対じゃないと理解した顔だ。
「バーゲスト! さっさと殺せ! 街ごと巻き込んでもいい、あいつを止めろ!」
その一言が、夜の通りへ突き刺さった。
俺は息を呑んだ。
街ごと巻き込んでもいい。
バーゲストの目が、そこで初めて揺れた。
ほんの一瞬。けれど、確かに揺れた。剣を握る手がわずかに止まり、呼吸が引っかかる。騎士としての顔に、暗いものが走る。嫌悪だ。躊躇だ。それでも――次の瞬間には、彼女は動いてしまう。
「……承知、しました」
声が重い。
デルタが、それを逃さなかった。
「嫌がってるです!」
叫びと同時に、黒い影が横へ流れる。バーゲストの踏み込みを受けるのではなく、引き出すような軌道だ。バーゲストは命令に従い、明らかに重い一撃を放つ。剣圧だけで、崩れた商店のシャッターが内側からひしゃげた。もし人がいれば巻き込まれる。そんな斬り方だった。
バーゲスト自身が、それを誰より理解している顔をしていた。
それでも止めない。止められない。
そこだ。
「デルタ、もう一回だ! 敵マスターへ寄せろ!」
「分かってるです!」
デルタは笑った。鋭く、牙を見せるように。
爪がアスファルトを蹴る。今度は最短じゃない。わざと遠回りに、バーゲストの正面を外し、敵マスターの視界へちらつくように走る。獲物を追う狼の動きだ。真横、背後、正面。どこへ来るか分からない軌道で圧をかける。
敵マスターがたまらず叫んだ。
「バーゲスト! 俺を守れ! 何をしてる、早くしろ! 命令だ!」
バーゲストの顔が、そこでまた歪んだ。
今度は見間違いじゃない。
眉の間に深い影が差す。唇が強く結ばれる。剣を握る腕には迷いがないのに、その根元だけが嫌がっている。拒絶と服従が同時に走る顔だ。
「……っ」
喉の奥で押し殺すような音がした。
それでもバーゲストは動く。
デルタを斬るためではない。敵マスターを守るために、無理やりその進路へ割って入る。鎖でデルタの腕を払う。剣で距離を切る。明らかに、攻めではなく“従わされている防御”の動きだ。
俺のスマホが、熱を持ったみたいに震えた。
まだだ。まだ緑には変わらない。
だが、MEDESも見ている。答えの輪郭へ近づいている。
デルタが着地した。肩で息をしながらも、紫の瞳は鋭いままだ。あの目はもう、バーゲストだけじゃなく、その後ろのマスターごと獲物として捉えている。
「仮ボス!」
「ああ、見えてる!」
答えはもう出ている。
契約だ。
不満がある。
嫌がっている。
それでも守らされる。
命令に逆らえない。
けれど、最後の一押しがいる。MEDESに“証明”として届く一手が。
バーゲストは騎士だ。誇りがある。だからこそ、命令の醜さへ顔が曇る。なら、その誇りと契約の矛盾を、本人の口か態度で表へ出させればいい。
俺は前へ出た。自分でも馬鹿だと思う。バーゲストの間合いへ踏み込めば、一瞬で斬られる。けれど、デルタだけに任せていても、戦いは長引く。街の被害はもう限界が近い。
「バーゲスト!」
声を張る。
銀の瞳がこちらを向いた。
「おまえ、本当はその命令に従いたくないんだろ!」
敵マスターの顔が引きつる。
「黙れ!」
「黙るのはそっちだ」
自分でも驚くほど、声は冷えていた。
「おまえは騎士だ。街ごと巻き込んで殺せと言われて、顔色ひとつ変えなかったわけじゃない。今もそうだ。守りたいから守ってるんじゃない。守らされてる」
バーゲストの肩が、わずかに震えた。
その一瞬を、デルタが逃すはずがない。
「そうです!」
叫びながら、黒い影がまた敵マスターへ走る。バーゲストは反射で止めに入る。嫌でも、止める。その動き自体が、もう答えだった。
敵マスターが後ずさりながら喚く。
「バーゲスト! 命令だ、そいつらを黙らせろ! おまえは俺の契約体だろ!」
その言葉が、決定打になった。
俺のスマホが強く脈打つ。黒い画面の最後の一行が、赤く瞬いて、次の瞬間に緑へ変わった。
――対象契約体を現在の所有者へ縛っているものを特定せよ
――CLEAR
喉の奥から息が漏れた。
抜いた。
三問、全部だ。
同時に、画面全体が暗く沈み、中央へ新しい表示が立ち上がる。
――ALL CONDITIONS CLEARED
――SEIZURE RIGHTS GRANTED
それを見た瞬間、敵マスターの顔色が変わった。何が起きたか、完全には分かっていないはずだ。それでも、盤面がひっくり返った感触だけは伝わったのだろう。
「な、何をした……?」
「遅いです」
デルタが嗤う。
