視界が黒く沈み、次に戻ってきたのは、見慣れた天井だった。
廃病院の蛍光灯ではない。俺の部屋の照明だ。少し黄みがかっていて、白すぎない。目に痛くないはずの光なのに、まぶたの裏にはまだ、あの病院の冷たい白が残っていた。
ローテーブル。畳まれた毛布。壁際の棚。読みかけの雑誌。片付け忘れたマグカップ。
どれも、昨日まで当たり前にそこにあったものだ。
なのに、今はどこか作り物みたいに見えた。
「……戻ったです」
デルタの声が、いつもより少し小さかった。
彼女はすぐに跳ねるように動くかと思ったが、今日は鼻をひくつかせただけで、部屋の空気を確かめるように立っていた。
バーゲストが周囲を見回す。
「全員、無事ですね」
「無事、って言っていいのかしらね」
エリスが剣を下ろしながら、壁に背を向けた。腰のあたりで鞘が小さく鳴る。その音だけが妙にはっきり聞こえた。
「身体はね」
ムジナが言った。
彼女は部屋に戻るなり、壁際に背中を預けた。力が抜けたように見えるのに、視線だけは織姫から外していない。
「うふふー……勝ったのに、空気が重いですねぇ」
ルプスレギナは笑っていた。けれど、声の端がいつもより浅い。毒を含む前に、どこかで止めたような笑い方だった。
壌竜が低く返す。
「重くて当然だ」
誰も、それ以上は続けなかった。
井上織姫は、部屋の端に立っていた。
中央には来ない。ローテーブルからも、俺たちからも、ほんの少し距離を取っている。誰かの邪魔にならない場所を探した結果、そこしか残らなかったみたいに、壁際で両手を胸の前に重ねていた。
指先は白い。
まだ盾を張っているような手だった。
「井上」
俺が呼ぶと、織姫は小さく肩を揺らした。
「……はい」
「そこに立ってなくていい」
「でも……」
織姫の視線が床へ落ちる。
廃病院の白い床ではなく、俺の部屋のラグの上だ。だが、彼女の目はそこに何かが残っているかのように動かなかった。
「今は、座ろう」
織姫は返事をしなかった。
俺はスマホを見た。
画面にはまだ、MEDESの表示が残っている。
――ORIHIME INOUE:NEW MASTER REGISTERED
――THIRD MATCH:COMPLETE
勝利の文字は、いつも冷たい。
誰が消えたのかも、どんな顔で消えたのかも、そこには書かれない。ただ結果だけが並ぶ。処理完了。登録完了。次の所有者。新しい契約。
指で画面を消そうとして、少し止まった。
見ているだけで、あの男の最後の声が戻ってくる。
妹を、頼む。
織姫の「はい」が、白い廊下に落ちる音まで。
「見ても何も変わらないよ」
ムジナが壁にもたれたまま言う。
「分かってる」
「分かってても見るんだ」
「見ないと、忘れたみたいになる」
「面倒な性格」
「お互い様だろ」
「私は面倒って言ってるだけ。背負う趣味はない」
ムジナはそう言って、視線を横に流した。
俺は画面を伏せるように、スマホをローテーブルの上に置いた。黒い画面が天井の光をぼんやり映す。その反射が、廃病院の蛍光灯みたいに見えて、すぐに目を逸らした。
「今回、かなり背負ってたように見えたけどな」
「錯覚」
「そういうことにしておきましょう」
バーゲストが静かに言う。
ムジナは、心底面倒そうに片目を細めた。
「バーゲストまでそういう顔するんだ」
「どのような顔でしょうか」
「そういう顔」
「では、覚えておきます」
「覚えなくていい」
やり取りは軽い。
けれど、部屋の空気はまだ動ききらない。窓の外は夜で、ガラスには俺たちの姿が薄く映っている。織姫だけが、少し離れたところにぼんやり立っていた。
彼女はローテーブルの近くまで一歩だけ来た。
でも、座らない。
膝を曲げる寸前で、身体が止まる。指先がまた胸の前で絡む。
「私は……ここにいて、いいんでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
