※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

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優しさの後悔

 視界が黒く沈み、次に戻ってきたのは、見慣れた天井だった。

 

 廃病院の蛍光灯ではない。俺の部屋の照明だ。少し黄みがかっていて、白すぎない。目に痛くないはずの光なのに、まぶたの裏にはまだ、あの病院の冷たい白が残っていた。

 

 ローテーブル。畳まれた毛布。壁際の棚。読みかけの雑誌。片付け忘れたマグカップ。

 

 どれも、昨日まで当たり前にそこにあったものだ。

 

 なのに、今はどこか作り物みたいに見えた。

 

「……戻ったです」

 

 デルタの声が、いつもより少し小さかった。

 

 彼女はすぐに跳ねるように動くかと思ったが、今日は鼻をひくつかせただけで、部屋の空気を確かめるように立っていた。

 

 バーゲストが周囲を見回す。

 

「全員、無事ですね」

 

「無事、って言っていいのかしらね」

 

 エリスが剣を下ろしながら、壁に背を向けた。腰のあたりで鞘が小さく鳴る。その音だけが妙にはっきり聞こえた。

 

「身体はね」

 

 ムジナが言った。

 

 彼女は部屋に戻るなり、壁際に背中を預けた。力が抜けたように見えるのに、視線だけは織姫から外していない。

 

「うふふー……勝ったのに、空気が重いですねぇ」

 

 ルプスレギナは笑っていた。けれど、声の端がいつもより浅い。毒を含む前に、どこかで止めたような笑い方だった。

 

 壌竜が低く返す。

 

「重くて当然だ」

 

 誰も、それ以上は続けなかった。

 

 井上織姫は、部屋の端に立っていた。

 

 中央には来ない。ローテーブルからも、俺たちからも、ほんの少し距離を取っている。誰かの邪魔にならない場所を探した結果、そこしか残らなかったみたいに、壁際で両手を胸の前に重ねていた。

 

 指先は白い。

 

 まだ盾を張っているような手だった。

 

「井上」

 

 俺が呼ぶと、織姫は小さく肩を揺らした。

 

「……はい」

 

「そこに立ってなくていい」

 

「でも……」

 

 織姫の視線が床へ落ちる。

 

 廃病院の白い床ではなく、俺の部屋のラグの上だ。だが、彼女の目はそこに何かが残っているかのように動かなかった。

 

「今は、座ろう」

 

 織姫は返事をしなかった。

 

 俺はスマホを見た。

 

 画面にはまだ、MEDESの表示が残っている。

 

 ――ORIHIME INOUE:NEW MASTER REGISTERED

 ――THIRD MATCH:COMPLETE

 

 勝利の文字は、いつも冷たい。

 

 誰が消えたのかも、どんな顔で消えたのかも、そこには書かれない。ただ結果だけが並ぶ。処理完了。登録完了。次の所有者。新しい契約。

 

 指で画面を消そうとして、少し止まった。

 

 見ているだけで、あの男の最後の声が戻ってくる。

 

 妹を、頼む。

 

 織姫の「はい」が、白い廊下に落ちる音まで。

 

「見ても何も変わらないよ」

 

 ムジナが壁にもたれたまま言う。

 

「分かってる」

 

「分かってても見るんだ」

 

「見ないと、忘れたみたいになる」

 

「面倒な性格」

 

「お互い様だろ」

 

「私は面倒って言ってるだけ。背負う趣味はない」

 

 ムジナはそう言って、視線を横に流した。

 

 俺は画面を伏せるように、スマホをローテーブルの上に置いた。黒い画面が天井の光をぼんやり映す。その反射が、廃病院の蛍光灯みたいに見えて、すぐに目を逸らした。

 

「今回、かなり背負ってたように見えたけどな」

 

「錯覚」

 

「そういうことにしておきましょう」

 

 バーゲストが静かに言う。

 

 ムジナは、心底面倒そうに片目を細めた。

 

「バーゲストまでそういう顔するんだ」

 

「どのような顔でしょうか」

 

「そういう顔」

 

「では、覚えておきます」

 

「覚えなくていい」

 

 やり取りは軽い。

 

 けれど、部屋の空気はまだ動ききらない。窓の外は夜で、ガラスには俺たちの姿が薄く映っている。織姫だけが、少し離れたところにぼんやり立っていた。

 

 彼女はローテーブルの近くまで一歩だけ来た。

 

 でも、座らない。

 

 膝を曲げる寸前で、身体が止まる。指先がまた胸の前で絡む。

 

「私は……ここにいて、いいんでしょうか」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 

 デルタが首を傾げる。

 

「新しい仲間です?」

 

