ムジナは、織姫の盾を見ていた。
いや、正確には盾そのものだけではない。盾を張る織姫の視線、肩の動き、命令が飛んだ時に一瞬だけ固まる呼吸。その全部を、面倒くさそうな顔の奥で見ていた。
「守らせてる形をずらす、か」
俺が呟くと、ムジナは軽く肩をすくめた。
「うん。あの盾を壊すのは面倒だし、たぶん力押しだとこっちが消耗するだけ。だったら、盾を張る場所を間違えさせる方が早い」
「間違えさせる?」
「ううん。たぶん、あの子は間違えない」
ムジナは廊下の奥に立つ織姫を見た。
白い光の盾の向こうで、井上織姫は息を整えている。彼女は敵だ。少なくとも、MEDESの試合ではそういう扱いになっている。だが、俺たちを倒したいという顔ではなかった。傷つけたくない、止めたい、これ以上悪くしたくない。そんな感情ばかりが盾の形になっているように見える。
「だから、厄介なんだよね」
ムジナが指を鳴らす。
次の瞬間、廃病院の廊下が一斉に音を立てた。
左側の病室の扉が開く。右側では壊れたベッドの車輪が軋みながら動き出す。床に散っていたガラス片が細かく震え、天井から吊り下がっていた割れた蛍光灯が、今にも落ちそうに揺れた。
織姫の目が動く。
「三天結盾!」
光の盾が広がった。
まず、俺たちの側へ飛びそうになったガラス片が止められる。次に、織姫の背後へ倒れかけた点滴台が、光に触れる前に勢いを失う。さらに、天井から外れた蛍光灯が床へ落ちる前に、別の盾が展開されて軌道を拒んだ。
全部を守った。
俺たちも、自分自身も、背後の空間も。
ムジナは目を細める。
「ほら。選ばない」
「選ばない?」
「あの子、守る対象を切れないんだよ。敵だから守らない、とか、味方だから優先するとか、そういう区別をしてない」
ルプスレギナがくすりと笑う。
「うふふー。優しいにもほどがありますねぇ」
その軽い声に、エリスが不快そうに眉を寄せた。
「笑うことじゃないでしょ」
「笑ってますけど、馬鹿にしてるわけじゃないですよぉ。ああいう優しさは、こういう場所だと本当に厄介ですからねぇ」
バーゲストは織姫の盾の張り方を見ていた。
「盾の精度が高い。ですが、全てを守ろうとする分、負担は大きいはずです」
壌竜も低く頷く。
「流れがあちこちで断たれている。あれを何度も続ければ、いずれ乱れが出る」
廊下の奥から、敵マスターの声が飛んだ。
「何をしている。そいつらまで守る必要はない」
織姫の肩が小さく揺れた。
「でも、破片が当たったら……」
「敵だと言ったはずだ。迷うな」
「……はい」
織姫の返事は、また少し沈んだ。
俺はその声を聞いて、無意識にスマホを握る手に力を込めた。事情はまだ分からない。なぜあの男があそこまで勝ちにこだわるのか、なぜ織姫が逆らいきれないのか。それはまだ見えていない。
ただ、あの命令は嫌だった。
勝つために必要なのだとしても、相手を傷つけることに慣れろと言っているように聞こえる。
「ムジナ」
「分かってる。まだ突っ込まない」
ムジナは、今度は右手を軽く振った。
右の病室からベッドが押し出される。廊下の中央へ出たそれは、織姫の盾へ向かうのではなく、斜めに滑って敵マスターの声がした奥の病室側へ向かう。
同時に、左側の病室からカーテンが大きく舞い、俺たちの視界を遮るように広がった。さらに、床の薬瓶が数本跳ね、俺たちの足元へ転がってくる。
攻撃ではない。
だが、危険はある。
踏めば滑る。転べば傷ができる。ベッドが奥へ行けば、背後の誰かにぶつかるかもしれない。
織姫は迷わなかった。
「三天結盾!」
盾が二方向へ展開される。
薬瓶が割れる前に止められる。カーテンの動きが止まり、ベッドの進行も拒まれる。だが、その瞬間、織姫の身体がわずかに前へ傾いた。
負担がかかっている。
顔色も、さっきより少しだけ悪い。
「織姫、余計なことをするな」
敵マスターの声が鋭くなる。
「俺を守る盾だけでいい」
「でも、みなさんが……」
「敵だ」
「……」
「命令だ。守る対象を間違えるな」
織姫は唇を噛んだ。
だが、盾は消えなかった。俺たちの足元を守っていた光も、奥へ向かうベッドを止めていた光も、維持されたままだった。
エリスが低く言う。
「守る対象を間違えるな、ね。嫌な言い方」
バーゲストが静かに返す。
「彼女にとっては、傷つく可能性がある者全てが守る対象なのでしょう」
「だから、あの男の命令と噛み合わない」
エリスの声には、苛立ちがあった。
自分の剣を命令で歪められた記憶が、まだ新しいからだろう。織姫を見る目が、単なる敵を見るものではなくなっている。
