※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

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守りの先へ

 ムジナが「立ち位置を変えようか」と言った瞬間、廃病院の空気が一段だけ冷えた気がした。

 

 白い廊下は相変わらず白い。割れた蛍光灯が、切れかけの呼吸みたいに点滅している。ジジッ、ジジッ、と音が鳴るたび、壁に貼られた古い案内板の影が伸びたり縮んだりした。

 

 その奥で、井上織姫は盾を張っていた。

 

 花弁のような六つの光。俺たちと、彼女と、その背後にいるマスターを隔てる拒絶の境界。

 

 彼女はまだ、あの男の前に立っている。

 

 自分の身体で、盾で、言葉にならない何かで、全部を受け止めようとしている。

 

「立ち位置……?」

 

 織姫が小さく繰り返した。

 

 廊下の奥から、男の声が飛ぶ。

 

「惑わされるな。そこを離れるな、井上」

 

 ムジナは薄く目を細めた。

 

「ほら。やっぱり、そこにいてほしいんだ」

 

「ムジナ、どうする?」

 

 俺が聞くと、彼女は肩をすくめる。

 

「無理に引っ張らない。あの子は引っ張ると余計に固くなるから」

 

「ならば、彼女自身が動かざるを得ない状況を作るのですね」

 

 バーゲストの声は低く、廊下の壁に吸い込まれていった。

 

「うん。守るために動いてもらう」

 

 ムジナが指を鳴らした。

 

 次の瞬間、左右の病室の扉が一斉に開いた。蝶番が軋み、乾いた音が廊下を走る。右の病室からは壊れたベッドがゆっくり押し出され、左の病室では傾いた点滴台が敵マスターのいる奥の方へ倒れかける。天井では割れた蛍光灯が揺れ、床の瓦礫が三方向へ滑った。

 

 織姫が息を呑む。

 

「三天結盾!」

 

 光が走った。

 

 俺たちの方へ飛ぶ破片を拒む。敵マスター側へ倒れかけた扉を止める。織姫の横へ転がった薬瓶が割れる前に、盾がその進行を断つ。

 

 守った。

 

 また全部だ。

 

 けれど、そのたびに織姫の足は動いた。右へ半歩。左へ一歩。盾を展開する方向に引っ張られるように、彼女は少しずつ、敵マスターの真正面から外れていく。

 

「戻れ! そこを離れるな!」

 

 奥から声が跳ねた。

 

「でも、このままだと皆さんが……!」

 

「そいつらは敵だ!」

 

 織姫の唇が震えた。

 

 けれど、今度は止まらなかった。

 

「敵でも、傷ついていいわけじゃありません!」

 

 廊下が一瞬、黙った。

 

 蛍光灯の点滅だけが、白い壁を撫でる。

 

 エリスが小さく息を吐いた。

 

「……言ったわね」

 

 バーゲストが織姫を見据えたまま頷く。

 

「ええ。彼女自身の言葉です」

 

 ムジナは指先を下ろした。

 

「うん。まず一つ、ズレた」

 

 織姫自身も、自分が言い返したことに驚いたみたいだった。盾を張った手を見つめ、すぐに奥へ目を向ける。

 

 その視線の先。

 

 これまで影に隠れていた敵マスターの姿が、半開きの病室の向こうに見えた。

 

 青年だった。

 

 俺とそう年は変わらないかもしれない。けれど、頬はこけて、目の下には深い隈がある。服は乱れ、髪も整っていない。冷たい支配者というより、眠れない夜を何日も踏み越えてきた人間の顔だった。

 

 彼は織姫を見ていた。

 

 武器を見る目ではない。命綱を見る目だった。

 

「戻れ、井上! お前を失うわけにはいかない!」

 

「……失う?」

 

 俺の声に、ムジナが小さく頷く。

 

「やっぱり、そこなんだ」

 

「黙れ!」

 

 男の声が割れる。

 

