「夜食はお肉がいいです!」
台所の方から、デルタの声が飛んできた。
その声はいつも通りまっすぐで、部屋の真ん中に残っていた沈黙を、遠慮なく踏み抜いていく。普通なら少し騒がしいと思うところなのに、今夜はその単純さがやけにありがたかった。
ローテーブルの前で、織姫はまだコップを両手で持っていた。
水は半分も減っていない。表面に映った部屋の明かりが、小さく揺れている。織姫の指先はガラスを包んだまま動かない。さっき一口飲んだ水の冷たさを、まだ手の中で確かめているみたいだった。
「この時間に肉をがっつり食べるのか?」
俺が台所へ向かいながら言うと、デルタは胸を張った。
「お肉はいつでも美味しいです」
「それは真理みたいに言うことじゃない」
「真理です!」
「うふふー。デルタちゃんらしい理屈ですねぇ」
ルプスレギナが笑う。
ムジナは壁際に座ったまま、片目だけ開けた。
「胃もたれしそう」
「ムジナは弱いです」
「胃で勝負してないから」
「何でも勝負にしないで」
エリスが呆れたように言う。だが、その声もさっきより少しだけ角が取れていた。剣の柄に置いた手はそのままだが、指の力は抜けている。
バーゲストが静かに立ち上がった。
「今は消化に良いものが望ましいでしょう」
「しょうか?」
デルタが首を傾げる。
「お腹に優しいご飯、ということですよぉ」
ルプスレギナが言うと、デルタは真剣な顔で考え込んだ。
「むぅ……優しいお肉です?」
「肉から離れる気はないんだな」
「お肉は大事です」
揺るがない。ある意味、尊敬できる。
俺は冷蔵庫を開け、残っていた具材を確認した。薄切りの肉。卵。ネギ。ご飯が少し。冷凍うどんもある。
「少しだけ肉を入れた雑炊にする。足りなかったらうどんも追加だ」
「お肉が入るなら許すです」
「許可制だったのか」
鍋を出し、水を注ぐ。
蛇口から落ちる水の音が、台所に広がった。
廃病院の蛍光灯が鳴らしていた、あの乾いた音とは違う。コンロに火をつける音も、包丁がまな板を叩く音も、卵を割る音も、どれも小さい。小さい音が重なって、部屋の時間を少しずつこちら側へ引き戻していく。
さっきまで俺たちは、白い廊下にいた。
誰かが消える場所にいた。
けれど今は、鍋の中で湯が温まり始めている。
「手伝いましょうかぁ?」
ルプスレギナが台所の入口に立つ。
「怪しい味付けをしないなら」
「信用ないですねぇ」
「あると思ってたの?」
ムジナがぼそっと刺す。
「ひどいですねぇ。泣いちゃいますよぉ」
「絶対泣かないでしょ」
エリスが即答した。
「うふふー。バレました?」
「バレないと思ってたのがすごいわ」
「デルタも手伝うです!」
デルタが勢いよく手を挙げる。
「肉をつまみ食いしないなら」
「……」
「沈黙で答えるな」
デルタは目を逸らした。
バーゲストが台所へ一歩近づく。
「私が見張りましょう」
「バーゲストは厳しいです」
「必要な厳しさです」
「むぅ……」
デルタの耳が下がる。だが、尻尾は鍋の方を向いたまま揺れていた。
俺は肉を細く切り、鍋へ落とす。
湯気が上がった。
白い。
けれど、廃病院の白とは違う。あの白は目の奥を冷やしてきたが、鍋から立つ白は頬に触れる前にほどけていく。ネギの香りと肉の脂が混ざり、部屋の端までゆっくり広がった。
織姫は、その湯気を見ていた。
会話には入らない。
ただ、コップを持つ手がほんの少し緩んだ。ガラスに押しつけられていた指先の白さが、わずかに戻る。
器を並べる音がした。
バーゲストが人数分の箸を揃え、壌竜が無言でローテーブルの端を整える。ルプスレギナは取り皿を並べながら、わざとらしくため息をついた。
