※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

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最初の一口

「夜食はお肉がいいです!」

 

 台所の方から、デルタの声が飛んできた。

 

 その声はいつも通りまっすぐで、部屋の真ん中に残っていた沈黙を、遠慮なく踏み抜いていく。普通なら少し騒がしいと思うところなのに、今夜はその単純さがやけにありがたかった。

 

 ローテーブルの前で、織姫はまだコップを両手で持っていた。

 

 水は半分も減っていない。表面に映った部屋の明かりが、小さく揺れている。織姫の指先はガラスを包んだまま動かない。さっき一口飲んだ水の冷たさを、まだ手の中で確かめているみたいだった。

 

「この時間に肉をがっつり食べるのか?」

 

 俺が台所へ向かいながら言うと、デルタは胸を張った。

 

「お肉はいつでも美味しいです」

 

「それは真理みたいに言うことじゃない」

 

「真理です!」

 

「うふふー。デルタちゃんらしい理屈ですねぇ」

 

 ルプスレギナが笑う。

 

 ムジナは壁際に座ったまま、片目だけ開けた。

 

「胃もたれしそう」

 

「ムジナは弱いです」

 

「胃で勝負してないから」

 

「何でも勝負にしないで」

 

 エリスが呆れたように言う。だが、その声もさっきより少しだけ角が取れていた。剣の柄に置いた手はそのままだが、指の力は抜けている。

 

 バーゲストが静かに立ち上がった。

 

「今は消化に良いものが望ましいでしょう」

 

「しょうか?」

 

 デルタが首を傾げる。

 

「お腹に優しいご飯、ということですよぉ」

 

 ルプスレギナが言うと、デルタは真剣な顔で考え込んだ。

 

「むぅ……優しいお肉です?」

 

「肉から離れる気はないんだな」

 

「お肉は大事です」

 

 揺るがない。ある意味、尊敬できる。

 

 俺は冷蔵庫を開け、残っていた具材を確認した。薄切りの肉。卵。ネギ。ご飯が少し。冷凍うどんもある。

 

「少しだけ肉を入れた雑炊にする。足りなかったらうどんも追加だ」

 

「お肉が入るなら許すです」

 

「許可制だったのか」

 

 鍋を出し、水を注ぐ。

 

 蛇口から落ちる水の音が、台所に広がった。

 

 廃病院の蛍光灯が鳴らしていた、あの乾いた音とは違う。コンロに火をつける音も、包丁がまな板を叩く音も、卵を割る音も、どれも小さい。小さい音が重なって、部屋の時間を少しずつこちら側へ引き戻していく。

 

 さっきまで俺たちは、白い廊下にいた。

 

 誰かが消える場所にいた。

 

 けれど今は、鍋の中で湯が温まり始めている。

 

「手伝いましょうかぁ?」

 

 ルプスレギナが台所の入口に立つ。

 

「怪しい味付けをしないなら」

 

「信用ないですねぇ」

 

「あると思ってたの?」

 

 ムジナがぼそっと刺す。

 

「ひどいですねぇ。泣いちゃいますよぉ」

 

「絶対泣かないでしょ」

 

 エリスが即答した。

 

「うふふー。バレました?」

 

「バレないと思ってたのがすごいわ」

 

「デルタも手伝うです!」

 

 デルタが勢いよく手を挙げる。

 

「肉をつまみ食いしないなら」

 

「……」

 

「沈黙で答えるな」

 

 デルタは目を逸らした。

 

 バーゲストが台所へ一歩近づく。

 

「私が見張りましょう」

 

「バーゲストは厳しいです」

 

「必要な厳しさです」

 

「むぅ……」

 

 デルタの耳が下がる。だが、尻尾は鍋の方を向いたまま揺れていた。

 

 俺は肉を細く切り、鍋へ落とす。

 

 湯気が上がった。

 

 白い。

 

 けれど、廃病院の白とは違う。あの白は目の奥を冷やしてきたが、鍋から立つ白は頬に触れる前にほどけていく。ネギの香りと肉の脂が混ざり、部屋の端までゆっくり広がった。

 

 織姫は、その湯気を見ていた。

 

 会話には入らない。

 

 ただ、コップを持つ手がほんの少し緩んだ。ガラスに押しつけられていた指先の白さが、わずかに戻る。

 

 器を並べる音がした。

 

 バーゲストが人数分の箸を揃え、壌竜が無言でローテーブルの端を整える。ルプスレギナは取り皿を並べながら、わざとらしくため息をついた。

 