 ムジナは怯まない。

 

「あなた、勝ちたいっていうより、失うのが怖いんでしょ」

 

「何が分かる!」

 

「分からないよ。だから、今見てる」

 

 ムジナの言葉は、刃物より冷たく、包帯より乱暴だった。

 

 男は奥歯を噛みしめた。喉が動く。何かを飲み込んで、それでも飲み込めなかったものが、次の言葉になって零れた。

 

「俺が負けたら……俺が負けたら、妹を守る奴がいなくなるんだよ!」

 

「妹……?」

 

 織姫は目を伏せた。

 

 その仕草で、彼女は知っていたのだと分かった。

 

 男は震える手でスマホを握っている。白くなるほど力が入っていた。

 

「俺しかいないんだ。親もいない。頼れる奴もいない。あいつは、俺がいなきゃ駄目なんだ」

 

 廊下の空気が、少しだけ形を変えた。

 

 冷たい命令の奥にあったものが、剥がれて見えた気がした。

 

 正しいわけじゃない。

 

 許せるわけでもない。

 

 けれど、ただ笑って踏みにじるような相手でもなかった。

 

「あいつは死にかけてた。病院じゃどうにもならなかった。だから俺は、このゲームに縋った」

 

「MEDESに……」

 

「ああ。そうしたら、こいつを引いた。井上織姫を」

 

 男は織姫を見た。

 

 織姫は何も言わない。ただ、盾を張ったまま、奥の男の言葉を聞いている。

 

「信じられない力だった。妹の傷は戻った。呼吸も戻った。目も覚ました。医者が無理だって言ったものを、この子は戻したんだ」

 

「なら、もう戦う必要ないじゃない」

 

 エリスの声が廊下に落ちる。

 

 男は即座に顔を上げた。

 

「ある!」

 

 声が割れた。

 

「治ったから終わりじゃない! 俺が負けたら、俺は消える! 俺が消えたら、妹はまた一人になる! 他の参加者が来たらどうする!? このゲームが終わるまで、俺は勝ち続けるしかない!」

 

 織姫の盾が揺れた。

 

 花弁の光が、ほんの少し震える。

 

「でも……そのために、誰かを傷つけ続けるのは……」

 

「綺麗事を言うな!」

 

 織姫の肩が跳ねた。

 

 男は、その一瞬に気づいたように口を閉じる。けれど、もう遅かった。吐き出した言葉は、白い廊下に落ちている。

 

 彼は両手でスマホを握り直した。

 

「お前の力があれば、守れる。お前がいれば、妹も俺も生き残れる。だから、俺はお前を失えない」

 

 ムジナが、短く言った。

 

「違うよ」

 

 男が睨む。

 

「何が違う」

 

「それ、守ってるんじゃなくて、縛ってる」

 

 沈黙が落ちた。

 

 それは短い沈黙だった。

 

 けれど、白い廊下の端から端まで届くには十分だった。

 

 俺はスマホを握り直す。

 

 男の言葉は分かる。妹を守りたい。失いたくない。誰にも頼れない。だから、自分が立ち続けるしかない。

 

 分かる。

 

 分かってしまう。

 

 でも、だからといって織姫を縛っていい理由にはならない。

 

 怖さを盾にして、誰かの心を押し潰していい理由にはならない。

 

「ムジナ」

 

「うん」

 

「倒すな。止めろ」

 

 ムジナがちらりと俺を見る。

 

「そういうの、命令?」

 

「方針だ。やるかどうかは任せる」

 

「はいはい。そういうところ、面倒だね」

 

 ルプスレギナが口元に手を当てて笑う。

 

「うふふー。ご主人様らしいですねぇ」

 

 バーゲストが剣を下げる。

 

「では、織姫殿を傷つけずに決着を」

 

「面倒だけど、嫌いじゃないわ」

 

 エリスがそう言いながら、剣を構え直した。

 

 デルタが耳を立てる。

 

