夜は、まだ終わっていなかった。
時計の針は進んでいる。部屋の明かりも変わらない。窓の外には、街の薄い光が滲んでいる。けれど、俺の部屋にはまだ、廃病院の白さが残っていた。
ローテーブルの上に置かれたコップの水が、天井の光を受けて小さく揺れている。
スマホは画面を伏せてある。
黒い画面を見なくても、そこにMEDESがあることは分かる。ポケットに入れていなくても、机に置いていても、あれはずっと俺たちの真ん中にある。ゲームの管理者みたいに、命の数を数えている。
織姫は、テーブルの前に座っていた。
さっきまで壁際に立っていたことを思えば、それだけで大きな違いだ。けれど、座り方はまだ固い。膝の上で手を重ね、背筋はまっすぐ伸びている。いつでも立てるように、身体のどこかに力が残っている。
コップは、彼女のすぐ前にある。
水面に映った光が揺れるたび、織姫の指先もほんの少し動く。だが、その手はコップまで届かない。伸ばしかけて、止まる。引っ込める。もう一度伸ばしかけて、また止まる。
「お水、飲まないです?」
デルタが不思議そうに首を傾げた。
織姫は弾かれたように顔を上げる。
「あ……すみま――」
「また」
エリスの声が、それを切った。
織姫が瞬きをする。
「え?」
「また謝ろうとした」
エリスは壁に立てかけていた剣の近くにいた。腕を組んで、少し離れた場所から織姫を見ている。睨んでいる、というには目がまっすぐすぎた。けれど、優しく見守るというには、眉間に皺が寄りすぎている。
デルタが耳をぴくりと動かす。
「謝るです?」
「デルタは向こう行ってなさい」
「むぅ。デルタもお話できるです」
「今はしなくていいの」
「デルタ、駄目です?」
デルタの尻尾が少し下がる。
ルプスレギナが、すっとその背後に回った。
「うふふー。デルタちゃん、こっちで夜食の相談でもしましょうかぁ」
「夜食!」
尻尾が一気に上がった。
「何を食べるです?」
「そこから一緒に悩みましょうねぇ」
「悩むのは大事です!」
デルタはルプスレギナに連れられて、台所の方へ行った。単純すぎる。けれど、その単純さがなければ、部屋の空気はずっと固まったままだった気がする。
織姫は少しだけ視線を落とした。
取り残された、というより、自分が会話の邪魔をしたのではないかと探しているような目だった。
エリスが、ローテーブルの近くへ歩いてくる。
正面には座らなかった。
織姫の斜め向かい。近いけれど、逃げ道を塞がない位置。エリスがそこまで考えたのか、それとも単に真正面から話すのが気まずかったのかは分からない。たぶん、両方だ。
「謝りすぎ」
エリスが言った。
織姫は反射みたいに口を開く。
「……すみません」
「ほら」
「あ……」
織姫は口元を押さえた。
エリスは腕を組み直す。視線は織姫から少し外れて、コップの水へ向いていた。
「別に謝るなって言ってるわけじゃないけど。何でも謝ってたら、何に謝ってるのか分からなくなるわ」
「私は……たくさん、間違えた気がして」
「なら、全部まとめて謝るの?」
織姫の指が、膝の上で縮こまる。
「……分かりません」
「分からないなら、今は謝らなくていいんじゃない?」
エリスの言い方は硬い。
慰めるための柔らかい布じゃない。剣の柄みたいに、ごつごつしている。でも、その言葉は織姫を斬ろうとしていなかった。むしろ、倒れないように無理やり支柱を立てているみたいだった。
俺は少し離れた場所で二人を見ていた。
口を出しかけて、やめる。
今、俺が何かを言えば、織姫はきっと俺の方を見る。主の言葉として受け取ってしまう。それはたぶん、今じゃない。
隣にバーゲストが来た。
「止めますか?」
「いや。エリスに任せる」
「厳しい言葉になりますよ」
「たぶん、必要な言葉だ」
バーゲストは小さく頷いた。
「彼女自身にも、刺さる言葉でしょう」
「ああ」
エリスの手が、腕の上で少しだけ動いた。
織姫を見る。剣を見る。また織姫を見る。
その視線の動きだけで、何かが喉の奥に引っかかっているのが分かった。二回戦で、前のマスターの命令に剣筋を歪められていた時のこと。あの瞬間の自分を、エリスはまだ剣の重さとして持っているのかもしれない。
織姫が小さく言う。
「でも、私は命令されて……逆らえなくて……」
エリスの手が止まった。
部屋の中で、どこかの時計が一つだけ音を立てた。
エリスはすぐには答えなかった。視線が壁に立てかけた剣へ向かう。鞘の黒い線が、部屋の明かりを細く弾いていた。
「命令されたからって、全部あんたのせいになるわけじゃない」
低い声だった。
