ムジナが「立ち位置を変えようか」と言った瞬間、廃病院の空気が一段だけ冷えた気がした。
白い廊下は相変わらず白い。割れた蛍光灯が、切れかけの呼吸みたいに点滅している。ジジッ、ジジッ、と音が鳴るたび、壁に貼られた古い案内板の影が伸びたり縮んだりした。
その奥で、井上織姫は盾を張っていた。
花弁のような六つの光。俺たちと、彼女と、その背後にいるマスターを隔てる拒絶の境界。
彼女はまだ、あの男の前に立っている。
自分の身体で、盾で、言葉にならない何かで、全部を受け止めようとしている。
「立ち位置……?」
織姫が小さく繰り返した。
廊下の奥から、男の声が飛ぶ。
「惑わされるな。そこを離れるな、井上」
ムジナは薄く目を細めた。
「ほら。やっぱり、そこにいてほしいんだ」
「ムジナ、どうする?」
俺が聞くと、彼女は肩をすくめる。
「無理に引っ張らない。あの子は引っ張ると余計に固くなるから」
「ならば、彼女自身が動かざるを得ない状況を作るのですね」
バーゲストの声は低く、廊下の壁に吸い込まれていった。
「うん。守るために動いてもらう」
ムジナが指を鳴らした。
次の瞬間、左右の病室の扉が一斉に開いた。蝶番が軋み、乾いた音が廊下を走る。右の病室からは壊れたベッドがゆっくり押し出され、左の病室では傾いた点滴台が敵マスターのいる奥の方へ倒れかける。天井では割れた蛍光灯が揺れ、床の瓦礫が三方向へ滑った。
織姫が息を呑む。
「三天結盾!」
光が走った。
俺たちの方へ飛ぶ破片を拒む。敵マスター側へ倒れかけた扉を止める。織姫の横へ転がった薬瓶が割れる前に、盾がその進行を断つ。
守った。
また全部だ。
けれど、そのたびに織姫の足は動いた。右へ半歩。左へ一歩。盾を展開する方向に引っ張られるように、彼女は少しずつ、敵マスターの真正面から外れていく。
「戻れ! そこを離れるな!」
奥から声が跳ねた。
「でも、このままだと皆さんが……!」
「そいつらは敵だ!」
織姫の唇が震えた。
けれど、今度は止まらなかった。
「敵でも、傷ついていいわけじゃありません!」
廊下が一瞬、黙った。
蛍光灯の点滅だけが、白い壁を撫でる。
エリスが小さく息を吐いた。
「……言ったわね」
バーゲストが織姫を見据えたまま頷く。
「ええ。彼女自身の言葉です」
ムジナは指先を下ろした。
「うん。まず一つ、ズレた」
織姫自身も、自分が言い返したことに驚いたみたいだった。盾を張った手を見つめ、すぐに奥へ目を向ける。
その視線の先。
これまで影に隠れていた敵マスターの姿が、半開きの病室の向こうに見えた。
青年だった。
俺とそう年は変わらないかもしれない。けれど、頬はこけて、目の下には深い隈がある。服は乱れ、髪も整っていない。冷たい支配者というより、眠れない夜を何日も踏み越えてきた人間の顔だった。
彼は織姫を見ていた。
武器を見る目ではない。命綱を見る目だった。
「戻れ、井上! お前を失うわけにはいかない!」
「……失う?」
俺の声に、ムジナが小さく頷く。
「やっぱり、そこなんだ」
「黙れ!」
男の声が割れる。
ムジナは怯まない。
「あなた、勝ちたいっていうより、失うのが怖いんでしょ」
「何が分かる!」
「分からないよ。だから、今見てる」
ムジナの言葉は、刃物より冷たく、包帯より乱暴だった。
男は奥歯を噛みしめた。喉が動く。何かを飲み込んで、それでも飲み込めなかったものが、次の言葉になって零れた。
「俺が負けたら……俺が負けたら、妹を守る奴がいなくなるんだよ!」
「妹……?」
織姫は目を伏せた。
その仕草で、彼女は知っていたのだと分かった。
男は震える手でスマホを握っている。白くなるほど力が入っていた。
「俺しかいないんだ。親もいない。頼れる奴もいない。あいつは、俺がいなきゃ駄目なんだ」
廊下の空気が、少しだけ形を変えた。
冷たい命令の奥にあったものが、剥がれて見えた気がした。
正しいわけじゃない。
許せるわけでもない。
けれど、ただ笑って踏みにじるような相手でもなかった。
