廃病院の白い廊下は、まるで夜の底に沈んだ骨みたいだった。
壁は白い。床も白い。天井の蛍光灯も、かつては白い光を落としていたのだろう。けれど今は、その全部が薄汚れ、割れ、ひび割れている。救うために作られた場所が、救われなかったものの残骸みたいに並んでいるのは、何度見ても気持ちが悪い。
その白い廊下の奥で、井上織姫は光の盾を張っていた。
盾舜六花。三天結盾。
花弁のような光が幾重にも重なり、俺たちと彼女の間に透明な境界を作っている。物理的な壁ではない。弾くのでも、受け止めるのでもない。そこに届くという事実そのものを拒むような、異様な力だった。
ムジナは、その盾を壊そうとはしなかった。
彼女はいつも通り、どこか眠そうな顔で廊下を眺めている。けれど、視線は鋭い。織姫の盾だけでなく、盾を張る指先、呼吸、敵マスターの命令で一瞬固まる肩の動きまで拾っている。
「じゃあ、もう少しだけ見せてもらうね」
「無理に突破するなよ」
俺が言うと、ムジナはひらひらと手を振った。
「分かってる。壊すんじゃなくて、見るだけ」
軽い口調だった。
けれど、その言葉の奥にあるものは軽くない。ムジナはもう、織姫を倒すことだけを考えていなかった。盾を壊すことでもない。織姫が何を守ろうとしているのか、その形を見ようとしていた。
ムジナが指を動かす。
右側の病室で、壊れたベッドが軋んだ。錆びついた車輪が床を引っ掻きながら、ゆっくりと廊下へ押し出される。同時に、左側の病室では点滴台が傾き、金属の脚が床に甲高い音を立てた。天井では割れた蛍光灯が揺れ、足元ではガラス片が俺たちの方へ滑り出す。
どれも致命的な攻撃ではない。
だが、放っておけば誰かが傷つく。
織姫の瞳が揺れた。
「三天結盾!」
光が広がった。
俺たちへ向かうガラス片が止まる。敵マスターの声がした奥の病室へ倒れかけていた点滴台も、盾に触れる前に勢いを失う。織姫自身の頭上から落ちかけた蛍光灯も、拒絶されて宙で止まり、力なく床へ転がった。
全部を守った。
敵も味方も、自分も背後も、傷つく可能性のあるものを全部。
「やっぱり、全部守る」
ムジナが呟く。
バーゲストが剣を構えたまま、静かに頷いた。
「敵味方を選んでいませんね」
「何で敵まで守るのよ」
エリスが苛立ったように言った。
その声には、単純な疑問以上のものが混じっていた。織姫を見る目が、少し前の敵を見る目とは違う。命令で動きが止まる姿を見て、自分の剣が歪められた時のことを思い出しているのかもしれない。
ムジナは肩をすくめる。
「敵って思えてないんでしょ。この子にとっては、傷つくかもしれない人、全部が対象なんだよ」
「うふふー。優しいですねぇ。こういうゲームでは、とても苦しい優しさですけどぉ」
ルプスレギナが笑う。
けれど、誰もそれを本気で茶化せなかった。織姫の優しさは綺麗だ。綺麗すぎて、MEDESという濁ったゲームの中では、白い包帯が血を吸って重くなるみたいに、本人を苦しめている。
廊下の奥から、敵マスターの声が飛んだ。
「敵まで守るな」
冷たい声だった。
けれど、冷酷そのものとは少し違う。命令の奥に焦りがある。何かを失うことを恐れているような、張り詰めた硬さがあった。
織姫は、小さく息を吸う。
「でも、破片が当たったら……」
「敵だ。倒さなければ、こちらが倒される」
「……はい」
「守る対象を間違えるな」
その言葉で、織姫の表情が曇った。
俺は思わず、奥の暗がりを見た。姿はまだ見えない。声だけがある。病室の奥に隠れた、命令する者の声。織姫を戦わせている声。
「嫌な言い方」
エリスが低く吐き捨てる。
バーゲストはその言葉を否定しなかった。
「彼女の意思と命令が噛み合っていません」
「ああ。命令が出るたびに、動きが硬くなる」