「デルタは何をすればいいです?」

 

「飛んでくるものを止めてくれ。誰にも当てないように」

 

「分かったです!」

 

 デルタは嬉しそうに笑った。

 

 いや、この状況で笑えるのはデルタくらいだ。けれど、その単純さが、今は少しだけ助かる。

 

 ムジナが廊下の中心へ出る。

 

 敵マスターは奥で息を荒くしていた。織姫はその前から少し外れた位置にいる。ほんの数歩。けれど、その数歩が、さっきまでの構図を崩していた。

 

「井上、攻撃しろ!」

 

 男が叫ぶ。

 

「そいつらを倒せ!」

 

 織姫は動かない。

 

「命令だ!」

 

 その言葉で、六花が揺れた。

 

 攻撃の花弁が前へ出る。光が細く伸び、俺たちの方へ向かおうとする。けれど、その軌道は震えていた。迷いがそのまま形になったみたいに、光の先端が揺れる。

 

 ムジナが呼ぶ。

 

「井上織姫」

 

 織姫は顔を上げる。

 

「あなたは、誰かが傷つくのを見たくないんでしょ」

 

 織姫の喉が動いた。

 

「……はい」

 

「答えるな!」

 

 敵マスターの声が飛ぶ。

 

 ムジナは無視した。

 

「でも、その誰かの中に、私たちも入ってる」

 

 織姫の瞳が揺れる。

 

「……はい」

 

「じゃあ、攻撃じゃない。止めて」

 

「止める……」

 

「やめろ! 井上!」

 

 織姫は、攻撃の花弁を見た。

 

 それから、俺たちを見た。

 

 最後に、敵マスターを見た。

 

「私は……」

 

 光が変わる。

 

 俺たちへ向かうはずだった花弁が、空中でほどけた。鋭さを失い、丸く、広く、盾の形へ変わっていく。

 

 三天結盾。

 

 攻撃命令は、防御へ変わった。

 

 織姫は両手を前へ出し、細い声で言った。

 

「私は、誰かが傷つくのを見たくありません」

 

 その瞬間、俺のスマホが震えた。

 

 嫌な黒い光が画面に走る。

 

 ――WHO IS SHE?

 ――HOW DOES SHE FIGHT?

 ――WHY DOES SHE RESIST ATTACKING?

 

 来た。

 

 MEDESの問い。

 

 これまでの行動が、一気に頭の中で繋がる。

 

 盾。拒絶。治癒。攻撃ではなく制止。敵味方を問わず守ろうとする姿。命令されても、傷つける形にできなかった手。

 

 俺は画面へ指を走らせる。

 

「井上織姫」

 

 ――WHO:ACCEPTED

 

「戦闘方法は盾舜六花。事象そのものを拒絶する力で、防御と治癒を行う」

 

 ――HOW:ACCEPTED

 

 最後の問いが、黒い画面に浮かぶ。

 

 ――WHY DOES SHE RESIST ATTACKING?

 

 俺は織姫を見た。

 

 彼女は盾を張っている。敵マスターの命令に背いているわけではない。たぶん、完全には背けない。それでも、攻撃を防御に変えた。自分の形を、ぎりぎりのところで選び直した。

 

「理由は……誰かが傷つくのを見たくないからだ」

 

 俺は言葉を続ける。

 

「敵味方を問わず守ろうとしてしまう。だから攻撃命令を受けても、傷つける形にはできない」

 

 画面が一瞬、暗く沈んだ。

 

 次の瞬間、文字が浮かぶ。

 

 ――WHY:ACCEPTED

 

 胸の奥が、冷たくなる。

 

 勝った。

 

 そのはずなのに、何かを失う音が先に聞こえた。

 

 ――THIRD MATCH:COMPLETE

 ――WINNER:MUJINA

 ――CONTRACT TRANSFER:ACTIVE

 

「嘘だろ……」

 

