眠りが浅くなった理由は、最初から分かっていた。
部屋の中に、誰かの気配がある。
それは殺気と呼ぶほど鋭くはなかった。だが、無害な気配とも言い切れない。足音はほとんどないのに、空気の重さだけが少し変わっている。目を閉じたままでも、誰かが扉の近くに立ち、こちらを見ているのが分かった。
俺はすぐには動かなかった。
枕元にはスマホがある。MEDESが入った、今の俺にとって命綱でもあり、呪いみたいなものでもある端末だ。手を伸ばせば届く場所に置いてある。眠る時くらい手放したいと思ったことはあるが、実際には手放せなかった。あれを失えば俺は消える。契約している全員も消える。その事実を知ったあとで、完全に無防備に眠れるほど、俺の神経は太くない。
気配は、少しずつ近づいてきた。
布が擦れるような小さな音がした。踏み込む位置に迷いがある。斬り込むための動きではない。だが、観察するための距離としては近い。俺の呼吸、手の位置、スマホまでの距離。そういうものを、相手が測っている気がした。
そこで、俺は目を開けた。
薄暗い部屋の中、ベッド脇に立っていたのはエリスだった。
返したばかりの剣は腰にある。抜いてはいない。だが、いつでも手を伸ばせる位置にある。赤い髪は夜の影の中でも目立ち、瞳は眠気など少しも宿していなかった。彼女は俺が目を開けた瞬間、驚いたように眉を動かしたが、退くことはしなかった。
「……斬る気か?」
寝起きの声は、自分でも思ったより低く出た。
エリスは少しだけ目を細める。
「起きてたの?」
「今起きた」
「気づくのは早いのね」
「さすがに、ベッドの横まで来られたらな」
俺は身体を起こした。すぐにスマホを掴むことはしない。掴める位置にあると確認するだけに留める。エリスの目が、その動きを追った。彼女は俺の手元とスマホを見て、それから腰の剣に軽く指を添える。
「……スマホは手放さないのね」
「手放せるなら、そうしたいところだけどな」
「剣みたいなもの?」
「俺にとっては、それより厄介かもしれない」
エリスは何か言いかけて、やめた。
少し前の彼女なら、契約体を管理する道具だと切り捨てたかもしれない。だが、今はそうしなかった。俺がスマホを握る理由が、ただ命令するためだけではないと、少しは理解したのだろう。少なくとも、彼女自身が剣を手放すと落ち着かないように、俺もこれを手元から離せない。
エリスはベッドの脇から少しだけ離れた位置に立ったまま、こちらを見ている。
「何をしてた」
「見てただけ」
「寝顔を?」
「馬鹿。隙を見てたのよ」
彼女は即座に言い返した。顔を赤くするわけでも、慌てるわけでもない。ただ、馬鹿なことを言うなと本気で思っている顔だった。
「隙?」
「あんたが、守るべき相手なのか確かめてた」
その言葉で、眠気が少し引いた。
エリスは俺を信じていない。夢主と呼ばれようが、契約欄に名前が登録されようが、彼女にとって俺はまだ見極めるべき相手だ。前のマスターのように、剣を娯楽にする主なのか。命令で縛る主なのか。それとも、まったく違う何かなのか。彼女はまだ答えを出していない。
だから、夜中に部屋へ来た。
斬るためではなく、守る対象として成り立つのかを確かめるために。
「……なるほど」
そう返すと、エリスが眉を寄せた。
「怒らないの?」
「斬りに来たわけじゃないんだろ」
「斬る気なら、もっと近づいてるわ」
「それは怖いな」
「怖がってるように見えない」
「怖いとは思ってる。ただ、確認しに来たなら、理由は分からなくもない」
エリスは納得できないという顔をした。
普通なら、ここで怒るべきなのかもしれない。夜中に部屋へ忍び込んだ相手に対して、何をしていると強く言うべきなのかもしれない。だが、エリスが本気で俺を害するつもりなら、俺が目を開ける前に終わっていた。少なくとも今の距離なら、彼女にはそれができる。
それをしなかった時点で、これは確認だった。
危険かどうかを見ているのはこちらだけではない。エリスもまた、俺を測っている。
「あんた、変よ」
「よく言われる」
「普通、自分のベッドに剣士が近づいたら、もっと警戒するでしょ」
「してる」
「してるように見えない」
「見せてないだけだ」
「……そういうところも変」
エリスは腕を組んだ。剣に触れていた指は離れている。警戒はしているが、すぐに斬る姿勢ではない。
「守るべき相手か確かめるって言ったな」
「ええ」
「それは命令じゃなく、お前が決めることだ」