「これだけ人数が増えると、食器も大変ですねぇ」
「文句言いながら手は動くのね」
エリスが言う。
「有能なメイドですのでぇ」
「性格は別として?」
「うふふー。エリスちゃん、だんだん遠慮がなくなってきましたねぇ」
「遠慮する理由がないもの」
ルプスレギナは楽しそうに笑った。
そのやり取りを、織姫は少し離れたところから見ていた。コップを置くこともできず、かといって壁際へ戻ることもなく、ローテーブルの前に座っている。
俺は鍋の火を止め、卵を落とした。
半熟に固まり始めたところで、器によそう。雑炊の中に、肉とネギと卵が浮いている。大したものではない。洒落た料理でもない。冷蔵庫の残りで作った、ただの夜食だ。
それでも、湯気はちゃんと上がっていた。
俺は織姫の前にも器を置いた。
「あの、私は……」
織姫の声は小さかった。
「食べられそうならでいい」
「でも、こんな時に……」
「謝る前に食べなさい」
エリスが横から言った。
織姫の口が、途中で止まる。
「……」
「さっき言ったでしょ。練習」
「謝らない練習……」
「そう」
エリスは自分の器を引き寄せながら、そっぽを向いた。
ムジナが頬杖をつく。
「食べる練習も追加されたね」
「練習が増えるんですね……」
織姫は器を見る。
白い湯気が、彼女の顔の前でゆらゆら揺れた。廃病院の白い廊下みたいにまっすぐではない。形を変え、薄くなり、消えて、また鍋の方から新しい白が上がってくる。
デルタは自分の器を両手で持ち、目を輝かせていた。
「食べると身体があったかくなるです」
「あったかく……」
「そうです。お腹があったかくなると、少し動けるです」
デルタはそれを、とても大事な秘密を教えるみたいに言った。
ルプスレギナが頬に手を当てる。
「うふふー。デルタちゃんにしては良いこと言いますねぇ」
「デルタはいつも良いこと言うです」
「自信だけは満タン」
ムジナが言う。
「ムジナはひどいです」
「いつも通りだよ」
バーゲストは自分の箸を置いたまま、織姫へ視線を向けた。
「しかし、間違ってはいません。身体が冷えたままでは、休むことも難しいでしょう」
壌竜が低く続ける。
「熱は命の証だ」
織姫の目が、器の中へ落ちる。
湯気が彼女の睫毛に触れそうなほど近くで揺れた。
「無理はしなくていい」
俺が言うと、織姫は小さく頷いた。
「……はい」
「その、はいは悪くないわ」
エリスが判定を下すみたいに言う。
ムジナがすぐ拾った。
「判定員になってる」
「うるさい」
「はい判定士エリス」
「変な肩書きつけないで」
「ちょっと強そう」
「どこがよ」
織姫が何度か瞬きをした。
笑ってはいない。
けれど、器から目を離さずに、箸へ手を伸ばした。
指先が箸に触れる。
そこで止まる。
誰も急かさなかった。
デルタだけが、雑炊を食べたそうに身体を前へ出しかけたが、バーゲストの視線を受けてぴたりと止まった。
「……まだです?」
小声で聞くデルタに、バーゲストが静かに首を振る。
「待ちます」
「待つです」
デルタは器を抱えて、真剣に待ち始めた。尻尾だけは待てていなかったが。
織姫は箸を持った。
ゆっくりと器の中をすくう。
卵の黄色と、湯気の白。小さく刻んだネギの緑。薄い肉の茶色。
箸の先で、雑炊が少し崩れる。
「……いただきます」
織姫が言った。
「いただきますです!」
デルタが大きな声で続く。
その勢いで、部屋の空気が少し跳ねた。
「声量」
ムジナが眉をひそめる。
「ご飯には挨拶が大事です」
「まあ、それはそうね」
エリスが珍しく同意した。
「エリスも分かってるです」
「なんで上からなのよ」
デルタはもう我慢できないらしく、自分の器へ顔を近づけている。