「デルタ、少し黙ってなさい」

 

 エリスが短く言う。

 

「むぅ」

 

 デルタは不満そうに頬を膨らませたが、珍しくそれ以上は言わなかった。

 

 織姫はうつむいたまま続ける。

 

「私は、あの人を置いてきてしまいました」

 

 その言葉は、部屋の真ん中に落ちたまま転がらなかった。

 

 俺は口を開きかけて、やめた。

 

 守れた。

 

 そう言えば、どれだけ楽だろう。

 

 でも、その言葉を今の織姫に渡したら、きっと綺麗な布みたいに見えて、触れた瞬間に破れてしまう。

 

 守れなかった。

 

 そう言うこともできない。そんな石を、今の彼女の胸に置くことはできなかった。

 

「今は、答えを出さなくていい」

 

 織姫の顔が少し上がる。

 

「でも……」

 

「ここにいていいかどうかを、今決めなくていい」

 

「……」

 

「契約は移った。だから今は、ここにいるしかない。なら、せめて立ったまま抱え込むな」

 

 自分で言っていて、少し乱暴だと思った。

 

 でも、綺麗な言葉が見つからなかった。今の俺に出せるのは、せいぜい座れと言うことくらいだった。

 

「座ってくれ。命令じゃない」

 

 織姫の指が止まった。

 

「命令じゃ……ないんですか」

 

「ああ。座るかどうかは、井上が決めていい」

 

 織姫は俺を見る。

 

 その目は、盾の向こうから見ていた時よりも近い。近いはずなのに、まだ触れられない距離がある。

 

 ムジナが壁から背を離さないまま言った。

 

「全部背負うのは禁止」

 

 織姫が瞬きをする。

 

「え……?」

 

「あなた、放っておくと全部自分のせいにしそうだから」

 

「でも、私は……」

 

「でもは禁止」

 

「……」

 

「守れたかどうかなんて、今すぐ答えが出るわけないでしょ」

 

 織姫の唇が、少しだけ閉じる。

 

「……はい」

 

「だから、とりあえず座って。立ったままだと、見てるこっちが疲れる」

 

「言い方」

 

 エリスがすぐ突っ込んだ。

 

「優しくしたら泣きそうじゃん」

 

 織姫は困ったように目を瞬かせた。

 

 涙は落ちなかった。

 

 ただ、肩がほんの少し下がった。ずっと張りっぱなしだった糸が、指一本分だけ緩んだように見えた。

 

「ムジナなりの気遣いだ」

 

「勝手に翻訳しないで」

 

 ムジナは顔をそむける。

 

 バーゲストが前へ出た。

 

 その動きは静かで、織姫を急かさない。剣を持つ者の歩き方なのに、今は病室の扉を開ける看護師みたいに慎重だった。

 

「井上織姫。今は休息を取るべきです」

 

「でも、私……」

 

「戦いの直後に答えを出そうとすれば、傷口を広げます」

 

「傷口……」

 

「見えない傷も、無理に動かせば開きます」

 

 織姫は自分の胸元を見た。

 

 そこに傷はない。けれど、彼女の指はしばらく動かなかった。

 

 エリスは少し離れた場所で腕を組んでいた。織姫を見て、目を逸らし、それからまた見る。

 

「あと、謝りすぎ」

 

「え?」

 

「何でもかんでも謝ってたら、何に謝ってるのか分からなくなるわ」

 

「……すみま」

 

「ほら」

 

「あ……」

 

 織姫が口元を押さえる。

 

 エリスは鼻を鳴らした。

 

「別に謝るなって言ってるわけじゃないけど。今は、少し黙って座ればいいんじゃない?」

 

「エリスも言い方」

 

 ムジナが言う。

 

「あなたに言われたくないわ」

 

 そのやり取りに、デルタの耳がぴくりと動いた。

 

 彼女は織姫の前に回り込むようにして、じっと顔を覗き込む。

 

「ご飯食べるです?」

 

「ご飯……?」

 

「お腹空くと元気なくなるです。デルタは知ってるです」

 

 自信満々だった。

 

 織姫は目を丸くしたまま、返事に困っている。

 

 ルプスレギナが口元を押さえて笑った。

 

「うふふー。すごく単純ですけど、こういう時は案外大事かもしれませんよぉ」

 

「デルタは正しいです」

 

「はいはい、正しいですねぇ」

 

「ルプスレギナ、返事が雑です」

 

「うふふー、ばれました?」

 

 いつもの調子に戻りかけた二人を、壌竜の低い声が静かに受け止める。

 

「失われたものは軽くない。だが、残った者が倒れてよい理由にもならぬ」

 

