スマホの黒い画面に、無機質な勝利表示が残っていた。
――BATTLE ENDED
――WINNER : OWNER 01
――CONTRACTED SUBJECT “BARGHEST” TRANSFER COMPLETE
――CURRENT OWNED SUBJECTS : 02
デルタ。
バーゲスト。
二つの名前が、同じ並びに収まっている。
さっきまで敵だった相手が、今はもうこちらの契約体として処理されている。その事実が、頭のどこかでは理解できるのに、感覚の方が置き去りにされていた。壊れた街灯の火花が、弱々しく足元のガラス片を照らしている。砕けた自販機からはまだ炭酸の甘い匂いが漏れていて、戦いの直後だというのに、やけに生活感のある匂いが混じっているのが気味悪かった。
デルタが爪を下ろした先で、敵のマスターは地面へ崩れたまま動かなかった。首筋に浅い傷がある。出血は多くない。殺してはいない。俺がそう指示したからだし、デルタもそこはきちんと抑えていた。
だから、もう終わったはずだった。
「……仮ボス」
デルタの声が、少しだけ低い。
顔を上げると、黒い耳がぴんと立っていた。さっきまでの勝ちを確信した顔じゃない。匂いを拾っている時の顔だ。獣の勘が、何か別の異常を先に察したらしい。
「何だ」
「変です」
短い言葉とほぼ同時に、地面へ倒れていた男が、ひゅっと喉を鳴らした。
肩が跳ねる。指先が痙攣する。次いで、咳き込むみたいに身体を丸めながら、ゆっくりと上体を起こした。呼吸が荒い。目の焦点も定まっていない。デルタの一撃で意識を失っていただけなら、ここでうずくまって終わるはずだ。なのに、様子がおかしい。起き上がろうとしているのに、手足が自分のものじゃないみたいな、そんなぎこちなさがある。
「……は」
男はまず、自分の手を見た。
次に、膝をついたまま、周囲を見回す。砕けたガラス。ひしゃげたシャッター。倒れた街灯。バーゲスト。デルタ。そして俺。全部を見たあとで、ようやく自分のスマホへ気づいたらしい。少し離れた場所へ落ちていたそれを、這うようにして拾い上げる。
暗い画面が、彼の顔を下から照らした。
「……な、んだよ」
呟きは、掠れていた。
俺には画面の中までは見えない。けれど、男の顔色だけで十分だった。血の気が引いていく。唇が震える。さっきまでこちらを見下ろすように笑っていた人間と、同一人物には見えない。
「待て……いや、待てって」
指が何度も画面を叩く。反応しないらしい。電源を落とそうとしているのか、何かの項目を開こうとしているのか、こっちには分からない。ただ、何をしても状況が好転しないことだけは、すぐに伝わった。
「おい、バーゲスト!」
声が裏返る。
「戻れよ。なあ、おい、ふざけんな、何だこれ、何でだよ!」
叫びながら顔を上げる。だが、向けた先のバーゲストはもう彼のものではない。銀の剣を下ろしたまま、静かにその姿を見ている。怒りや同情を見せるより先に、現実を確かめている目だった。
男はそこで、ようやく何が起きたのか理解したらしい。
いや、理解したというより、理解したくない事実が喉へ引っかかって、無理やり飲み込まされたような顔だった。
「嘘だろ……」
その一言が、夜気へ滲む。
俺のスマホが、そこでまた微かに震えた。
嫌な予感しかしない。見たくないと思いながらも、視線は勝手に画面へ落ちていた。勝利表示の下へ、新しい一文が追加されている。
――PREVIOUS OWNER LINK LOST
――ERASURE PROCESS INITIATED
頭の奥が、ひどく冷えた。
消去処理、開始。
最初にMEDESを見た時、確かに書かれていた。敗北。あるいはアプリ喪失。そうなれば所有者は消滅し、その契約体もまた消えると。けれど、ルールとして知っているのと、目の前で始まるのを見るのは別だ。
「……おい」
呼びかけた声が、自分でも情けないくらい掠れた。
男は俺の方を見た。目は大きく見開かれているのに、焦点が揺れている。その端で、何か白いものがちらついた。
