※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

60 / 89
剣士の夜

 眠りが浅くなった理由は、最初から分かっていた。

 

 部屋の中に、誰かの気配がある。

 

 それは殺気と呼ぶほど鋭くはなかった。だが、無害な気配とも言い切れない。足音はほとんどないのに、空気の重さだけが少し変わっている。目を閉じたままでも、誰かが扉の近くに立ち、こちらを見ているのが分かった。

 

 俺はすぐには動かなかった。

 

 枕元にはスマホがある。MEDESが入った、今の俺にとって命綱でもあり、呪いみたいなものでもある端末だ。手を伸ばせば届く場所に置いてある。眠る時くらい手放したいと思ったことはあるが、実際には手放せなかった。あれを失えば俺は消える。契約している全員も消える。その事実を知ったあとで、完全に無防備に眠れるほど、俺の神経は太くない。

 

 気配は、少しずつ近づいてきた。

 

 布が擦れるような小さな音がした。踏み込む位置に迷いがある。斬り込むための動きではない。だが、観察するための距離としては近い。俺の呼吸、手の位置、スマホまでの距離。そういうものを、相手が測っている気がした。

 

 そこで、俺は目を開けた。

 

 薄暗い部屋の中、ベッド脇に立っていたのはエリスだった。

 

 返したばかりの剣は腰にある。抜いてはいない。だが、いつでも手を伸ばせる位置にある。赤い髪は夜の影の中でも目立ち、瞳は眠気など少しも宿していなかった。彼女は俺が目を開けた瞬間、驚いたように眉を動かしたが、退くことはしなかった。

 

「……斬る気か?」

 

 寝起きの声は、自分でも思ったより低く出た。

 

 エリスは少しだけ目を細める。

 

「起きてたの?」

 

「今起きた」

 

「気づくのは早いのね」

 

「さすがに、ベッドの横まで来られたらな」

 

 俺は身体を起こした。すぐにスマホを掴むことはしない。掴める位置にあると確認するだけに留める。エリスの目が、その動きを追った。彼女は俺の手元とスマホを見て、それから腰の剣に軽く指を添える。

 

「……スマホは手放さないのね」

 

「手放せるなら、そうしたいところだけどな」

 

「剣みたいなもの?」

 

「俺にとっては、それより厄介かもしれない」

 

 エリスは何か言いかけて、やめた。

 

 少し前の彼女なら、契約体を管理する道具だと切り捨てたかもしれない。だが、今はそうしなかった。俺がスマホを握る理由が、ただ命令するためだけではないと、少しは理解したのだろう。少なくとも、彼女自身が剣を手放すと落ち着かないように、俺もこれを手元から離せない。

 

 エリスはベッドの脇から少しだけ離れた位置に立ったまま、こちらを見ている。

 

「何をしてた」

 

「見てただけ」

 

「寝顔を?」

 

「馬鹿。隙を見てたのよ」

 

 彼女は即座に言い返した。顔を赤くするわけでも、慌てるわけでもない。ただ、馬鹿なことを言うなと本気で思っている顔だった。

 

「隙?」

 

「あんたが、守るべき相手なのか確かめてた」

 

 その言葉で、眠気が少し引いた。

 

 エリスは俺を信じていない。夢主と呼ばれようが、契約欄に名前が登録されようが、彼女にとって俺はまだ見極めるべき相手だ。前のマスターのように、剣を娯楽にする主なのか。命令で縛る主なのか。それとも、まったく違う何かなのか。彼女はまだ答えを出していない。

 

 だから、夜中に部屋へ来た。

 

 斬るためではなく、守る対象として成り立つのかを確かめるために。

 

「……なるほど」

 

 そう返すと、エリスが眉を寄せた。

 

「怒らないの?」

 

「斬りに来たわけじゃないんだろ」

 

「斬る気なら、もっと近づいてるわ」

 

「それは怖いな」

 

「怖がってるように見えない」

 

「怖いとは思ってる。ただ、確認しに来たなら、理由は分からなくもない」

 

 エリスは納得できないという顔をした。

 

 普通なら、ここで怒るべきなのかもしれない。夜中に部屋へ忍び込んだ相手に対して、何をしていると強く言うべきなのかもしれない。だが、エリスが本気で俺を害するつもりなら、俺が目を開ける前に終わっていた。少なくとも今の距離なら、彼女にはそれができる。

 

 それをしなかった時点で、これは確認だった。

 

 危険かどうかを見ているのはこちらだけではない。エリスもまた、俺を測っている。

 

「あんた、変よ」

 

「よく言われる」

 

「普通、自分のベッドに剣士が近づいたら、もっと警戒するでしょ」

 

「してる」

 

「してるように見えない」

 

「見せてないだけだ」

 

「……そういうところも変」

 

 エリスは腕を組んだ。剣に触れていた指は離れている。警戒はしているが、すぐに斬る姿勢ではない。

 

「守るべき相手か確かめるって言ったな」

 

「ええ」

 

「それは命令じゃなく、お前が決めることだ」

 

「契約してるのに?」

 

「契約してても、決められることはある」

 