今度の声には、勝ちを確信した獣の湿り気があった。バーゲストが振り向く。敵マスターを見る。その目には、さっきまであった“逆らえなさ”とは別の色が混じっていた。契約が外れかけている。そういう直感が、空気そのものにあった。
スマホがさらに表示を重ねる。
――TRANSFER AVAILABLE
――TARGET : BARGHEST
――CONFIRM SEIZURE
指先が一瞬止まる。
奪える。
本当に、奪える。
目の前で戦っている相手の所有権を、スマホ一つで移せる。その事実の悍ましさが、今さら骨へ染みた。けれど、ここで躊躇えば終わる。デルタが作った隙も、見抜いた答えも、全部が無駄になる。
俺は息を吐いた。
そして、画面へ触れる。
――SEIZURE CONFIRMED
瞬間、バーゲストの胸元で淡い光が弾けた。
「……っ!?」
敵マスターが悲鳴じみた声を漏らす。バーゲストの足が止まる。剣を握ったまま、目だけが見開かれる。何かが切れた。見えない鎖が千切れたような、そんな感覚が場全体を走った。
敵マスターがスマホを見る。叩く。叫ぶ。
「ふざけるな! 命令を聞け、バーゲスト! 聞けよ!」
だが、もう遅い。
バーゲストはゆっくりと振り返る。敵マスターを見る。その眼差しに、さっきまでの強制はもうない。残っているのは、長く押し殺していたものが剥き出しになったあとの、冷えた怒りだった。
「……あなたの命令に従う理由は、もうありません」
低い声だった。けれど、今度は一度も詰まらない。
敵マスターが後ずさる。
「ま、待て、違う、俺は――」
言い終わる前に、デルタが前へ出た。
黒い影が、銀の巨体の横をすり抜ける。
敵マスターの喉元へ、爪がぴたりと止まった。
「仮ボス」
デルタは振り返らないまま呼んだ。
「どうするです?」
その問いに、少しだけ時間がかかる。
殺す。
逃がす。
気絶させる。
選択肢は一瞬でいくつも浮かんだ。だが、答えはすぐに決まった。こいつをここで殺せば、終わる話は早い。けれど、もう勝負はついている。所有権は移った。これ以上、無駄に血を増やす理由はない。
「殺さなくていい」
「了解です」
言葉の最後と同時に、デルタの爪が敵マスターの首筋を浅く裂いた。悲鳴が上がるより早く、そのまま後頭部へ手刀が落ちる。男の身体が崩れた。
静かになった。
嘘みたいに、あっさりと。
壊れた街灯。砕けたガラス。ひしゃげた自販機。戦いの痕だけが、さっきまでの激突を証明している。その真ん中で、バーゲストは剣を下ろし、俺を見た。
敵として見ていた視線とは違う。けれど、まだ完全にこちらを受け入れた目でもない。当然だ。今この瞬間、彼女は強制主従の鎖を、また別の相手へ渡されたばかりなのだから。
スマホが最後の表示を出す。
――BATTLE ENDED
――WINNER : OWNER 01
――CONTRACTED SUBJECT “BARGHEST” TRANSFER COMPLETE
その文字列が、妙に明るく見えた。
勝利。
移譲完了。
契約体バーゲスト。
冷たい文章だった。事務的で、祝福も罪悪感もない。ただ結果だけを並べる。その無機質さが、逆に胃の底へ重く沈む。
デルタがようやく爪を下ろした。黒い尾がゆっくり揺れる。勝った時の顔だ。けれど、それだけじゃない。バーゲストを見る目には、強い相手を認めた獣の光も混じっていた。
「取ったです」
「ああ」
「本当に、奪えたです」
その言葉に、俺は返事をするまで一拍かかった。
奪えた。
確かにそうだ。
問題を解いた。
答えを暴いた。
それで、所有権が移った。
頭では理解している。だが、感情はそれに追いついていない。バーゲストが立っている。ついさっきまで敵として剣を向けてきた相手が、今はもう“こちらの契約体”として処理されている。その仕組みの悍ましさに、改めて吐き気がした。
バーゲストが、低く口を開く。
「……これより、私は」
そこで言葉が切れる。
従う。そう言おうとして、止まったのだろう。契約の切り替わりが起きたからといって、心まで即座に追いつくはずがない。むしろ、その詰まり方に少しだけ救われた。
「無理に言わなくていい」
気づけば、そう言っていた。
バーゲストの銀の瞳が、わずかに揺れる。
デルタが横で鼻を鳴らした。
「仮ボスは、そういうやつです」
その声だけが、張り詰めた空気を少しだけ緩める。
俺はスマホの画面を見下ろした。そこにはまだ、勝利の結果が無感動に残っている。
――CONTRACT SLOT UPDATED
――CURRENT OWNED SUBJECTS : 02
デルタ。
バーゲスト。
二つの名が、黒の中に並んでいた。