スマホが震えたのは、夜が明けるにはまだ早い時間だった。
エリスが俺の部屋の前から離れずにいた夜が過ぎ、ようやく空気が少し落ち着いたと思った矢先のことだ。浅い眠りから身体を起こすと、枕元に置いていたスマホの画面が、勝手に黒い光を放っている。
嫌な予感は、もう慣れたくないほど慣れていた。
俺は画面を見る。
――THIRD MATCH:READY
――RECOMMENDED UNIT:MUJINA
――FIELD SHIFT:ACTIVE
「次は、ムジナか」
名前を呼ぶと、部屋の隅でだらしなく座っていたムジナが、少しだけ顔を上げた。眠そうな目をしているのに、その奥だけは妙に冷めている。いつものように面倒そうな表情を浮かべながら、彼女は肩をすくめた。
「私? へえ……今回はそういう感じなんだ」
「デルタじゃないです?」
デルタが不満げに耳を動かす。自分が選ばれなかったことが気に入らないらしい。バーゲストは画面を見て、静かに考えるように目を細めた。
「推奨ユニットが指定される以上、何らかの適性があるのでしょう」
エリスは腕を組んだまま、ムジナを見る。まだこの陣営に馴染んだとは言い難いが、昨夜よりは少しだけ空気に混じっている。
「ムジナって、どう戦うの?」
「んー……面倒なことを、面倒なまま相手に返す感じ?」
「分かりにくいわね」
「だいたい合ってるから」
ムジナは気にした様子もなく言った。ルプスレギナは笑い、壌竜は床へ視線を落とす。今回の試合が単純な殴り合いではないことを、全員が薄く察していた。
スマホの表示が切り替わる。
――TRANSFER START
視界が白く反転した。
次に足裏へ返ってきた感触は、冷たい床だった。
そこは、長い廊下だった。
白い壁がどこまでも続いている。ところどころ塗装は剥がれ、壁の下には古い車椅子が倒れていた。天井の蛍光灯は何本も割れ、残ったものだけが不規則に点滅している。ジジッ、ジジッ、という音が、妙に広く響いた。
空気には、薄い消毒液の匂いが残っている。
床には割れた薬瓶、汚れた包帯、倒れた点滴台。病室の扉は半開きで、カーテンが風もないのにわずかに揺れている。窓ガラスの外には夜が広がっていたが、その向こうには雨ではなく、黒いノイズのようなものが降っていた。
ここは、戦うための場所ではない。
元は誰かを助ける場所だったはずだ。病室も、廊下も、車椅子も、点滴台も、その名残を残している。それなのに、今はMEDESによって戦場に変えられている。その事実が、いつものフィールドよりもずっと悪趣味に感じた。
「うわ……趣味悪い」
ムジナが最初にそう言った。
「病院跡か」
「うふふー。こういう場所を戦場にするなんて、なかなか悪趣味ですねぇ」
ルプスレギナの声は軽いが、その目は廊下の奥を見ている。デルタは鼻をひくつかせ、バーゲストは周囲の構造を確認していた。
「廊下での戦闘は逃げ場が限られます。盾や障壁を使う相手なら厄介です」
「足場は悪くない。でも、視界が通りすぎるわね」
エリスが言う。剣士らしい判断だ。長い廊下は直線的で、正面からの攻防には向く。だが、その分だけ、隠れる場所も逃げる場所も限られている。
「ムジナ、どう見る?」
「派手に壊すより、通路とか部屋とか、そういうのを使う方が向いてる場所。相手を直接叩くより、動ける場所をずらした方が楽かも」
「戦場そのものを読む相手に向いた場所か」
壌竜が低く呟く。
「嫌だけどね。病院って、もっと静かでいい場所でしょ」
ムジナの声には、いつもの気だるさがあった。だが、それだけではない。病院跡を戦場にされたことへの、薄い不快感が混じっているように聞こえた。
その時、廊下の奥に人影が見えた。
俺たちは足を止める。
長い廊下の先、半開きの病室の前に、一人の少女が立っていた。長い髪。沈んだ表情。こちらを見ている瞳には敵意よりも、ためらいの方が強い。
その周囲に、小さな光が揺れていた。
花弁のような、六つの光。
「……来たんですね」
少女は静かに言った。
「君が、今回の相手か」
「はい。井上織姫です」
井上織姫。
名乗った声は柔らかかった。けれど、本来の明るさを押し殺したような重さがある。戦場に立つ者の声ではあるが、戦うことを望んでいる声ではない。
ムジナが少し目を細める。
「……井上織姫」
「剣は持ってないのね」
エリスが言うと、バーゲストは織姫の周囲に浮かぶ六つの光を見た。
「ですが、周囲の光は武装に近いものです」
「うふふー。可愛い光ですねぇ。でも、嫌な感じがします」
ルプスレギナが笑いながらも、いつものように踏み込みすぎない。ムジナは織姫をじっと見ていた。
「嫌な感じっていうより……変な感じ」
「変?」