織姫は顔を上げる。
「……」
「でも、次にどうするかまで、誰かのせいにはできない」
「次……」
「次に謝るのか、止めるのか、立つのか、座るのか。それくらいは、自分で決めなさい」
織姫は言葉を探すように、膝の上の手を見た。
「自分で……」
「そう。変な主も言ってたでしょ。命令じゃないって」
「変な主って俺のことか」
つい口を挟んでしまった。
エリスは横目でこっちを見る。
「他にいる?」
ムジナが壁際からぼそっと言う。
「一応、候補はいっぱいいるけどね」
「増やすな」
「自覚あるんだ」
「ないとは言い切れなくなってきた」
「ほら」
ムジナの声は相変わらず気だるい。エリスは小さく鼻を鳴らし、織姫は何度か瞬きをした。
笑ったわけではない。
けれど、張り詰めていた肩が少しだけ下がる。息が浅く詰まっていた胸に、ようやく細い隙間ができたように見えた。
織姫はもう一度、何かを言おうとした。
口が「す」の形になりかける。
そこで止まった。
小さく唇を閉じる。
「……はい」
エリスが眉を上げる。
「何が、はい?」
「今は……謝りません」
「そう」
「でも、忘れません」
エリスは少しだけ目を伏せた。
「それでいいんじゃない」
「いいんでしょうか」
「私に聞かないで。自分で決めなさいって言ったでしょ」
「……はい」
「その、はいはいいわ」
織姫は戸惑ったように目を上げる。
エリスはすぐに視線を逸らした。照れ隠しみたいに、腕を組む力が強くなる。
ムジナが小さく言う。
「分かりづらい合格判定」
「聞こえてるわよ」
「聞こえるように言ったし」
「性格悪いわね」
「今さら?」
そのやり取りに、織姫はまた瞬きをした。
今度は、少しだけ目元が緩んだように見えた。笑顔には届かない。けれど、涙とも違う。固く閉じていた窓が、ほんの数ミリだけ開いたみたいだった。
エリスはローテーブルの上のコップを見た。
それから、指先でコップを織姫の方へ少し押す。
水面が揺れる。
「謝る代わりに、飲みなさい」
「え?」
「デルタじゃないけど。倒れたら余計に面倒でしょ」
「エリスも面倒って言うようになった」
ムジナが即座に拾う。
「うるさい」
「影響されてる」
「うるさいって言ってるでしょ」
エリスの耳が少し赤くなった気がしたが、気づかなかったことにした。
織姫はコップを見る。
両手を伸ばす。今度は、途中で止まらなかった。
ガラスのコップを包むように持つ。指先はまだ白い。水面は小さく震えている。コップの中の光が、織姫の頬に淡く揺れた。
彼女は、ゆっくりと一口だけ水を飲んだ。
たった一口だった。
それだけで何かが解決するわけじゃない。
消えた男は戻らない。白い廊下の冷たさも、スマホの黒い画面も、今夜のうちに消えてくれるわけではない。
けれど、織姫の喉が小さく動いた。
その動きが、やけにはっきり見えた。
戦場で盾を張り続けていた少女が、今はこの部屋で、コップを持って水を飲んでいる。
それだけだった。
でも、それだけを見て、俺はようやく少し息を吐いた。
「それでいいんじゃない」
エリスが言う。
織姫はコップを両手で持ったまま、小さく頷いた。
「……はい」
「あと、次からは謝る前に水飲みなさい」
「それは……少し難しいかもしれません」
「じゃあ練習ね」
「練習……」
「謝らない練習」
織姫は、コップの縁を親指でなぞった。
「……できるか、分かりません」
「できるまでやればいいんじゃない?」
「エリスさんは、厳しいですね」
「さんはいらないわ」
「あ……はい。エリス」
「それでいい」
エリスは立ち上がった。
織姫に背を向け、壁に立てかけた剣の方へ戻る。途中で少しだけ足を止めた。振り返りはしない。
「次は、自分で決めなさい」
織姫はコップを持ったまま、彼女の背中を見ていた。
「……はい」
「その、はいも悪くないわ」
エリスはそれだけ言って、剣の傍へ戻った。
部屋に、また夜の音が戻る。
台所の方から、デルタが「夜食はお肉がいいです」と言い、ルプスレギナが「この時間に重いですねぇ」と笑っている。ムジナは壁にもたれたまま、片目を閉じている。バーゲストは窓際で静かに立ち、壌竜は床に落ちた水滴を指で拭った。
織姫はまだ笑わない。
でも、コップを置かなかった。
両手で持ったまま、水面を見ている。半分も減っていないその水に、部屋の明かりが揺れている。
夜はまだ終わらない。
答えも出ていない。
井上織姫の手には、半分も減っていないコップがある。
それでも彼女は、一口だけ水を飲んだ。
謝る代わりに。
誰かの命令ではなく、自分の手で。