俺が言うと、ムジナは頷く。
「命令は盾の範囲を狭くしようとしてる。でも、本人は広げようとしてる」
壌竜が床に視線を落とす。
「相反する力が同じ器に入っている。長くは保たぬ」
「だから、今のうちに聞いておかないとね」
ムジナは正面から織姫を見た。
いつもの気だるさはある。けれど、その声は、さっきよりほんの少しだけ静かだった。優しくなったわけじゃない。ただ、逃げ道を塞ぐように核心へ歩いていく声だった。
「ねえ、井上織姫」
「……はい」
「あなたは本当に、誰を守りたいの?」
織姫の瞳が見開かれた。
たった一つの問いだった。
けれど、その問いは盾よりも深く届いた気がした。光の壁では拒めない場所。命令でも完全には塞げない、彼女自身の内側へ。
「え……」
「答えるな」
敵マスターの声が即座に割り込んだ。
あまりに早かった。
ムジナは薄く目を細める。
「早いね。考えられると困るの?」
「黙れ。盾を維持しろ」
「……はい」
「ほら。今、答えようとした」
「ムジナ」
俺が声をかけると、ムジナは小さく頷いた。
「分かってる。追い詰めたいわけじゃないよ。ただ、このままだとこの子、全部抱えたまま潰れる」
織姫は何かを言おうとした。
「私は……」
「井上」
名前を呼ばれただけで、彼女の声が止まった。
それは大声ではなかった。怒鳴ったわけでもない。けれど、その短い呼びかけ一つで、織姫の言葉は白い廊下に落ちる前に消えてしまった。
ムジナが呟く。
「名前を呼ばれただけで止まるんだ」
エリスは無言だった。
けれど、剣の柄を握る手に力が入っているのが見えた。怒っている。織姫にではない。たぶん、命令で言葉を奪うもの全部に。
ムジナは再び指を動かした。
今度は、攻撃ではない。
選択を迫る配置だった。
俺たちの足元へ薬瓶が転がる。敵マスターの声がする奥の病室では、外れかけた扉が嫌な音を立てて傾く。そして織姫自身の足元に、割れたガラス片が滑っていく。
三方向。
どれも小さい。放置しても致命傷にはならないかもしれない。だが、怪我はする。
織姫は迷った。
迷って、それでも盾を張った。
「三天結盾……!」
光が走る。
けれど、一瞬だけ遅れた。
俺たちの方へ転がってきた薬瓶が床に当たり、甲高い音を立てて割れる。細かな破片が跳ねた瞬間、バーゲストが一歩前に出た。鎧が破片を受け、乾いた音がした。
「問題ありません」
バーゲストはすぐに言った。
織姫の顔が苦しげに歪む。
「すみません……!」
「謝るな。隙になる」
敵マスターの声が飛ぶ。
「でも、今……」
「戦闘中だ。余計な感情を入れるな」
「……はい」
「余計じゃないでしょ」
ムジナの声が、白い廊下に落ちた。
敵マスターの声が鋭くなる。
「何?」
「その感情があるから、この子は盾を張ってるんじゃないの」
「黙れ」
「黙らないよ。だって、そこが一番ズレてる」
ムジナは淡々としていた。
その分だけ、言葉がよく刺さる。怒鳴っているわけではない。熱血でもない。けれど、ズレている場所を見つけたら、そこを指で押す。そういう容赦のなさがあった。
織姫は盾を維持したまま、目を伏せた。
そして、小さな声で言った。
「私は、誰かが傷つくのを見たくないだけです」
その一文は、とても静かだった。
廊下の蛍光灯が、ジジッと鳴る。白い光が一瞬だけ点滅し、織姫の顔に影を落とした。その影は、彼女の心に積もった疲れみたいに見えた。
「でも、守らなきゃいけない人もいます」
俺は何も言えなかった。
守らなきゃいけない人。
その言葉の中に、彼女が退けない理由がある。けれど、それが誰なのかはまだ分からない。織姫は言いかけて、飲み込んだ。
ムジナが静かに聞く。
「それは、あのマスター?」
織姫は答えない。
「答えるな」
敵マスターの声が遮る。
織姫は唇を結ぶ。
