※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

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盾の迷い

 廃病院の白い廊下は、まるで夜の底に沈んだ骨みたいだった。

 

 壁は白い。床も白い。天井の蛍光灯も、かつては白い光を落としていたのだろう。けれど今は、その全部が薄汚れ、割れ、ひび割れている。救うために作られた場所が、救われなかったものの残骸みたいに並んでいるのは、何度見ても気持ちが悪い。

 

 その白い廊下の奥で、井上織姫は光の盾を張っていた。

 

 盾舜六花。三天結盾。

 

 花弁のような光が幾重にも重なり、俺たちと彼女の間に透明な境界を作っている。物理的な壁ではない。弾くのでも、受け止めるのでもない。そこに届くという事実そのものを拒むような、異様な力だった。

 

 ムジナは、その盾を壊そうとはしなかった。

 

 彼女はいつも通り、どこか眠そうな顔で廊下を眺めている。けれど、視線は鋭い。織姫の盾だけでなく、盾を張る指先、呼吸、敵マスターの命令で一瞬固まる肩の動きまで拾っている。

 

「じゃあ、もう少しだけ見せてもらうね」

 

「無理に突破するなよ」

 

 俺が言うと、ムジナはひらひらと手を振った。

 

「分かってる。壊すんじゃなくて、見るだけ」

 

 軽い口調だった。

 

 けれど、その言葉の奥にあるものは軽くない。ムジナはもう、織姫を倒すことだけを考えていなかった。盾を壊すことでもない。織姫が何を守ろうとしているのか、その形を見ようとしていた。

 

 ムジナが指を動かす。

 

 右側の病室で、壊れたベッドが軋んだ。錆びついた車輪が床を引っ掻きながら、ゆっくりと廊下へ押し出される。同時に、左側の病室では点滴台が傾き、金属の脚が床に甲高い音を立てた。天井では割れた蛍光灯が揺れ、足元ではガラス片が俺たちの方へ滑り出す。

 

 どれも致命的な攻撃ではない。

 

 だが、放っておけば誰かが傷つく。

 

 織姫の瞳が揺れた。

 

「三天結盾!」

 

 光が広がった。

 

 俺たちへ向かうガラス片が止まる。敵マスターの声がした奥の病室へ倒れかけていた点滴台も、盾に触れる前に勢いを失う。織姫自身の頭上から落ちかけた蛍光灯も、拒絶されて宙で止まり、力なく床へ転がった。

 

 全部を守った。

 

 敵も味方も、自分も背後も、傷つく可能性のあるものを全部。

 

「やっぱり、全部守る」

 

 ムジナが呟く。

 

 バーゲストが剣を構えたまま、静かに頷いた。

 

「敵味方を選んでいませんね」

 

「何で敵まで守るのよ」

 

 エリスが苛立ったように言った。

 

 その声には、単純な疑問以上のものが混じっていた。織姫を見る目が、少し前の敵を見る目とは違う。命令で動きが止まる姿を見て、自分の剣が歪められた時のことを思い出しているのかもしれない。

 

 ムジナは肩をすくめる。

 

「敵って思えてないんでしょ。この子にとっては、傷つくかもしれない人、全部が対象なんだよ」

 

「うふふー。優しいですねぇ。こういうゲームでは、とても苦しい優しさですけどぉ」

 

 ルプスレギナが笑う。

 

 けれど、誰もそれを本気で茶化せなかった。織姫の優しさは綺麗だ。綺麗すぎて、MEDESという濁ったゲームの中では、白い包帯が血を吸って重くなるみたいに、本人を苦しめている。

 

 廊下の奥から、敵マスターの声が飛んだ。

 

「敵まで守るな」

 

 冷たい声だった。

 

 けれど、冷酷そのものとは少し違う。命令の奥に焦りがある。何かを失うことを恐れているような、張り詰めた硬さがあった。

 

 織姫は、小さく息を吸う。

 

「でも、破片が当たったら……」

 

「敵だ。倒さなければ、こちらが倒される」

 

「……はい」

 

「守る対象を間違えるな」

 

 その言葉で、織姫の表情が曇った。

 

 俺は思わず、奥の暗がりを見た。姿はまだ見えない。声だけがある。病室の奥に隠れた、命令する者の声。織姫を戦わせている声。

 

「嫌な言い方」

 

 エリスが低く吐き捨てる。

 

 バーゲストはその言葉を否定しなかった。

 

「彼女の意思と命令が噛み合っていません」

 

「ああ。命令が出るたびに、動きが硬くなる」

 

 俺が言うと、ムジナは頷く。

 

