光の盾は、廊下を塞ぐように立っていた。
白い病院跡の廊下に浮かぶ、花弁のような光。その向こうに、井上織姫がいる。敵として立っているはずなのに、こちらを見る目に殺意はない。むしろ、これ以上近づかないでほしいと願うような表情だった。
「お願いです。これ以上、近づかないでください」
織姫の声は柔らかい。だが、光の盾は一切揺らがない。戦いたくないと口にしているのに、退く気配もない。その矛盾が、この廃病院の空気よりもずっと重く感じた。
廊下の奥から、冷たい男の声が響く。
「構えを崩すな。相手の動きを見ろ」
「……はい」
織姫は小さく返事をする。その声には納得よりも、耐えている響きがあった。
ムジナは一歩前に出て、光の盾を眺める。いつものように気だるげだが、目だけは廊下の奥をきちんと見ていた。
「近づかないで、か。攻撃してこいじゃないんだ」
「やっぱり、戦いたいわけじゃないか」
「うん。でも、退く気もない。面倒だね」
デルタが不満そうに耳を動かす。
「盾なら壊せばいいです」
「待ちなさい。あれは単純な盾ではありません」
バーゲストが即座に止めた。エリスも剣に手をかけながら、光の盾を睨む。
「なら、どうするの?」
「まずは、どこまで拒むのか見る」
ムジナはそう言うと、周囲を見回した。床に転がる点滴台、割れた薬瓶、半開きの病室の扉、ひび割れた壁。戦うための武器ではないものばかりだ。だが、ムジナはそういうものを扱う方が似合っている。
「じゃあ、軽く」
倒れていた点滴台が、見えない力に押されるように廊下を滑った。金属の脚が床を擦り、嫌な音を立てながら光の盾へ向かう。
織姫は盾を維持したまま、目を伏せる。
点滴台が光へ触れる。
だが、衝突音はしなかった。
金属が弾かれたわけでも、砕かれたわけでもない。点滴台は盾の前で急に勢いを失い、まるでそこまで進んだ事実そのものが認められなかったように、力なく床へ倒れた。
ムジナの目が細くなる。
「……弾いたんじゃない」
「止めたのか?」
「止めたっていうより、進んだことを拒んだ感じ」
俺の問いに、ムジナはそう答えた。
織姫は何も言わない。ただ、盾を張ったまま立っている。敵マスターの声が再び飛ぶ。
「そのまま維持しろ」
「はい」
バーゲストが低く言う。
「物理的な防御とは異なるようですね」
壌竜も床に指を触れ、眉を寄せた。
「地面の流れも、盾の前で切れている。力がぶつかっているのではない。途切れさせられている」
「やっぱり変。盾っていうより、境界だね」
ムジナは軽く手を振った。
今度は病室の扉が動く。半開きだった扉が軋みながら開き、その隙間からカーテンが流れるように廊下へ伸びた。床のガラス片がいくつも浮き、別々の方向から織姫の盾へ向かう。
直接織姫を狙ってはいない。
盾の範囲、反応速度、どこまでを拒むのか。それを確かめるための動きだった。
織姫の周囲の光が揺れる。
「三天結盾」
光の盾が角度を変えた。
ガラス片は盾へ触れる直前で力を失い、カーテンは押し戻されるのではなく、その先へ進む意味を失ったように落ちる。扉の動きさえ、盾の前では不自然に止まった。
「うわ、器用」
ムジナが呟く。
「攻撃してこないのに、厄介ね」
エリスの声には苛立ちが混じっていた。斬るべき相手が明確なら、彼女は迷わない。だが、目の前の少女は攻撃してこない。守るだけで、こちらの動きを封じてくる。
「避けるのも壊すのも難しいです」
デルタも唸る。正面から噛み砕くことを得意とするデルタにとって、届く前に拒まれる盾は相性が悪いのだろう。
「うふふー。守ることに関しては、かなり本気ですねぇ」
ルプスレギナの笑みは軽い。けれど、その目は織姫の動きを見逃していなかった。
「ムジナ、何か分かったか?」
「壊そうとしても、届かない。押し込もうとしても、進めない。たぶん、盾の前に来たものを“なかったこと”に近い形で拒んでる」
「ならば、強引な突破は危険です」
バーゲストの言葉に、ムジナは頷く。
「だね。力押しだと、こっちが疲れるだけかも」
その時、廊下の奥から敵マスターの声が強く響いた。
「防ぐだけでは終わらない。攻撃しろ」
織姫の表情がわずかに沈む。
「……でも、まだ」
「迷うな。相手は敵だ」
「……はい」
織姫の周囲で、盾とは別の光が前へ出ようとした。攻撃のための花弁なのだろう。だが、その動きは一瞬だけ止まった。
ムジナが小さく声を漏らす。
「……あ」
「どうした」
「今、動きが止まった」
エリスが鋭く反応する。
「命令された瞬間?」
バーゲストは静かに織姫を見る。
「二回戦の時と似ていますね。ただし、今回は剣ではなく、意志そのものが止まっている」
俺もそれを感じた。
エリスの時は、命令が剣筋を歪ませた。今の織姫は、命令された瞬間に身体ではなく心が一度止まる。戦いたくないという意思と、従わなければならない理由。その二つが、同じ場所でぶつかっているように見えた。
「私は……」
「やれ」
敵マスターの声が重なる。
織姫は唇を噛み、光を放った。
だが、その光は俺たちを直接狙わなかった。廊下の床へ落ち、割れたタイルを跳ね上げる。白い破片が舞い、こちらの進路を塞ぐように散らばった。
「やっぱり。傷つける気がない」
「攻撃じゃなくて、足止めか」
織姫は盾の向こうで、苦しそうに目を伏せる。