「熱いから気をつけろよ」
「デルタは強いので大丈夫です!」
「熱さに強さはあまり関係ない」
「はふっ」
「言ったそばから」
デルタが舌を少し出して、しかし嬉しそうに器を抱え直す。ルプスレギナが隣で笑い、ムジナが面倒くさそうに息を吐く。バーゲストは水を差し出し、デルタは素直にそれを受け取った。
織姫は、その様子を見ていた。
それから、箸を口元へ運んだ。
一口。
ほんの一口だった。
すぐには飲み込めない。口の中の温度を確かめるように、織姫は目を伏せた。湯気が頬を撫でる。彼女の喉が、小さく動く。
その動きが、やけにはっきり見えた。
水を飲んだ時と同じだ。
けれど、少し違う。
水は、冷たさを通して今に戻るためのものだった。
この一口は、身体の中に温度を戻すためのものだった。
消えた人間が戻るわけではない。約束が果たされたわけでもない。織姫の問いに答えが出たわけでもない。
それでも彼女は、自分で箸を持ち、自分で器からすくい、自分で口へ運んだ。
誰かの命令ではなく。
謝るためでもなく。
織姫は器を両手で持ち直した。
湯気の向こうで、目を伏せる。
「……あたたかいです」
デルタが満足げに頷いた。
「そうです!」
胸を張る。
「あったかいは大事です」
「うふふー。今日はデルタちゃんが先生ですねぇ」
「先生です!」
「調子に乗らない」
エリスが即座に言う。
「むぅ」
「でも、今回は少しだけ先生でいいんじゃない?」
ムジナが意外なことを言った。
デルタの耳がぴんと立つ。
「ムジナが褒めたです!」
「撤回しようかな」
「撤回禁止です!」
デルタは嬉しそうに雑炊を食べ始めた。
織姫は笑わなかった。
でも、器を置かなかった。
両手で持ったまま、湯気を見ている。熱が指先に移っているのか、さっきまで白かった指が少しずつ色を取り戻していた。
俺は何かを言おうとして、やめた。
褒めるのも違う。励ますのも違う。ここで大げさに言葉を重ねれば、織姫はまた謝ってしまうかもしれない。
「熱かったら、ゆっくりでいい」
結局、それだけにした。
「……はい」
「その、はいも悪くないわ」
エリスがまた言った。
「本当に判定員になってる」
ムジナがぼやく。
「うるさい」
「はい判定士」
「斬るわよ」
「怖」
エリスとムジナの軽い応酬を、バーゲストが静かに見守っている。
「少しずつで構いません」
バーゲストが織姫に言った。
壌竜も続ける。
「一口でも、身体は受け取る」
織姫は器を持ったまま、もう一度小さく頷いた。
食卓には人数分の器が並んでいる。
デルタは肉を探し、ルプスレギナはそれを面白がり、ムジナはゆっくりと匙を動かし、エリスは熱さに眉をひそめながらも黙って食べている。バーゲストは姿勢よく箸を持ち、壌竜は静かに湯気を見ている。
そして、織姫はその中にいた。
まだ馴染んでいるわけじゃない。
まだ言葉も少ない。
それでも、彼女の前にも器がある。
彼女の手にも、温度がある。
テーブルの端には、伏せられたスマホが置かれている。
黒い画面は何も映していない。けれど、そこにMEDESがあることを、俺は忘れられない。勝敗。登録。消滅。次の通知。冷たい文字は、いつでも俺たちを呼び戻す。
そのすぐ横で、器から湯気が上がっていた。
白く、柔らかく、ほどけながら。
勝利は、まだ苦いままだ。
消えた男の声も、織姫の問いも、俺の中に残っている。
それでも、食卓には湯気があった。
井上織姫は、その湯気の向こうで器を持っていた。
水を一口飲んだ次に、彼女は一口だけ食べた。
それだけだ。
でも、今夜はその一口が、俺たちの部屋に戻ってきた最初の温度だった。