「命令は盾の範囲を狭くしようとしてる。でも、本人は広げようとしてる」

 

 壌竜が床に視線を落とす。

 

「相反する力が同じ器に入っている。長くは保たぬ」

 

「だから、今のうちに聞いておかないとね」

 

 ムジナは正面から織姫を見た。

 

 いつもの気だるさはある。けれど、その声は、さっきよりほんの少しだけ静かだった。優しくなったわけじゃない。ただ、逃げ道を塞ぐように核心へ歩いていく声だった。

 

「ねえ、井上織姫」

 

「……はい」

 

「あなたは本当に、誰を守りたいの?」

 

 織姫の瞳が見開かれた。

 

 たった一つの問いだった。

 

 けれど、その問いは盾よりも深く届いた気がした。光の壁では拒めない場所。命令でも完全には塞げない、彼女自身の内側へ。

 

「え……」

 

「答えるな」

 

 敵マスターの声が即座に割り込んだ。

 

 あまりに早かった。

 

 ムジナは薄く目を細める。

 

「早いね。考えられると困るの?」

 

「黙れ。盾を維持しろ」

 

「……はい」

 

「ほら。今、答えようとした」

 

「ムジナ」

 

 俺が声をかけると、ムジナは小さく頷いた。

 

「分かってる。追い詰めたいわけじゃないよ。ただ、このままだとこの子、全部抱えたまま潰れる」

 

 織姫は何かを言おうとした。

 

「私は……」

 

「井上」

 

 名前を呼ばれただけで、彼女の声が止まった。

 

 それは大声ではなかった。怒鳴ったわけでもない。けれど、その短い呼びかけ一つで、織姫の言葉は白い廊下に落ちる前に消えてしまった。

 

 ムジナが呟く。

 

「名前を呼ばれただけで止まるんだ」

 

 エリスは無言だった。

 

 けれど、剣の柄を握る手に力が入っているのが見えた。怒っている。織姫にではない。たぶん、命令で言葉を奪うもの全部に。

 

 ムジナは再び指を動かした。

 

 今度は、攻撃ではない。

 

 選択を迫る配置だった。

 

 俺たちの足元へ薬瓶が転がる。敵マスターの声がする奥の病室では、外れかけた扉が嫌な音を立てて傾く。そして織姫自身の足元に、割れたガラス片が滑っていく。

 

 三方向。

 

 どれも小さい。放置しても致命傷にはならないかもしれない。だが、怪我はする。

 

 織姫は迷った。

 

 迷って、それでも盾を張った。

 

「三天結盾……!」

 

 光が走る。

 

 けれど、一瞬だけ遅れた。

 

 俺たちの方へ転がってきた薬瓶が床に当たり、甲高い音を立てて割れる。細かな破片が跳ねた瞬間、バーゲストが一歩前に出た。鎧が破片を受け、乾いた音がした。

 

「問題ありません」

 

 バーゲストはすぐに言った。

 

 織姫の顔が苦しげに歪む。

 

「すみません……!」

 

「謝るな。隙になる」

 

 敵マスターの声が飛ぶ。

 

「でも、今……」

 

「戦闘中だ。余計な感情を入れるな」

 

「……はい」

 

「余計じゃないでしょ」

 

 ムジナの声が、白い廊下に落ちた。

 

 敵マスターの声が鋭くなる。

 

「何?」

 

「その感情があるから、この子は盾を張ってるんじゃないの」

 

「黙れ」

 

「黙らないよ。だって、そこが一番ズレてる」

 

 ムジナは淡々としていた。

 

 その分だけ、言葉がよく刺さる。怒鳴っているわけではない。熱血でもない。けれど、ズレている場所を見つけたら、そこを指で押す。そういう容赦のなさがあった。

 

 織姫は盾を維持したまま、目を伏せた。

 

 そして、小さな声で言った。

 

「私は、誰かが傷つくのを見たくないだけです」

 

 その一文は、とても静かだった。

 

 廊下の蛍光灯が、ジジッと鳴る。白い光が一瞬だけ点滅し、織姫の顔に影を落とした。その影は、彼女の心に積もった疲れみたいに見えた。

 

「でも、守らなきゃいけない人もいます」

 

 俺は何も言えなかった。

 

 守らなきゃいけない人。

 

 その言葉の中に、彼女が退けない理由がある。けれど、それが誰なのかはまだ分からない。織姫は言いかけて、飲み込んだ。

 

 ムジナが静かに聞く。

 

「それは、あのマスター?」

 

 織姫は答えない。

 

「答えるな」

 

 敵マスターの声が遮る。

 