「答えられないんじゃなくて、答えちゃいけないんだ」
「違います。私は……」
「井上」
また、止まった。
言葉が、出かけた場所で凍った。
エリスが低く言う。
「また止まった」
バーゲストも、織姫を見つめたまま応じる。
「命令が彼女の言葉まで遮っていますね」
ムジナは、ふう、と息を吐いた。
「でも、今ので十分」
「何が分かった」
「あの子は、マスターだけを守りたいわけじゃない。でも、マスターを見捨てることもできない」
その言葉で、廊下の奥が少しだけ重くなった気がした。
敵マスターの事情はまだ見えない。けれど、単純な支配者と被支配者ではない。織姫はあの男を憎んでいるだけではない。恐れているだけでもない。だからこそ、盾は揺れる。
守りたい。
でも、傷つけたくない。
従わなければならない。
でも、従いきれない。
その矛盾が、光の花弁を震わせている。
「このまま盾を散らしても、あの子が消耗するだけだね」
ムジナが言う。
「なら、どうする」
「盾を壊すのは後回し。次は、あの子の立ってる位置をずらす」
エリスが眉を寄せる。
「位置?」
「物理的な位置も、気持ちの位置も。あの子、今はマスターの前に立って、全部を背負ってる。だから盾が広がりすぎる」
バーゲストが頷く。
「ならば、彼女が守るべきものを自覚させる」
「うん。守りたいものを選ばせるんじゃなくて、守り方を変えさせる」
ムジナは面倒そうに首を回した。
だが、その足は退いていない。
「できるか?」
俺が聞くと、彼女は少しだけ笑った。
「面倒だけど、やるしかないでしょ」
壌竜が低く呟く。
「戦場をずらし、心の向きもずらすか」
「そういうこと。怪獣より面倒な相手だね」
廊下の奥で、敵マスターの声が荒くなる。
「井上、耳を貸すな。そいつらは敵だ」
「……はい」
「勝たなければ意味がない。分かっているはずだ」
その言葉で、織姫の表情が苦しげに揺れた。
「分かっています」
俺は奥の暗がりを見た。
「……何かあるな」
バーゲストが静かに頷く。
「ええ。ただの支配ではないようです」
エリスは苛立ったように吐き捨てる。
「だったら、余計に腹が立つわ。事情があるなら、ちゃんと言えばいいのに」
「言えないんでしょ」
ムジナが言った。
「たぶん、言ったら崩れるから」
「何が」
「あのマスターの方が」
その言葉に、俺は黙った。
白い廊下の奥にいる男は、冷たい命令だけを飛ばしている。だが、その声は完璧な支配者のものではない。何かを必死に押さえつけている。崩れそうなものを、命令という形で固めている。
そして、その固められたものの前に、織姫が立たされている。
ムジナは再び織姫へ向き直った。
「井上織姫」
「……はい」
「次は、あなたに選ばせるためじゃない」
「え?」
「あなたが全部を抱えなくていい形を作る」
廊下の奥から、すぐに声が飛ぶ。
「ふざけるな。そんなものは必要ない」
「必要あるよ。だって、このままだとあなたたち、どっちも壊れる」
「どっちも……」
織姫が呟く。
「聞くな!」
敵マスターの声が荒く響く。
ムジナは小さく目を細めた。
「ほら、またそこ」
彼女は廊下を見渡した。
白い病室。割れた蛍光灯。崩れかけた壁。半開きの扉。その奥にいる、姿の見えないマスター。そして、盾の向こうで揺れる井上織姫。
ムジナは盾を壊そうとしていなかった。
織姫を倒そうとしているわけでもなかった。
彼女が誰かを守ろうとして、全部を背負い込まされている形。その形そのものを、少しずつずらそうとしていた。
「じゃあ、次は立ち位置を変えようか」
ムジナの声が、廃病院の白い廊下に静かに響く。
第三試合は、力と盾のぶつかり合いでは終わらない。
誰を守るのか。
どう守るのか。
その問いが、ようやく織姫の心に届き始めていた。