「これだけ人数が増えると、食器も大変ですねぇ」

 

「文句言いながら手は動くのね」

 

 エリスが言う。

 

「有能なメイドですのでぇ」

 

「性格は別として?」

 

「うふふー。エリスちゃん、だんだん遠慮がなくなってきましたねぇ」

 

「遠慮する理由がないもの」

 

 ルプスレギナは楽しそうに笑った。

 

 そのやり取りを、織姫は少し離れたところから見ていた。コップを置くこともできず、かといって壁際へ戻ることもなく、ローテーブルの前に座っている。

 

 俺は鍋の火を止め、卵を落とした。

 

 半熟に固まり始めたところで、器によそう。雑炊の中に、肉とネギと卵が浮いている。大したものではない。洒落た料理でもない。冷蔵庫の残りで作った、ただの夜食だ。

 

 それでも、湯気はちゃんと上がっていた。

 

 俺は織姫の前にも器を置いた。

 

「あの、私は……」

 

 織姫の声は小さかった。

 

「食べられそうならでいい」

 

「でも、こんな時に……」

 

「謝る前に食べなさい」

 

 エリスが横から言った。

 

 織姫の口が、途中で止まる。

 

「……」

 

「さっき言ったでしょ。練習」

 

「謝らない練習……」

 

「そう」

 

 エリスは自分の器を引き寄せながら、そっぽを向いた。

 

 ムジナが頬杖をつく。

 

「食べる練習も追加されたね」

 

「練習が増えるんですね……」

 

 織姫は器を見る。

 

 白い湯気が、彼女の顔の前でゆらゆら揺れた。廃病院の白い廊下みたいにまっすぐではない。形を変え、薄くなり、消えて、また鍋の方から新しい白が上がってくる。

 

 デルタは自分の器を両手で持ち、目を輝かせていた。

 

「食べると身体があったかくなるです」

 

「あったかく……」

 

「そうです。お腹があったかくなると、少し動けるです」

 

 デルタはそれを、とても大事な秘密を教えるみたいに言った。

 

 ルプスレギナが頬に手を当てる。

 

「うふふー。デルタちゃんにしては良いこと言いますねぇ」

 

「デルタはいつも良いこと言うです」

 

「自信だけは満タン」

 

 ムジナが言う。

 

「ムジナはひどいです」

 

「いつも通りだよ」

 

 バーゲストは自分の箸を置いたまま、織姫へ視線を向けた。

 

「しかし、間違ってはいません。身体が冷えたままでは、休むことも難しいでしょう」

 

 壌竜が低く続ける。

 

「熱は命の証だ」

 

 織姫の目が、器の中へ落ちる。

 

 湯気が彼女の睫毛に触れそうなほど近くで揺れた。

 

「無理はしなくていい」

 

 俺が言うと、織姫は小さく頷いた。

 

「……はい」

 

「その、はいは悪くないわ」

 

 エリスが判定を下すみたいに言う。

 

 ムジナがすぐ拾った。

 

「判定員になってる」

 

「うるさい」

 

「はい判定士エリス」

 

「変な肩書きつけないで」

 

「ちょっと強そう」

 

「どこがよ」

 

 織姫が何度か瞬きをした。

 

 笑ってはいない。

 

 けれど、器から目を離さずに、箸へ手を伸ばした。

 

 指先が箸に触れる。

 

 そこで止まる。

 

 誰も急かさなかった。

 

 デルタだけが、雑炊を食べたそうに身体を前へ出しかけたが、バーゲストの視線を受けてぴたりと止まった。

 

「……まだです?」

 

 小声で聞くデルタに、バーゲストが静かに首を振る。

 

「待ちます」

 

「待つです」

 

 デルタは器を抱えて、真剣に待ち始めた。尻尾だけは待てていなかったが。

 

 織姫は箸を持った。

 

 ゆっくりと器の中をすくう。

 

 卵の黄色と、湯気の白。小さく刻んだネギの緑。薄い肉の茶色。

 

 箸の先で、雑炊が少し崩れる。

 

「……いただきます」

 

 織姫が言った。

 

「いただきますです!」

 

 デルタが大きな声で続く。

 

 その勢いで、部屋の空気が少し跳ねた。

 

「声量」

 

 ムジナが眉をひそめる。

 

「ご飯には挨拶が大事です」

 

「まあ、それはそうね」

 

 エリスが珍しく同意した。

 

「エリスも分かってるです」

 

「なんで上からなのよ」

 

 デルタはもう我慢できないらしく、自分の器へ顔を近づけている。

 