「敵意が薄い。こっちを倒したいって感じがしない」
その言葉に、織姫はわずかに目を伏せた。
「ごめんなさい。私は、できれば戦いたくありません」
デルタが首を傾げる。
「戦いたくない敵です?」
エリスは眉を寄せた。
「じゃあ、何で立ってるのよ」
織姫はすぐには答えなかった。唇を軽く結び、何かを飲み込むようにしてから、静かに言う。
「……守らなきゃいけないんです」
その言葉だけで、事情の全ては分からない。
だが、彼女がただ命令されて立っているだけではないことは分かった。戦いたくない。傷つけたくない。それでも下がれない。そんな矛盾を抱えた立ち方だった。
「誰を、とは聞かない方がいいか」
俺が言うと、織姫は申し訳なさそうに目を伏せた。
「すみません」
ムジナが小さく息を吐く。
「やっぱり変。この子、敵って顔してない」
その時、廊下の奥から別の声が響いた。
「余計なことを言うな」
男の声だった。
姿はまだはっきり見えない。織姫の背後、病室の影のさらに奥から、冷たい声だけが届く。織姫の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「……はい」
「構えろ。相手は敵だ」
「でも」
「盾を張れ」
短い命令だった。
事情は分からない。関係も分からない。だが、その声には相手の気持ちを聞く余地がない。必要な指示だけを、冷たく落とす声だった。
織姫は一瞬だけ唇を噛む。
だが、逆らわなかった。
「……はい」
彼女の周囲に浮かんでいた六つの光が、静かに広がった。花弁のような光が連なり、廊下を塞ぐように前へ出る。
「三天結盾」
光の盾が、俺たちと織姫の間に展開された。
それは、ただの盾には見えなかった。壁のように受け止めるものではない。こちらの動きそのものが、その境界の前で拒まれるような感覚がある。
デルタが低く唸る。
「盾です?」
「ただの盾ではありません。空間ごと拒まれているような感覚です」
バーゲストが警戒を強める。壌竜も床へ手を伸ばし、目を細めた。
「地面の流れが、盾の前で途切れている」
ムジナはじっと光の盾を見ていた。
「治すとか、防ぐとか……いや、違う。これ、拒んでる?」
「拒む?」
「うん。壊れたことも、届くことも、なかったことにするみたいな感じ」
織姫は盾の向こうで、こちらを見ていた。
敵意はない。
だが、盾は確かにそこにある。
「お願いです。できるなら、ここで止まってください」
「止まれば、この試合は終わるのか?」
俺が尋ねると、織姫は答えなかった。答えられないのだと、すぐに分かった。
背後から、また男の声が飛ぶ。
「返事をするな。構えを維持しろ」
「……はい」
織姫の声は小さかった。
エリスが低く言う。
「嫌な言い方ね」
「うふふー。ご主人様とは正反対ですねぇ」
ルプスレギナの言葉に、俺は何も返さなかった。返せるほど、目の前の構図は軽くない。
ムジナが、面倒そうに頭を掻く。
「……あー、これ面倒なやつだ」
「ムジナ」
「分かってる。この子、本当に戦いたいわけじゃないんだ」
彼女は織姫を見たまま言った。
廊下の奥に立つ少女は、敵としてこちらの前にいる。けれど、その立ち方には殺意がない。攻撃するためではなく、守るために立っている。傷つけるためではなく、止めるために盾を張っている。
だからこそ、厄介だった。
ただ倒せばいい相手ではない。攻撃すれば、彼女は防ぐ。傷つければ、きっと治す。無理に突破しようとすれば、その拒絶の力が立ちはだかる。
「でも、逃げる気もなさそう」
ムジナが続ける。
「守るものがある者の立ち方です」
バーゲストが言った。
「戦いたくないなら下がればいいのに」
エリスの言葉は乱暴だったが、責めているというより理解できないという響きだった。ムジナは織姫から目を離さずに答える。
「たぶん、それができたらここにいないんだよ」
俺はスマホを握り直した。
三回戦。推奨ユニットはムジナ。舞台は廃病院。相手は井上織姫。
傷を癒やし、攻撃を拒み、それでも戦うことを望まない少女。
廊下の奥で、男の声がまた響く。
「近づけるな。必要なら攻撃しろ」
「……はい」
織姫の周囲の光が揺れる。盾だけではなく、別の花弁が前へ出る。だが、その表情は少しも攻撃的ではなかった。
ムジナが小さく呟く。
「……やっぱり、戦いたい顔じゃない」
「第三試合、開始だな」
「うん」
ムジナはゆっくりと前に出る。いつものように気だるげで、どこか面倒くさそうだ。だが、その目はもう織姫の盾から逸れていない。
「じゃあ、まずはあの盾がどこまで拒むのか見ようか」
こうして、三回戦は始まった。
壊すためではなく、戦わされている形そのものをずらすために。