「守れって命令すればいいじゃない」

 

「命令で守らせても、お前の剣はまた歪むだろ」

 

 エリスの表情が止まった。

 

 二回戦で、彼女の剣が歪んだ瞬間を思い出したのだと思う。前のマスターの声が入った時だけ、エリスの剣は彼女自身のものではなくなった。バーゲストが斬ったのは、エリスではなく、その命令だった。

 

 俺が同じことをすれば、エリスはまた同じ場所に戻る。

 

「……嫌な言い方」

 

「事実だろ」

 

「そうだけど」

 

 エリスは目を逸らす。けれど、すぐに戻ってきた。逃げるためではなく、考えるために逸らしただけだった。

 

「あんたは弱いわ」

 

「否定しない」

 

「バーゲストやデルタたちがいなかったら、すぐ死ぬ」

 

「そうだな」

 

「なのに、守れって命令しない」

 

「命令した方が楽だとは思う」

 

「なら、どうしてしないのよ」

 

「楽なやり方が、正しいとは限らないからだ」

 

 エリスは深く息を吐いた。呆れている。苛立ってもいる。だが、その奥にあるものは、前のマスターへ向けた冷えた嫌悪ではなかった。

 

「本当に面倒くさい主ね」

 

「それもよく言われる」

 

「でも」

 

「でも?」

 

「嫌いじゃないわ。そういうところ」

 

 その言葉は、以前より少しだけ自然に出たように聞こえた。

 

 信頼ではない。忠誠でもない。好意と呼ぶにもまだ早い。だが、拒絶ではなかった。分からないから見ている。理解できないから近づいた。そういう、エリスらしい距離の詰め方だった。

 

「そうか」

 

「まだ守るって決めたわけじゃない」

 

「分かってる」

 

「分かってるって顔で、全部流すのやめなさいよ」

 

「流してるわけじゃない」

 

「なら何?」

 

「待ってる」

 

 エリスが黙る。

 

「お前が決めるまで、待ってるだけだ」

 

「……本当に変」

 

 彼女はそう言って、部屋を出ようとした。扉の前で一度立ち止まり、こちらを振り返る。剣に手はかけていない。ただ、すぐ動ける位置にいる。

 

「戻らないのか」

 

「少し外にいるだけ」

 

「見張りか?」

 

「違うわ」

 

「そうか」

 

「……決めるまで見てるだけ」

 

「なら、好きにしろ」

 

 エリスはまた呆れたような顔をする。

 

「本当にそれでいいの?」

 

「決めるまで見るんだろ」

 

「そうだけど」

 

「なら、邪魔はしない」

 

「隙だらけのくせに、余裕ぶらないで」

 

「余裕はない。眠いだけだ」

 

「寝れば。隙だらけだけど」

 

「そこは任せる」

 

「任せるとか言わないで」

 

「悪い」

 

 エリスは小さく息を吐いた。怒っているようで、完全には怒っていない。自分が何をしに来たのか、自分でもまだ整理しきれていないのかもしれない。守るべきかどうかを確かめると言いながら、部屋の前に残ろうとしている時点で、もう答えの一部は出ているようにも見える。

 

 だが、それを俺が言うべきではない。

 

 言えば、彼女はきっと反発する。

 

「おやすみ、エリス」

 

「……まだ、守るとは言ってないから」

 

「ああ」

 

「本当に分かってるの?」

 

「分かってる」

 

「分かってない顔よ」

 

「寝起きだからな」

 

「もういいわ。寝なさい」

 

 俺は苦笑して、再び横になった。

 

 扉が静かに閉まる。だが、エリスの気配は離れなかった。部屋のすぐ外、誰かが近づけばすぐ反応できる位置にいる。見張りではないと言ったくせに、やっていることはほとんど見張りだった。

 

 少しして、廊下の向こうに別の気配が現れる。バーゲストだろう。短い声が、扉越しにかすかに聞こえた。

 

「見ていたの?」

 

「少しだけ」

 

「止めなかったのね」

 

「あなたに斬る気はありませんでした」

 

「分かるの?」

 

「剣士ですから」

 

 エリスが黙る気配がした。

 

「答えは出ましたか」

 

「まだよ」

 

「なら、見ていればいい」

 

「夢主と同じこと言うのね」

 

「彼の主としての在り方は、そういうものです」

 

「……だから、あんたはあいつのために剣を振れるの?」

 

「理由の一つではあります」

 

 その先の声は、小さくなって聞こえなくなった。

 

 俺は目を閉じる。エリスが部屋の前にいるという状況は、普通に考えれば落ち着かないはずだった。だが、不思議と眠りはさっきより近かった。彼女がまだ俺を信じていないことは分かっている。守ると決めていないことも分かっている。

 

 それでも、彼女は離れなかった。

 

 命令ではない。

 

 契約の強制でもない。

 

 エリスが自分で決めるまで見ていると決め、その結果として、今はそこに立っている。

 

 それだけで十分だった。

 

 眠りに落ちる直前、扉の向こうから小さな声がした。

 

「隙だらけのくせに、変な主」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。