デルタが首を傾げる。
「新しい仲間です?」
「デルタ、少し黙ってなさい」
エリスが短く言う。
「むぅ」
デルタは不満そうに頬を膨らませたが、珍しくそれ以上は言わなかった。
織姫はうつむいたまま続ける。
「私は、あの人を置いてきてしまいました」
その言葉は、部屋の真ん中に落ちたまま転がらなかった。
俺は口を開きかけて、やめた。
守れた。
そう言えば、どれだけ楽だろう。
でも、その言葉を今の織姫に渡したら、きっと綺麗な布みたいに見えて、触れた瞬間に破れてしまう。
守れなかった。
そう言うこともできない。そんな石を、今の彼女の胸に置くことはできなかった。
「今は、答えを出さなくていい」
織姫の顔が少し上がる。
「でも……」
「ここにいていいかどうかを、今決めなくていい」
「……」
「契約は移った。だから今は、ここにいるしかない。なら、せめて立ったまま抱え込むな」
自分で言っていて、少し乱暴だと思った。
でも、綺麗な言葉が見つからなかった。今の俺に出せるのは、せいぜい座れと言うことくらいだった。
「座ってくれ。命令じゃない」
織姫の指が止まった。
「命令じゃ……ないんですか」
「ああ。座るかどうかは、井上が決めていい」
織姫は俺を見る。
その目は、盾の向こうから見ていた時よりも近い。近いはずなのに、まだ触れられない距離がある。
ムジナが壁から背を離さないまま言った。
「全部背負うのは禁止」
織姫が瞬きをする。
「え……?」
「あなた、放っておくと全部自分のせいにしそうだから」
「でも、私は……」
「でもは禁止」
「……」
「守れたかどうかなんて、今すぐ答えが出るわけないでしょ」
織姫の唇が、少しだけ閉じる。
「……はい」
「だから、とりあえず座って。立ったままだと、見てるこっちが疲れる」
「言い方」
エリスがすぐ突っ込んだ。
「優しくしたら泣きそうじゃん」
織姫は困ったように目を瞬かせた。
涙は落ちなかった。
ただ、肩がほんの少し下がった。ずっと張りっぱなしだった糸が、指一本分だけ緩んだように見えた。
「ムジナなりの気遣いだ」
「勝手に翻訳しないで」
ムジナは顔をそむける。
バーゲストが前へ出た。
その動きは静かで、織姫を急かさない。剣を持つ者の歩き方なのに、今は病室の扉を開ける看護師みたいに慎重だった。
「井上織姫。今は休息を取るべきです」
「でも、私……」
「戦いの直後に答えを出そうとすれば、傷口を広げます」
「傷口……」
「見えない傷も、無理に動かせば開きます」
織姫は自分の胸元を見た。
そこに傷はない。けれど、彼女の指はしばらく動かなかった。
エリスは少し離れた場所で腕を組んでいた。織姫を見て、目を逸らし、それからまた見る。
「あと、謝りすぎ」
「え?」
「何でもかんでも謝ってたら、何に謝ってるのか分からなくなるわ」
「……すみま」
「ほら」
「あ……」
織姫が口元を押さえる。
エリスは鼻を鳴らした。
「別に謝るなって言ってるわけじゃないけど。今は、少し黙って座ればいいんじゃない?」
「エリスも言い方」
ムジナが言う。
「あなたに言われたくないわ」
そのやり取りに、デルタの耳がぴくりと動いた。
彼女は織姫の前に回り込むようにして、じっと顔を覗き込む。
「ご飯食べるです?」
「ご飯……?」
「お腹空くと元気なくなるです。デルタは知ってるです」
自信満々だった。
織姫は目を丸くしたまま、返事に困っている。
ルプスレギナが口元を押さえて笑った。
「うふふー。すごく単純ですけど、こういう時は案外大事かもしれませんよぉ」
「デルタは正しいです」
「はいはい、正しいですねぇ」
「ルプスレギナ、返事が雑です」
「うふふー、ばれました?」
いつもの調子に戻りかけた二人を、壌竜の低い声が静かに受け止める。
「失われたものは軽くない。だが、残った者が倒れてよい理由にもならぬ」
織姫は、全員を見る。
夢主である俺。