 織姫は唇を結ぶ。

 

「答えられないんじゃなくて、答えちゃいけないんだ」

 

「違います。私は……」

 

「井上」

 

 また、止まった。

 

 言葉が、出かけた場所で凍った。

 

 エリスが低く言う。

 

「また止まった」

 

 バーゲストも、織姫を見つめたまま応じる。

 

「命令が彼女の言葉まで遮っていますね」

 

 ムジナは、ふう、と息を吐いた。

 

「でも、今ので十分」

 

「何が分かった」

 

「あの子は、マスターだけを守りたいわけじゃない。でも、マスターを見捨てることもできない」

 

 その言葉で、廊下の奥が少しだけ重くなった気がした。

 

 敵マスターの事情はまだ見えない。けれど、単純な支配者と被支配者ではない。織姫はあの男を憎んでいるだけではない。恐れているだけでもない。だからこそ、盾は揺れる。

 

 守りたい。

 

 でも、傷つけたくない。

 

 従わなければならない。

 

 でも、従いきれない。

 

 その矛盾が、光の花弁を震わせている。

 

「このまま盾を散らしても、あの子が消耗するだけだね」

 

 ムジナが言う。

 

「なら、どうする」

 

「盾を壊すのは後回し。次は、あの子の立ってる位置をずらす」

 

 エリスが眉を寄せる。

 

「位置?」

 

「物理的な位置も、気持ちの位置も。あの子、今はマスターの前に立って、全部を背負ってる。だから盾が広がりすぎる」

 

 バーゲストが頷く。

 

「ならば、彼女が守るべきものを自覚させる」

 

「うん。守りたいものを選ばせるんじゃなくて、守り方を変えさせる」

 

 ムジナは面倒そうに首を回した。

 

 だが、その足は退いていない。

 

「できるか?」

 

 俺が聞くと、彼女は少しだけ笑った。

 

「面倒だけど、やるしかないでしょ」

 

 壌竜が低く呟く。

 

「戦場をずらし、心の向きもずらすか」

 

「そういうこと。怪獣より面倒な相手だね」

 

 廊下の奥で、敵マスターの声が荒くなる。

 

「井上、耳を貸すな。そいつらは敵だ」

 

「……はい」

 

「勝たなければ意味がない。分かっているはずだ」

 

 その言葉で、織姫の表情が苦しげに揺れた。

 

「分かっています」

 

 俺は奥の暗がりを見た。

 

「……何かあるな」

 

 バーゲストが静かに頷く。

 

「ええ。ただの支配ではないようです」

 

 エリスは苛立ったように吐き捨てる。

 

「だったら、余計に腹が立つわ。事情があるなら、ちゃんと言えばいいのに」

 

「言えないんでしょ」

 

 ムジナが言った。

 

「たぶん、言ったら崩れるから」

 

「何が」

 

「あのマスターの方が」

 

 その言葉に、俺は黙った。

 

 白い廊下の奥にいる男は、冷たい命令だけを飛ばしている。だが、その声は完璧な支配者のものではない。何かを必死に押さえつけている。崩れそうなものを、命令という形で固めている。

 

 そして、その固められたものの前に、織姫が立たされている。

 

 ムジナは再び織姫へ向き直った。

 

「井上織姫」

 

「……はい」

 

「次は、あなたに選ばせるためじゃない」

 

「え?」

 

「あなたが全部を抱えなくていい形を作る」

 

 廊下の奥から、すぐに声が飛ぶ。

 

「ふざけるな。そんなものは必要ない」

 

「必要あるよ。だって、このままだとあなたたち、どっちも壊れる」

 

「どっちも……」

 

 織姫が呟く。

 

「聞くな!」

 

 敵マスターの声が荒く響く。

 

 ムジナは小さく目を細めた。

 

「ほら、またそこ」

 

 彼女は廊下を見渡した。

 

 白い病室。割れた蛍光灯。崩れかけた壁。半開きの扉。その奥にいる、姿の見えないマスター。そして、盾の向こうで揺れる井上織姫。

 

 ムジナは盾を壊そうとしていなかった。

 

 織姫を倒そうとしているわけでもなかった。

 

 彼女が誰かを守ろうとして、全部を背負い込まされている形。その形そのものを、少しずつずらそうとしていた。

 

「じゃあ、次は立ち位置を変えようか」

 

 ムジナの声が、廃病院の白い廊下に静かに響く。

 

 第三試合は、力と盾のぶつかり合いでは終わらない。

 

 誰を守るのか。

 

 どう守るのか。

 

 その問いが、ようやく織姫の心に届き始めていた。

 

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