ムジナは、そんなエリスの反応も横目で見ながら、廊下の先を見た。
「やっぱり、この子を直接崩すのは違うな」
「ムジナ、今ので何が見えた?」
「盾は強い。でも、盾を張る理由はもっと強い。だから、攻撃しても防がれる。こっちが傷つきそうになっても防がれる。敵マスターが危なくても防がれる」
「全部守るから、負担になる」
「うん。それで、命令されるたびに動きが固くなる。あの声が、盾の形を狭くしようとしてる。でも、織姫の方は広げようとしてる」
ムジナは軽く息を吐いた。
「正反対なんだよね。命令と本人のやりたいことが」
織姫は盾の向こうでこちらを見ていた。
何か言いたそうにしている。だが、背後の男の声を気にして、言葉にできないでいる。彼女は俺たちを傷つけたくない。それだけは、もう十分すぎるほど分かっていた。
敵マスターの声がまた響く。
「防御に徹するな。そいつらの足を止めたら、次は攻撃だ」
「……はい」
「井上。分かっているな」
その呼び方に、織姫の表情が少しだけ強張った。
「……分かっています」
事情は明かされない。
だが、その返事はただの服従ではなかった。何かを背負っている返事だった。あの声に従いたくないのに、完全には切り捨てられない。そんな重さがある。
ムジナは、また一歩だけ前に出た。
「じゃあ、もう少しだけ散らすよ」
「ムジナ」
「大丈夫。倒すためじゃない」
彼女は廊下の壁へ視線を向ける。
ひびの入った壁が軋み、そこから小さな瓦礫がいくつか落ちた。今度は織姫の盾を直接試すのではない。織姫から見て、右奥、左前、そして俺たちの斜め後ろ。三方向に、同時に小さな危険が生まれる。
織姫が息を呑む。
「三天結盾!」
盾が走る。
だが、全てを完璧に覆うには一瞬だけ遅れた。
俺たちの後ろへ落ちた瓦礫の一つが床に当たり、破片が跳ねる。その破片はバーゲストの鎧に当たって砕けた。大した傷ではない。だが、織姫の顔が苦しげに歪む。
「すみません……!」
「謝る必要はありません」
バーゲストが即座に言った。
「この程度、傷にも入りません」
それでも、織姫は痛ましいものを見るような顔をした。
敵マスターが苛立った声を出す。
「謝るな。隙になる」
「……はい」
ムジナは静かに言った。
「やっぱり、そこだ」
俺はムジナを見る。
「今のも試しか」
「うん。あの子、守れなかった場所に反応しすぎる。小さい傷でも、自分の失敗みたいに受け取る」
「それを利用するのか?」
「利用する。けど、傷つけるためじゃない」
ムジナは、織姫の背後へ視線を向けた。
「このまま全部守らせたら、あの子が先に潰れる。だから、守る場所を散らすんじゃなくて、守る理由の方を見ないと駄目」
「守る理由……」
「うん。あのマスターだけを守ってるなら話は簡単。でも違う。あの子は、私たちまで守ろうとする。なのに、マスターの命令では私たちは敵。そこにズレがある」
ムジナは少しだけ笑った。
楽しそうではない。むしろ、嫌な仕事を引き受ける前の顔だった。
「この盾、壊すより先に、向きを変えた方がいい」
織姫はムジナの言葉を聞いて、わずかに目を揺らした。
「盾の向きを……?」
「そう。あなたが何を守りたいのか、もう少しはっきりさせる」
「私は……」
「惑わされるな!」
敵マスターの声が遮った。
織姫の言葉が止まる。
ムジナは、その一瞬を見逃さなかった。
「ほら。また止まった」
エリスが奥歯を噛む。
「命令されたら止まる。見てて苛々するわ」
「自分と重なる?」
「……少しだけよ」
エリスは苦々しく言った。だが、その視線は織姫から離れない。
俺はムジナに言う。
「このまま行けるか」
「完全に分断するには、まだ早い。今やったら、あの子は意地でも全部守ろうとする」
「なら?」
「まずは、あの子に気づかせる。守ってるつもりで、自分が追い詰められてるって」
ムジナは廊下の奥へ向かって、もう一歩進んだ。
「井上織姫」
織姫が顔を上げる。
「あなたの盾、すごく強いよ。たぶん、正面から壊すのは面倒」
「……」
「でも、全部守ろうとしたら、あなたが先に壊れる」
織姫の表情が揺れた。
敵マスターの声が飛ぶ。
「聞くな。盾を維持しろ」
「……はい」
その返事は、さっきよりも細かった。
ムジナは小さく息を吐く。
「本当に面倒だね」
だが、その目はもう逃げていなかった。
廃病院の白い廊下で、光の盾がまた揺れる。
第三試合は、盾を壊す戦いではない。
織姫が守ろうとしているものを、彼女自身が見失わないようにする戦いへ変わり始めていた。