「あいつは死にかけてた。病院じゃどうにもならなかった。だから俺は、このゲームに縋った」
「MEDESに……」
「ああ。そうしたら、こいつを引いた。井上織姫を」
男は織姫を見た。
織姫は何も言わない。ただ、盾を張ったまま、奥の男の言葉を聞いている。
「信じられない力だった。妹の傷は戻った。呼吸も戻った。目も覚ました。医者が無理だって言ったものを、この子は戻したんだ」
「なら、もう戦う必要ないじゃない」
エリスの声が廊下に落ちる。
男は即座に顔を上げた。
「ある!」
声が割れた。
「治ったから終わりじゃない! 俺が負けたら、俺は消える! 俺が消えたら、妹はまた一人になる! 他の参加者が来たらどうする!? このゲームが終わるまで、俺は勝ち続けるしかない!」
織姫の盾が揺れた。
花弁の光が、ほんの少し震える。
「でも……そのために、誰かを傷つけ続けるのは……」
「綺麗事を言うな!」
織姫の肩が跳ねた。
男は、その一瞬に気づいたように口を閉じる。けれど、もう遅かった。吐き出した言葉は、白い廊下に落ちている。
彼は両手でスマホを握り直した。
「お前の力があれば、守れる。お前がいれば、妹も俺も生き残れる。だから、俺はお前を失えない」
ムジナが、短く言った。
「違うよ」
男が睨む。
「何が違う」
「それ、守ってるんじゃなくて、縛ってる」
沈黙が落ちた。
それは短い沈黙だった。
けれど、白い廊下の端から端まで届くには十分だった。
俺はスマホを握り直す。
男の言葉は分かる。妹を守りたい。失いたくない。誰にも頼れない。だから、自分が立ち続けるしかない。
分かる。
分かってしまう。
でも、だからといって織姫を縛っていい理由にはならない。
怖さを盾にして、誰かの心を押し潰していい理由にはならない。
「ムジナ」
「うん」
「倒すな。止めろ」
ムジナがちらりと俺を見る。
「そういうの、命令?」
「方針だ。やるかどうかは任せる」
「はいはい。そういうところ、面倒だね」
ルプスレギナが口元に手を当てて笑う。
「うふふー。ご主人様らしいですねぇ」
バーゲストが剣を下げる。
「では、織姫殿を傷つけずに決着を」
「面倒だけど、嫌いじゃないわ」
エリスがそう言いながら、剣を構え直した。
デルタが耳を立てる。
「デルタは何をすればいいです?」
「飛んでくるものを止めてくれ。誰にも当てないように」
「分かったです!」
デルタは嬉しそうに笑った。
いや、この状況で笑えるのはデルタくらいだ。けれど、その単純さが、今は少しだけ助かる。
ムジナが廊下の中心へ出る。
敵マスターは奥で息を荒くしていた。織姫はその前から少し外れた位置にいる。ほんの数歩。けれど、その数歩が、さっきまでの構図を崩していた。
「井上、攻撃しろ!」
男が叫ぶ。
「そいつらを倒せ!」
織姫は動かない。
「命令だ!」
その言葉で、六花が揺れた。
攻撃の花弁が前へ出る。光が細く伸び、俺たちの方へ向かおうとする。けれど、その軌道は震えていた。迷いがそのまま形になったみたいに、光の先端が揺れる。
ムジナが呼ぶ。
「井上織姫」
織姫は顔を上げる。
「あなたは、誰かが傷つくのを見たくないんでしょ」
織姫の喉が動いた。
「……はい」
「答えるな!」
敵マスターの声が飛ぶ。
ムジナは無視した。
「でも、その誰かの中に、私たちも入ってる」
織姫の瞳が揺れる。
「……はい」
「じゃあ、攻撃じゃない。止めて」
「止める……」
「やめろ! 井上!」
織姫は、攻撃の花弁を見た。
それから、俺たちを見た。
最後に、敵マスターを見た。
「私は……」
光が変わる。
俺たちへ向かうはずだった花弁が、空中でほどけた。鋭さを失い、丸く、広く、盾の形へ変わっていく。
三天結盾。
攻撃命令は、防御へ変わった。
織姫は両手を前へ出し、細い声で言った。
「私は、誰かが傷つくのを見たくありません」
その瞬間、俺のスマホが震えた。
嫌な黒い光が画面に走る。
――WHO IS SHE?
――HOW DOES SHE FIGHT?
――WHY DOES SHE RESIST ATTACKING?