最初は街灯の火花かと思った。だが違う。男の肩口だ。服の繊維の上、輪郭のきわから、細かな光がほどけるみたいに零れている。粉とも違う。煙とも違う。夜の中でだけ見える、細い糸のような光だ。
それが、肩から、腕から、少しずつほどけていく。
「……え?」
男自身も、その異常に気づいたらしい。慌てて肩を払う。だが、払った手の甲からも同じように光がこぼれた。払えば払うほど、崩れた輪郭が目立つ。
「何だよ、これ……」
声が震えている。恐怖を堪えきれず、言葉の最後が潰れる。
彼は立ち上がろうとした。けれど、膝へ力が入らない。支えようとした腕の輪郭が、そこでぶつりと途切れたみたいに薄くなる。骨や肉が見えるわけじゃない。ただ、そこにあるはずの密度だけが抜けて、夜気へ溶けていく。
俺は半歩、前へ出ていた。
何ができるかなんて分からない。分からないのに、ただ見ているだけでいいはずがなかった。けれど、その腕をデルタが横から掴む。
「駄目です」
「でも――」
「触るな、です」
いつもより低い声だった。警戒というより、本能的な制止に近い。デルタは男から目を逸らさないまま、俺の手首だけを強く引いた。
「薄くなってるです」
「薄く?」
「匂いも、気配も、形もです。壊れてるです」
言葉が簡潔すぎて、かえって現実味が増す。
男はなおもスマホを叩いていた。電源を切ろうとしている。画面を割る勢いで叩きつける。だが、暗い光は消えない。それどころか、ひびの入った画面の内側から白い筋が走り、彼の指先へ絡みつくみたいに広がっていく。
「やめろ……やめろって……!」
今度の声は、完全に悲鳴だった。
「嫌だ、こんなの聞いてない、こんなの――」
そこまで言いかけて、言葉が止まる。喉の辺りが、ふっと白く透けたのだ。肌色が抜け、向こうの街灯の明かりがかすかに通る。いや、透ける、というのも違う。絵の具を水で流したみたいに、そこだけ存在が薄くなっていく。
見たことがない。見たくもない光景だった。
生きた人間が消える場面を、想像したことはあっても、こんなふうだと思ったことはない。血が噴くわけでも、骨が砕けるわけでもない。ただ、世界から削られていく。輪郭の線だけを残して、中身から白く抜かれていく。その静かな壊れ方が、余計に恐ろしかった。
「バーゲスト!」
男が叫ぶ。
その呼びかけに、バーゲストはぴくりとまぶたを動かした。だが、一歩は出ない。
「助けろ! おい、何とかしろ! おまえ、俺の――」
そこで言葉が千切れた。
俺の。
その続きを言おうとした舌先が、音になる前に白くほどけたのだ。
男は自分の口元へ触れる。指先も、もう形が危うい。頬を伝った汗も、首筋に残った血も、光に触れた端から消えていく。
「……う、そ、だろ」
小さくなった声は、泣きそうだった。
バーゲストが、そこで初めて口を開く。
「これは、MEDESの処理でしょう」
静かな声だった。冷酷というより、受け止めるしかない現実を言葉へした時の重さに近い。
「所有権が移った時点で、あなたは盤面から外れた」
男は首を振る。必死に。子供みたいに。
「そんなわけ……あるか……」
「あなたは、他人へそうなる可能性を前提にして戦っていたはずです」
バーゲストの声に責める色は薄い。けれど、容赦はなかった。彼女自身もまた、このルールの一部として使われ、縛られてきたからだろう。甘く慰める言葉を持ち出す気にはなれないのかもしれない。
男はそれを聞いて、初めてバーゲストを睨んだ。怒りというより、裏切られた人間の顔だった。
「……おまえ、俺に従ってたじゃねぇか」
「契約があったからです」
その返答は、剣より鋭かった。
男の目が揺れる。
「嫌がってるの、分かってた……でも、おまえは逆らわなかった……」
「逆らえなかった」
バーゲストは一拍だけ間を置いた。
「今は違う。それだけです」
それ以上の言葉はなかった。
男の肩から胸へかけて、一気に崩れが広がる。服ごと、肌ごと、輪郭を保てなくなっていく。白い光は粉雪みたいに舞い上がるのに、空気の中で消える音すらない。あまりに静かだ。静かすぎて、見ている側の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。