「ごめんなさい……」
エリスが眉を寄せる。
「謝るくらいなら撃たなきゃいいのに」
「それができないから、ああなってるんでしょ」
ムジナの声は淡々としていた。だが、いつもの投げやりな軽さとは少し違う。目の前の矛盾を面倒だと思いながら、それでも見過ごせないような響きがあった。
ムジナは次の動きに入った。
今度は廊下全体がざわめく。左右の病室の扉が一斉に開き、カーテンが風もないのに大きく揺れる。床に落ちていた瓦礫がいくつも浮き、織姫の側だけではなく、俺たちの側にも飛び散るような軌道を描いた。
織姫が目を見開く。
「三天結盾!」
光の盾が複数の方向へ展開される。
こちらに飛んでくる破片も、織姫自身へ向かう瓦礫も、すべて拒絶された。盾は彼女だけを守ったわけではない。俺たちが傷つく可能性まで、まとめて拒んだ。
ムジナがわずかに口元を歪める。
「自分の方だけ守ればいいのに」
「こっちに飛ぶ破片まで止めたな」
「うん。本当に傷つけたくないんだ」
バーゲストが頷いた。
「敵味方の区別より、傷つくことそのものを避けているようです」
「うふふー。優しい子ですねぇ。こういうゲームには向いてなさそうです」
ルプスレギナが笑う。けれど、その言葉には珍しく嘲りだけではない響きがあった。
壌竜が低く呟く。
「向いていない者ほど、巻き込まれる。そういう仕組みなのだろう」
「……ほんと、趣味悪い」
ムジナは手を止めた。
織姫は盾を張ったまま、息を整えている。疲労が見える。だが、彼女は退かない。こちらを倒すためではなく、戦いがこれ以上ひどくならないように、必死に全員を止めている。
「盾は崩せそうか?」
俺が聞くと、ムジナは面倒そうに息を吐いた。
「正面からは面倒。あれ、強いよ」
「デルタでも壊せないです?」
「壊せるかどうかじゃなくて、壊すっていう行為が届く前に拒まれる感じ。相性が悪い」
エリスが剣の柄に触れる。
「なら、盾を使う前に詰める?」
「それも危険です。彼女は攻撃を望んでいませんが、防御反応は速い」
バーゲストの分析は冷静だった。
ムジナは織姫を見たまま、ぽつりと言う。
「それに、この子を倒したら勝ちって感じでもない」
「どういう意味だ」
「あの子、守ってる。私たちから自分を守ってるんじゃなくて、戦いがこれ以上悪くならないように守ってる」
織姫は何も言わない。
だが、その沈黙が答えに見えた。
「だから、盾が強いんじゃなくて、守る気持ちが強すぎて厄介なんだと思う」
廊下の奥から、苛立ちを含んだ声が飛ぶ。
「何をしている。防御だけでは勝てない」
織姫の肩が小さく揺れた。
「でも、傷つけたら……」
「勝たなければ意味がない」
その声には焦りが混じっていた。
事情は分からない。なぜそこまで勝たなければならないのか、なぜ織姫が逆らいきれないのかも分からない。だが、ただ相手を支配して楽しんでいる声ではない。冷たさの奥に、何か切羽詰まったものがある。
「命令だ。次は止めるだけで済ませるな」
織姫は顔を伏せる。
「……」
「嫌な命令だな」
俺が言うと、エリスが短く同意する。
「本当にね」
バーゲストは織姫の姿を見据えたまま言う。
「しかし、彼女は完全に拒んでいるわけでもありません」
「見捨てられない理由があるんだろうね。まだ分からないけど」
ムジナは廊下の奥へ視線を向けた。
「今はそこまで踏み込めないか」
「うん。まずは、あの盾と命令の間にあるズレを見た方がいい」
ムジナは織姫を見た。その背後にいる敵マスターの声も、見えない距離も、まとめて見ているようだった。
「この子を倒すより、守らせてる形をずらした方が早いかも」
「分断か?」
「まだそこまではしない。いきなりやると、あの子が余計に固くなる」
「まずは、盾の反応と命令への反応を見極めるべきですね」
バーゲストが言うと、ムジナは軽く頷いた。
「そういうこと。面倒だけど、こういう相手は壊すより、少しずつズラす方がいい」
「まどろっこしいわね」
エリスが言うと、ムジナは肩をすくめた。
「剣で斬れるなら楽なんだけどね」
「斬れないの?」
「斬る相手を間違えたら、余計に面倒になるやつ」
俺はスマホを握り直した。
「ムジナに任せる」
「はいはい。じゃあ、もう少しだけ嫌な戦い方をするよ」
ムジナは再び前へ出る。
織姫は盾を張ったまま、こちらを見ていた。敵意はない。けれど、退かない。背後の声に逆らいきれず、それでもこちらを傷つけないようにしている。
ムジナはその矛盾を見て、少しだけ目を細めた。
「戦いたくないなら、戦わなくていい形にしてあげるしかないか」
「できるか?」
「できるかどうかじゃなくて、やるしかないんでしょ」
織姫が戸惑うように目を上げる。
「……?」
「ごめんね。ちょっとだけ、嫌なことするかも」
「嫌なこと……?」
「あなたを倒すためじゃないよ。あなたが守ろうとしてる形を、少し崩すため」
廊下の奥から、敵マスターの声が鋭く飛んだ。
「何を言っている。惑わされるな」
「……はい」
織姫は返事をした。
だが、その声には、ほんのわずかな揺れがあった。
ムジナが小さく呟く。
「ほら、やっぱりそこだ」
彼女が見ていたのは盾だけではなかった。
織姫の迷い。命令の硬さ。守りたいという意思と、戦わされる形のズレ。第三試合は、力で盾を壊す戦いではなくなり始めていた。