来た。
MEDESの問い。
これまでの行動が、一気に頭の中で繋がる。
盾。拒絶。治癒。攻撃ではなく制止。敵味方を問わず守ろうとする姿。命令されても、傷つける形にできなかった手。
俺は画面へ指を走らせる。
「井上織姫」
――WHO:ACCEPTED
「戦闘方法は盾舜六花。事象そのものを拒絶する力で、防御と治癒を行う」
――HOW:ACCEPTED
最後の問いが、黒い画面に浮かぶ。
――WHY DOES SHE RESIST ATTACKING?
俺は織姫を見た。
彼女は盾を張っている。敵マスターの命令に背いているわけではない。たぶん、完全には背けない。それでも、攻撃を防御に変えた。自分の形を、ぎりぎりのところで選び直した。
「理由は……誰かが傷つくのを見たくないからだ」
俺は言葉を続ける。
「敵味方を問わず守ろうとしてしまう。だから攻撃命令を受けても、傷つける形にはできない」
画面が一瞬、暗く沈んだ。
次の瞬間、文字が浮かぶ。
――WHY:ACCEPTED
胸の奥が、冷たくなる。
勝った。
そのはずなのに、何かを失う音が先に聞こえた。
――THIRD MATCH:COMPLETE
――WINNER:MUJINA
――CONTRACT TRANSFER:ACTIVE
「嘘だろ……」
敵マスターの顔から血の気が引いた。
「まだ、駄目だ。俺は、まだ……!」
織姫は動かなかった。
盾の光が、ゆっくりと薄くなっていく。
「井上、頼む。まだ消えるわけにはいかない。妹が……妹がいるんだ」
織姫は一歩、彼の方へ進もうとした。
だが、足元の黒いノイズがそれを許さなかった。MEDESの敗北処理。男の身体が、足元から粒子のようにほどけていく。
「あなたの妹さんは、助かっています」
織姫の声は小さかった。
「それでも、俺がいなきゃ……」
「一人で抱えなくてよかったんです」
「そんなこと、できるわけないだろ……」
男は笑おうとしたのかもしれない。
口元がわずかに歪んだ。けれど、それは笑みにはならなかった。
「頼れる奴なんて、いなかったんだよ」
織姫は何も返せなかった。
返せる言葉なんて、たぶんこの廊下のどこにも落ちていなかった。
男の身体が、膝まで消える。黒いノイズが白い床に散り、すぐに吸い込まれていく。
「妹を……」
織姫は両手を胸の前で握った。
「はい」
「頼む……」
「はい。覚えています。私は、忘れません」
男は最後に何かを言おうとした。
けれど、声になる前に、喉のあたりが黒い粒に変わった。
そして、消えた。
白い廊下に、何も残らなかった。
スマホがまた震える。
――LOSER MASTER:ERASED
――ORIHIME INOUE:NEW MASTER REGISTERED
織姫の周囲に浮かんでいた光が、静かに揺れた。
契約が移った。
井上織姫は、俺たちの側へ来た。
けれど、彼女はその場から動かなかった。敵マスターが消えた場所を、ただ見つめている。指先が、胸の前で固く絡まっていた。
「井上」
俺が呼ぶと、織姫はゆっくり振り返った。
「……私は、守れたんでしょうか」
すぐには答えられなかった。
守れた、と言えば嘘みたいだった。
守れなかった、と言えば、その言葉は彼女の上に落ちて割れる気がした。
迷っている間に、ムジナが先に口を開いた。
「少なくとも、あなたが全部背負う形は終わった」
「でも、あの人は……」
「うん。消えた」
ムジナは誤魔化さなかった。
織姫は目を伏せた。まつ毛の影が頬に落ちる。彼女の足元には、もう盾の光はない。ただ白い床と、割れた薬瓶の欠片だけがある。
バーゲストが静かに言う。
「今は、答えを急がなくてよいでしょう」
エリスが剣を下ろし、視線を逸らした。
「勝ったのに、全然嬉しくないわね」
「うふふー。こういう勝利もあるんですねぇ」
ルプスレギナの声は軽い。けれど、いつものような毒の濃さは少なかった。
壌竜が白い廊下を見渡す。
「戦いは終わった。だが、残されたものは軽くない」
俺はスマホをポケットにしまう。
画面の黒い光が消えても、指先にはまだ冷たさが残っていた。
「……戻ろう。ここに長くいる場所じゃない」
織姫は最後に、男が消えた場所を見た。
それから、小さく頷く。
「はい……」
白い廊下に、もう盾はなかった。
割れた蛍光灯の下で、井上織姫はただ立っていた。
誰かを守りたかった少女。
守るために縛られ、守るために傷ついた少女。
その契約は、今、俺たちの側へ移った。
けれど、それを勝利と呼ぶには、廃病院の空気はあまりにも冷たかった。