壁際のムジナ。
静かに立つバーゲスト。
腕を組むエリス。
耳と尻尾を動かすデルタ。
薄く笑うルプスレギナ。
床に根を張るように佇む壌竜。
織姫はまだ笑わなかった。
それでよかった。
今ここで笑われたら、たぶん俺の方が苦しくなる。
彼女はゆっくりと、ローテーブルの前に座った。
正座ではない。膝にまだ少し力が入っていて、いつでも立てるような座り方だった。けれど、壁際ではない。
テーブルの前だった。
それだけで、部屋の景色が少しだけ変わった。
「無理に話さなくていい」
「……はい」
「ただ、ここでは一人で全部決めなくていい」
「一人で……」
「俺も全部決められるわけじゃない。だから、みんなに任せることもある」
「任せられる側は面倒だけどね」
ムジナがぼそっと言う。
「頼りにしてる」
「そういう返しが一番面倒」
「ですが、悪くはありません」
バーゲストが真面目に言う。
「変な主よね」
エリスが横目で俺を見る。
「うふふー。そこは同意ですねぇ」
「仮ボスは変です」
「集中砲火やめろ」
言った瞬間、織姫がほんの少しだけ目を瞬かせた。
笑ったわけではない。
けれど、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ横へ流れた。閉じきっていた窓の隙間から、夜風が一筋入ったみたいに。
それから、また静かになった。
テーブルの上には、水の入ったコップがある。誰も手をつけていない。表面に部屋の明かりが揺れている。俺はそれを見ながら、あの白い廊下に落ちた黒いノイズを思い出していた。
織姫が、小さく口を開く。
「あの人の妹さんは……」
「ああ」
「私は、約束しました。忘れないって」
その声は、もう盾の向こうの声ではなかった。
すぐ隣ではない。まだ遠い。でも、同じ部屋の中にある声だった。
「俺も忘れない」
織姫が顔を上げる。
「今すぐ何ができるかは分からない。MEDESが情報を出すとも限らない」
「……はい」
「でも、忘れない。勝って終わりにはしない」
ムジナが息を吐く。
「できることがあるかは別だけどね」
「それも分かってる」
「分かってて言うんだ」
「言わないと、忘れたみたいになる」
「やっぱり面倒」
ムジナはそう言って、目を閉じた。
織姫の胸の前で絡まっていた指が、少しだけほどける。完全ではない。すぐまた握りしめてしまいそうなほど頼りない。
でも、ほどけた。
夜の部屋は静かだった。
スマホは画面を伏せて置かれている。黒い画面はもう何も映していない。デルタは台所の方をちらちら見ている。エリスは織姫から目を逸らしたまま、耳だけこちらを向けている。バーゲストは窓の外を見ている。ムジナは壁にもたれ、ルプスレギナは笑わずに爪先を揺らしている。壌竜は黙って、床の上に座る織姫を見ていた。
勝利は、部屋を明るくしなかった。
新しい仲間が増えたのに、誰もそれを祝えなかった。
ただ、井上織姫は壁際ではなく、テーブルの前に座っていた。
それだけだった。
けれど今夜は、それだけでよかったのかもしれない。
「今日は休もう」
「……はい」
織姫が頷く。
「寝られるかは別だけどね」
ムジナが余計なことを言う。
「余計なこと言わない」
エリスが即座に返す。
「事実」
「事実でも言わなくていいことがあるのよ」
「眠れずとも、身体を横にすることはできます」
バーゲストが落ち着いた声で言う。
「ご飯食べてから寝るです」
デルタが力強く付け加えた。
「うふふー。まずはそこからですねぇ」
ルプスレギナがようやくいつもの調子に少し近い笑みを浮かべる。
織姫はもう一度、小さく頷いた。
笑顔ではなかった。
けれど、さっきより少しだけ、呼吸が深くなった。
白い廊下の冷たさは、まだ消えない。
消えた男の声も、織姫の問いも、俺の指先に残っている。
それでも、彼女は今、ここに座っている。
答えの出ない夜を、一人ではなく迎えるために。