 織姫は、全員を見る。

 

 夢主である俺。

 

 壁際のムジナ。

 

 静かに立つバーゲスト。

 

 腕を組むエリス。

 

 耳と尻尾を動かすデルタ。

 

 薄く笑うルプスレギナ。

 

 床に根を張るように佇む壌竜。

 

 織姫はまだ笑わなかった。

 

 それでよかった。

 

 今ここで笑われたら、たぶん俺の方が苦しくなる。

 

 彼女はゆっくりと、ローテーブルの前に座った。

 

 正座ではない。膝にまだ少し力が入っていて、いつでも立てるような座り方だった。けれど、壁際ではない。

 

 テーブルの前だった。

 

 それだけで、部屋の景色が少しだけ変わった。

 

「無理に話さなくていい」

 

「……はい」

 

「ただ、ここでは一人で全部決めなくていい」

 

「一人で……」

 

「俺も全部決められるわけじゃない。だから、みんなに任せることもある」

 

「任せられる側は面倒だけどね」

 

 ムジナがぼそっと言う。

 

「頼りにしてる」

 

「そういう返しが一番面倒」

 

「ですが、悪くはありません」

 

 バーゲストが真面目に言う。

 

「変な主よね」

 

 エリスが横目で俺を見る。

 

「うふふー。そこは同意ですねぇ」

 

「仮ボスは変です」

 

「集中砲火やめろ」

 

 言った瞬間、織姫がほんの少しだけ目を瞬かせた。

 

 笑ったわけではない。

 

 けれど、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ横へ流れた。閉じきっていた窓の隙間から、夜風が一筋入ったみたいに。

 

 それから、また静かになった。

 

 テーブルの上には、水の入ったコップがある。誰も手をつけていない。表面に部屋の明かりが揺れている。俺はそれを見ながら、あの白い廊下に落ちた黒いノイズを思い出していた。

 

 織姫が、小さく口を開く。

 

「あの人の妹さんは……」

 

「ああ」

 

「私は、約束しました。忘れないって」

 

 その声は、もう盾の向こうの声ではなかった。

 

 すぐ隣ではない。まだ遠い。でも、同じ部屋の中にある声だった。

 

「俺も忘れない」

 

 織姫が顔を上げる。

 

「今すぐ何ができるかは分からない。MEDESが情報を出すとも限らない」

 

「……はい」

 

「でも、忘れない。勝って終わりにはしない」

 

 ムジナが息を吐く。

 

「できることがあるかは別だけどね」

 

「それも分かってる」

 

「分かってて言うんだ」

 

「言わないと、忘れたみたいになる」

 

「やっぱり面倒」

 

 ムジナはそう言って、目を閉じた。

 

 織姫の胸の前で絡まっていた指が、少しだけほどける。完全ではない。すぐまた握りしめてしまいそうなほど頼りない。

 

 でも、ほどけた。

 

 夜の部屋は静かだった。

 

 スマホは画面を伏せて置かれている。黒い画面はもう何も映していない。デルタは台所の方をちらちら見ている。エリスは織姫から目を逸らしたまま、耳だけこちらを向けている。バーゲストは窓の外を見ている。ムジナは壁にもたれ、ルプスレギナは笑わずに爪先を揺らしている。壌竜は黙って、床の上に座る織姫を見ていた。

 

 勝利は、部屋を明るくしなかった。

 

 新しい仲間が増えたのに、誰もそれを祝えなかった。

 

 ただ、井上織姫は壁際ではなく、テーブルの前に座っていた。

 

 それだけだった。

 

 けれど今夜は、それだけでよかったのかもしれない。

 

「今日は休もう」

 

「……はい」

 

 織姫が頷く。

 

「寝られるかは別だけどね」

 

 ムジナが余計なことを言う。

 

「余計なこと言わない」

 

 エリスが即座に返す。

 

「事実」

 

「事実でも言わなくていいことがあるのよ」

 

「眠れずとも、身体を横にすることはできます」

 

 バーゲストが落ち着いた声で言う。

 

「ご飯食べてから寝るです」

 

 デルタが力強く付け加えた。

 

「うふふー。まずはそこからですねぇ」

 

 ルプスレギナがようやくいつもの調子に少し近い笑みを浮かべる。

 

 織姫はもう一度、小さく頷いた。

 

 笑顔ではなかった。

 

 けれど、さっきより少しだけ、呼吸が深くなった。

 

 白い廊下の冷たさは、まだ消えない。

 

 消えた男の声も、織姫の問いも、俺の指先に残っている。

 

 それでも、彼女は今、ここに座っている。

 

 答えの出ない夜を、一人ではなく迎えるために。

 

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