俺は無意識に、スマホを握る手へ力を込めていた。
こんなものを使っている。
こんなものを、俺は今、手にしている。
勝たなければやられる。そう理解していても、目の前で“消去”の実態を見せつけられると、理屈だけでは済まない。俺がバーゲストを奪った。その結果、この男は消える。そういう構図が、いくらMEDESのせいでも、無関係の顔では立っていられなかった。
「……止められないのか」
気づけば、そんなことを口にしていた。誰に向けた問いだったのか、自分でも分からない。MEDESにか、バーゲストにか、あるいは自分自身にか。
バーゲストは答えない。
代わりに、デルタが小さく鼻を鳴らした。
「無理です」
「……そんな簡単に言うな」
「簡単じゃないです。でも、もう切れてるです」
デルタの紫の瞳が、男ではなく、俺の手の中のスマホを見ていた。
「仮ボスが取った瞬間に、あいつの匂いはこのゲームから外れたです。今のは、そのあとを消してるだけです」
その言い方の正確さが、ぞっとするほど嫌だった。
ゲームから外れた。
あとを消しているだけ。
ルールにされると、人の終わりはこんなにも簡単な文章になるのか。
男はまだ諦めていなかった。いや、諦められないのだろう。残った片手で地面を掻き、こちらへ這い寄ろうとする。だが、その手のひらが石畳へ触れたところで、指先から先が崩れた。掴むことができない。爪が、皮膚が、骨の代わりに白い光へ変わって、夜の空気へほどけていく。
「たすけ……」
その声が、胸に引っかかった。
助けてくれ、と言いたかったんだろう。
けれど、最後まで言葉にならない。
口の輪郭がまた薄くなる。頬が抜ける。片目が光の中へ沈む。生きた人間の顔が、そのまま記憶から消される途中を見ているようだった。直視していると、自分の頭の中まで削られそうな錯覚がした。
バーゲストが、ゆっくりと目を閉じる。
長い睫毛が影を落とす。その一瞬だけ、彼女の顔には痛みがあった。従わされていた相手だ。好いていたわけじゃない。だが、命令され、守らされ、長く同じ盤面に立ってきた。その相手が、こうして消える。何も感じないはずがない。
それでも彼女は、最後まで歩み寄らなかった。
慰めることも、手を伸ばすこともしない。
それがせめてもの誠実さだと、分かっているからだろう。もう自分のものではない主へ、今さら偽りの情を見せる方が残酷だ。
男の身体は、とうとう胸から上の輪郭を保てなくなっていた。白い光が溢れているのに、まぶしくはない。冷たい。冬の朝の息みたいに、触れればすぐ消えそうな淡さだった。
最後に残ったのは、目だった。
いや、目だけが強く見えたのかもしれない。怯え。後悔。信じられないという拒絶。そんなものが詰まった視線が、一度だけ俺へ向く。
責められた、と思った。
けれど、違うのかもしれない。
あの目は、誰かを責める余裕すらなく、ただ“自分が消える”という現実を理解しきれないまま取り残された人間の目だった。
次の瞬間、それもほどけた。
音はなかった。
爆ぜるでも、崩れるでもなく、ただ立っていた場所から光が抜ける。服の切れ端も、血の跡も、骨も灰も残らない。本当に、そこに人間がいた痕跡だけが、静かに削り取られていく。
風がひとつ吹いた。
それだけで、最後の白い粒も夜へ溶けた。
あとには、何もなかった。
いや、正確には違う。壊れた街の痕だけが、そこに残っている。砕けたガラス。ひしゃげた自販機。倒れた街灯。あれほど騒がしく命を繋いでいた人間だけが、跡形もなく消えている。その不自然さが、かえって現実味を奪った。
俺はしばらく、息をするのも忘れていた。
「……消えた」
自分の声が、自分のものに聞こえなかった。
デルタが尾を一度だけ揺らす。その動きも、さっきまでの勝利の名残ではない。警戒と、ほんの少しの困惑が混ざっている。
「消えたです」
「見りゃ分かる……」
吐き出してから、すぐに後悔する。デルタは悪くない。俺だって、それ以外の言葉を持っていなかっただけだ。