 敵マスターの顔から血の気が引いた。

 

「まだ、駄目だ。俺は、まだ……!」

 

 織姫は動かなかった。

 

 盾の光が、ゆっくりと薄くなっていく。

 

「井上、頼む。まだ消えるわけにはいかない。妹が……妹がいるんだ」

 

 織姫は一歩、彼の方へ進もうとした。

 

 だが、足元の黒いノイズがそれを許さなかった。MEDESの敗北処理。男の身体が、足元から粒子のようにほどけていく。

 

「あなたの妹さんは、助かっています」

 

 織姫の声は小さかった。

 

「それでも、俺がいなきゃ……」

 

「一人で抱えなくてよかったんです」

 

「そんなこと、できるわけないだろ……」

 

 男は笑おうとしたのかもしれない。

 

 口元がわずかに歪んだ。けれど、それは笑みにはならなかった。

 

「頼れる奴なんて、いなかったんだよ」

 

 織姫は何も返せなかった。

 

 返せる言葉なんて、たぶんこの廊下のどこにも落ちていなかった。

 

 男の身体が、膝まで消える。黒いノイズが白い床に散り、すぐに吸い込まれていく。

 

「妹を……」

 

 織姫は両手を胸の前で握った。

 

「はい」

 

「頼む……」

 

「はい。覚えています。私は、忘れません」

 

 男は最後に何かを言おうとした。

 

 けれど、声になる前に、喉のあたりが黒い粒に変わった。

 

 そして、消えた。

 

 白い廊下に、何も残らなかった。

 

 スマホがまた震える。

 

 ――LOSER MASTER:ERASED

 ――ORIHIME INOUE:NEW MASTER REGISTERED

 

 織姫の周囲に浮かんでいた光が、静かに揺れた。

 

 契約が移った。

 

 井上織姫は、俺たちの側へ来た。

 

 けれど、彼女はその場から動かなかった。敵マスターが消えた場所を、ただ見つめている。指先が、胸の前で固く絡まっていた。

 

「井上」

 

 俺が呼ぶと、織姫はゆっくり振り返った。

 

「……私は、守れたんでしょうか」

 

 すぐには答えられなかった。

 

 守れた、と言えば嘘みたいだった。

 

 守れなかった、と言えば、その言葉は彼女の上に落ちて割れる気がした。

 

 迷っている間に、ムジナが先に口を開いた。

 

「少なくとも、あなたが全部背負う形は終わった」

 

「でも、あの人は……」

 

「うん。消えた」

 

 ムジナは誤魔化さなかった。

 

 織姫は目を伏せた。まつ毛の影が頬に落ちる。彼女の足元には、もう盾の光はない。ただ白い床と、割れた薬瓶の欠片だけがある。

 

 バーゲストが静かに言う。

 

「今は、答えを急がなくてよいでしょう」

 

 エリスが剣を下ろし、視線を逸らした。

 

「勝ったのに、全然嬉しくないわね」

 

「うふふー。こういう勝利もあるんですねぇ」

 

 ルプスレギナの声は軽い。けれど、いつものような毒の濃さは少なかった。

 

 壌竜が白い廊下を見渡す。

 

「戦いは終わった。だが、残されたものは軽くない」

 

 俺はスマホをポケットにしまう。

 

 画面の黒い光が消えても、指先にはまだ冷たさが残っていた。

 

「……戻ろう。ここに長くいる場所じゃない」

 

 織姫は最後に、男が消えた場所を見た。

 

 それから、小さく頷く。

 

「はい……」

 

 白い廊下に、もう盾はなかった。

 

 割れた蛍光灯の下で、井上織姫はただ立っていた。

 

 誰かを守りたかった少女。

 

 守るために縛られ、守るために傷ついた少女。

 

 その契約は、今、俺たちの側へ移った。

 

 けれど、それを勝利と呼ぶには、廃病院の空気はあまりにも冷たかった。

 

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