「契約してるのに?」
「契約してても、決められることはある」
「守れって命令すればいいじゃない」
「命令で守らせても、お前の剣はまた歪むだろ」
エリスの表情が止まった。
二回戦で、彼女の剣が歪んだ瞬間を思い出したのだと思う。前のマスターの声が入った時だけ、エリスの剣は彼女自身のものではなくなった。バーゲストが斬ったのは、エリスではなく、その命令だった。
俺が同じことをすれば、エリスはまた同じ場所に戻る。
「……嫌な言い方」
「事実だろ」
「そうだけど」
エリスは目を逸らす。けれど、すぐに戻ってきた。逃げるためではなく、考えるために逸らしただけだった。
「あんたは弱いわ」
「否定しない」
「バーゲストやデルタたちがいなかったら、すぐ死ぬ」
「そうだな」
「なのに、守れって命令しない」
「命令した方が楽だとは思う」
「なら、どうしてしないのよ」
「楽なやり方が、正しいとは限らないからだ」
エリスは深く息を吐いた。呆れている。苛立ってもいる。だが、その奥にあるものは、前のマスターへ向けた冷えた嫌悪ではなかった。
「本当に面倒くさい主ね」
「それもよく言われる」
「でも」
「でも?」
「嫌いじゃないわ。そういうところ」
その言葉は、以前より少しだけ自然に出たように聞こえた。
信頼ではない。忠誠でもない。好意と呼ぶにもまだ早い。だが、拒絶ではなかった。分からないから見ている。理解できないから近づいた。そういう、エリスらしい距離の詰め方だった。
「そうか」
「まだ守るって決めたわけじゃない」
「分かってる」
「分かってるって顔で、全部流すのやめなさいよ」
「流してるわけじゃない」
「なら何?」
「待ってる」
エリスが黙る。
「お前が決めるまで、待ってるだけだ」
「……本当に変」
彼女はそう言って、部屋を出ようとした。扉の前で一度立ち止まり、こちらを振り返る。剣に手はかけていない。ただ、すぐ動ける位置にいる。
「戻らないのか」
「少し外にいるだけ」
「見張りか?」
「違うわ」
「そうか」
「……決めるまで見てるだけ」
「なら、好きにしろ」
エリスはまた呆れたような顔をする。
「本当にそれでいいの?」
「決めるまで見るんだろ」
「そうだけど」
「なら、邪魔はしない」
「隙だらけのくせに、余裕ぶらないで」
「余裕はない。眠いだけだ」
「寝れば。隙だらけだけど」
「そこは任せる」
「任せるとか言わないで」
「悪い」
エリスは小さく息を吐いた。怒っているようで、完全には怒っていない。自分が何をしに来たのか、自分でもまだ整理しきれていないのかもしれない。守るべきかどうかを確かめると言いながら、部屋の前に残ろうとしている時点で、もう答えの一部は出ているようにも見える。
だが、それを俺が言うべきではない。
言えば、彼女はきっと反発する。
「おやすみ、エリス」
「……まだ、守るとは言ってないから」
「ああ」
「本当に分かってるの?」
「分かってる」
「分かってない顔よ」
「寝起きだからな」
「もういいわ。寝なさい」
俺は苦笑して、再び横になった。
扉が静かに閉まる。だが、エリスの気配は離れなかった。部屋のすぐ外、誰かが近づけばすぐ反応できる位置にいる。見張りではないと言ったくせに、やっていることはほとんど見張りだった。
少しして、廊下の向こうに別の気配が現れる。バーゲストだろう。短い声が、扉越しにかすかに聞こえた。
「見ていたの?」
「少しだけ」
「止めなかったのね」
「あなたに斬る気はありませんでした」
「分かるの?」
「剣士ですから」
エリスが黙る気配がした。
「答えは出ましたか」
「まだよ」
「なら、見ていればいい」
「夢主と同じこと言うのね」
「彼の主としての在り方は、そういうものです」
「……だから、あんたはあいつのために剣を振れるの?」
「理由の一つではあります」
その先の声は、小さくなって聞こえなくなった。
俺は目を閉じる。エリスが部屋の前にいるという状況は、普通に考えれば落ち着かないはずだった。だが、不思議と眠りはさっきより近かった。彼女がまだ俺を信じていないことは分かっている。守ると決めていないことも分かっている。
それでも、彼女は離れなかった。
命令ではない。
契約の強制でもない。
エリスが自分で決めるまで見ていると決め、その結果として、今はそこに立っている。
それだけで十分だった。
眠りに落ちる直前、扉の向こうから小さな声がした。
「隙だらけのくせに、変な主」