「熱いから気をつけろよ」

 

「デルタは強いので大丈夫です!」

 

「熱さに強さはあまり関係ない」

 

「はふっ」

 

「言ったそばから」

 

 デルタが舌を少し出して、しかし嬉しそうに器を抱え直す。ルプスレギナが隣で笑い、ムジナが面倒くさそうに息を吐く。バーゲストは水を差し出し、デルタは素直にそれを受け取った。

 

 織姫は、その様子を見ていた。

 

 それから、箸を口元へ運んだ。

 

 一口。

 

 ほんの一口だった。

 

 すぐには飲み込めない。口の中の温度を確かめるように、織姫は目を伏せた。湯気が頬を撫でる。彼女の喉が、小さく動く。

 

 その動きが、やけにはっきり見えた。

 

 水を飲んだ時と同じだ。

 

 けれど、少し違う。

 

 水は、冷たさを通して今に戻るためのものだった。

 

 この一口は、身体の中に温度を戻すためのものだった。

 

 消えた人間が戻るわけではない。約束が果たされたわけでもない。織姫の問いに答えが出たわけでもない。

 

 それでも彼女は、自分で箸を持ち、自分で器からすくい、自分で口へ運んだ。

 

 誰かの命令ではなく。

 

 謝るためでもなく。

 

 織姫は器を両手で持ち直した。

 

 湯気の向こうで、目を伏せる。

 

「……あたたかいです」

 

 デルタが満足げに頷いた。

 

「そうです!」

 

 胸を張る。

 

「あったかいは大事です」

 

「うふふー。今日はデルタちゃんが先生ですねぇ」

 

「先生です!」

 

「調子に乗らない」

 

 エリスが即座に言う。

 

「むぅ」

 

「でも、今回は少しだけ先生でいいんじゃない?」

 

 ムジナが意外なことを言った。

 

 デルタの耳がぴんと立つ。

 

「ムジナが褒めたです!」

 

「撤回しようかな」

 

「撤回禁止です!」

 

 デルタは嬉しそうに雑炊を食べ始めた。

 

 織姫は笑わなかった。

 

 でも、器を置かなかった。

 

 両手で持ったまま、湯気を見ている。熱が指先に移っているのか、さっきまで白かった指が少しずつ色を取り戻していた。

 

 俺は何かを言おうとして、やめた。

 

 褒めるのも違う。励ますのも違う。ここで大げさに言葉を重ねれば、織姫はまた謝ってしまうかもしれない。

 

「熱かったら、ゆっくりでいい」

 

 結局、それだけにした。

 

「……はい」

 

「その、はいも悪くないわ」

 

 エリスがまた言った。

 

「本当に判定員になってる」

 

 ムジナがぼやく。

 

「うるさい」

 

「はい判定士」

 

「斬るわよ」

 

「怖」

 

 エリスとムジナの軽い応酬を、バーゲストが静かに見守っている。

 

「少しずつで構いません」

 

 バーゲストが織姫に言った。

 

 壌竜も続ける。

 

「一口でも、身体は受け取る」

 

 織姫は器を持ったまま、もう一度小さく頷いた。

 

 食卓には人数分の器が並んでいる。

 

 デルタは肉を探し、ルプスレギナはそれを面白がり、ムジナはゆっくりと匙を動かし、エリスは熱さに眉をひそめながらも黙って食べている。バーゲストは姿勢よく箸を持ち、壌竜は静かに湯気を見ている。

 

 そして、織姫はその中にいた。

 

 まだ馴染んでいるわけじゃない。

 

 まだ言葉も少ない。

 

 それでも、彼女の前にも器がある。

 

 彼女の手にも、温度がある。

 

 テーブルの端には、伏せられたスマホが置かれている。

 

 黒い画面は何も映していない。けれど、そこにMEDESがあることを、俺は忘れられない。勝敗。登録。消滅。次の通知。冷たい文字は、いつでも俺たちを呼び戻す。

 

 そのすぐ横で、器から湯気が上がっていた。

 

 白く、柔らかく、ほどけながら。

 

 勝利は、まだ苦いままだ。

 

 消えた男の声も、織姫の問いも、俺の中に残っている。

 

 それでも、食卓には湯気があった。

 

 井上織姫は、その湯気の向こうで器を持っていた。

 

 水を一口飲んだ次に、彼女は一口だけ食べた。

 

 それだけだ。

 

 でも、今夜はその一口が、俺たちの部屋に戻ってきた最初の温度だった。

 

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