スマホがまた震える。
思わず画面を見ると、さっきまでの勝利表示の下へ、淡々と追加されていた。
――PREVIOUS OWNER ERASED
――BATTLE RECORD UPDATED
指先が冷たくなる。
ただの結果報告。
感慨も、確認も、弔いもない。
バーゲストが、その画面を一瞥した。銀の瞳に浮かんだ感情は、嫌悪に近かった。
「……なんと、無惨な」
「無惨で済むかよ」
返した声が、少しだけ荒くなる。
バーゲストは俺を見る。そこに反発はない。ただ、俺が何に苛立っているのかを測るような視線だった。
「あなたがそう言うのですね」
「言うさ。こんなもの、まともなわけがない」
壊れた街を囲む夜の中で、その言葉だけがやけに浮いた。
バーゲストはほんの少し、目を細めた。
「……そうですか」
それだけだ。短い返答の中に、何を含んでいるのかまではまだ分からない。だが、少なくとも軽蔑ではない。そう感じた。
デルタが俺の袖を引く。
「仮ボス」
「何だ」
「ここ、まだ匂いが悪いです」
「……ああ」
そうだ。止まっていていい場所じゃない。戦いの痕が残りすぎているし、人が来るかもしれない。何より、この場に立ち尽くしていると、今見た光景が頭の中へ焼きつき続ける。
それでも足が動かない。
そこに誰もいないことを、何度見ても脳が理解しきれないからだ。
ついさっきまで、あの男はいた。叫び、命令し、怯え、這い寄っていた。なのに、今はもう、そこへ風が抜けているだけだ。死体すらない。人が一人、存在ごと引き剥がされた。そうとしか言いようがない。
バーゲストが、静かに口を開く。
「この場に留まるべきではありません」
「……そうだな」
「あなたが見たものは、MEDESの本性の一端でしょう。だとすれば、次もありうる」
その言い方は冷静だった。けれど、耳障りなほど冷たいわけじゃない。自分も同じものを見たうえで、先へ進むために切り分けている声だった。
俺はようやく、肺の奥に溜まっていた息を吐き出した。
スマホをポケットへ押し込み、壊れた通りを見回す。証拠は山ほどある。だが、消えた人間の証拠だけがない。夜のどこかで、サイレンの気配がまだしないことが、かえって不気味だった。
「帰るぞ」
「了解です」
デルタはすぐにそう返す。勝ったあとも負けたあとも、切り替えだけは早い。それが今はありがたかった。
バーゲストは一拍遅れて頷いた。まだ、その動きにはぎこちなさが残っている。敵から味方へ。所有者が変わったばかりなのだから当然だ。だが、それ以上に、彼女の視線の奥には、ついさっき消えた元マスターの光景が残っているように見えた。
俺たちは歩き出す。
壊れた街灯の横を通り、砕けたガラスを踏まないよう足元を選びながら、もと来た道を戻る。デルタは俺の少し前を歩き、バーゲストは後ろを取る。その配置が、今の関係をそのまま示しているようで、妙に落ち着かなかった。
通りを抜ける手前で、思わず振り返る。
もう誰もいない。
風が吹き抜けて、砕けたビニール片がひとつ転がっただけだ。
その光景に、背筋がまた冷えた。
あれが敗北者の末路。
MEDESのルールが、現実へ食い込んだ結果。
頭では分かっている。分かっているのに、胃の底ではずっと拒絶が蠢いていた。
部屋へ戻っても、今夜は眠れないだろう。
そう思いながら歩く俺の隣へ、デルタが半歩だけ近づく。何も言わない。ただ、尾の先が一度だけ脚へ触れた。慰めるというより、ここにいると知らせるような、不器用な動きだった。
少し遅れて、後ろからバーゲストの足音が続く。
新しい契約体。
奪った相手。
そして、その代償のように消えた元マスター。
今夜だけで、何もかもが一気に重くなった。
ポケットの中で、スマホがもう一度だけ微かに震える。
取り出した画面には、短い一行だけが追加されていた。
――NEXT MATCH MAY OCCUR WITHOUT NOTICE
思わず、唇の内側を噛んだ。
終わっていない。
今見たものすら、まだ“次”の前触れに過ぎない。
壊れた街の匂いを背中へ残したまま、俺はスマホの画面を静かに伏せた。