※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

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不穏

 湯気が消えると、部屋はまた少し静かになった。

 

 さっきまで器の上で揺れていた白い温度は、天井の明かりに溶けて、もう見えない。ローテーブルには、食べ終えた器と、まだ少しだけ中身の残った器が並んでいる。

 

 デルタの器は空だった。

 

 むしろ洗ったのかと思うほど綺麗に空だった。肉の欠片ひとつ残っていない。どれだけ真剣に探したのか、器の底まで箸で確認した跡がある。

 

 一方で、織姫の器はほとんど減っていない。

 

 それでも、一口分だけは確かに減っていた。

 

 たったそれだけ。

 

 けれど、その一口分の隙間が、今夜この部屋で何かが動いた証みたいに、俺の目にはやけにはっきり見えた。

 

「お肉、少なかったです」

 

 デルタが器を抱えたまま言った。

 

「夜食としては十分だろ」

 

「お肉は多い方がいいです」

 

「夜中にそんなに食べたら動きが鈍るわよ」

 

 エリスが呆れたように言う。

 

「デルタは鈍らないです」

 

「胃だけ強い」

 

 ムジナが壁際からぼそっと刺した。

 

「ムジナはまたひどいです」

 

「いつも通りだよ」

 

「開き直ったです!」

 

 デルタの尻尾が不満げに揺れる。だが、器を手放す気配はない。名残惜しそうに底を覗き込んでいる。

 

「うふふー。平常運転ですねぇ」

 

 ルプスレギナが食器を重ねながら笑う。

 

 バーゲストが立ち上がった。

 

「食器を片付けましょう」

 

「湯が冷める前に動くのがよい」

 

 壌竜が低く言って、テーブルの端にあった箸を揃えた。

 

 俺も器を持って立ち上がろうとした。

 

 その時、壁際が目に入った。

 

 ムジナはまだ動いていなかった。

 

 食べ終えた器は足元に置いてある。壁に背を預け、膝を立て、目を閉じている。眠っているようにも見えるが、指先が膝をゆっくり叩いていた。

 

 一定の間隔ではない。

 

 途中で止まって、また動く。

 

 廃病院の蛍光灯みたいに、どこかでリズムがずれている。

 

「寝るんじゃなかったのか」

 

 俺が声をかけると、ムジナは目を開けずに答えた。

 

「今から寝る」

 

「動いてないぞ」

 

「寝る前の準備」

 

「壁際で?」

 

「壁は便利」

 

「意味が分からない」

 

 エリスが即座に言う。

 

「分からなくていいよ」

 

「説明する気もないのね」

 

「説明したら余計疲れる」

 

「その理屈も分からないわ」

 

 エリスは少し眉を寄せたが、それ以上は追わなかった。

 

 俺は器を持ったまま、ムジナの近くへ行く。

 

 隣までは寄らない。真正面にも立たない。壁に凭れる彼女から少し斜めの位置で止まった。

 

 ムジナが片目だけ開ける。

 

「何?」

 

「疲れたか」

 

「見れば分かるでしょ」

 

「分かるけど、聞いた」

 

「面倒」

 

「それはいつもだろ」

 

「今日は割増」

 

 ムジナはもう一度、目を閉じた。

 

 部屋の中では、ルプスレギナが器を重ねる音がしている。デルタが「これは洗うです?」と聞き、バーゲストが「泡を飛ばさないように」と静かに指示している。台所の方から水音が聞こえ始めた。

 

 その生活音の中で、ムジナだけがまだ戦場の端に座っているように見えた。

 

「三回戦、助かった」

 

 俺が言うと、ムジナの指が膝の上で止まった。

 

「助かったって言い方、変じゃない?」

 

「変か?」

 

「あれ、綺麗に終わったわけじゃないよ」

 

「分かってる」

 

「相手のマスターは消えた」

 

「ああ」

 

「井上織姫も、別に救われた顔はしてない」

 

「それも分かってる」

 

「じゃあ、何が助かったの」

 

 ムジナの声は低かった。

 

 責めているというより、余計な飾りを剥がそうとしている声だった。綺麗な布で包もうとしたら、その場で引き剥がされる。そういう声。

 

 俺は持っていた器の中を見た。

 

 匙が、器の内側に当たって小さく鳴る。

 

「井上が壊れずに済んだ」

 

 ムジナの片目が開いた。

 

 その視線は俺を通り過ぎて、ローテーブルの前にいる織姫へ向かう。

 

 織姫は器を両手で持っていた。食べ終えてはいない。けれど、さっきから置かずに持ち続けている。その手が、ムジナの視線に気づいて少しだけ止まった。

 

 織姫は何も言わない。

 

 ただ、器を持つ指にわずかに力が入った。

 

「壊れなかっただけ」

 

 ムジナが言う。

 

「それで十分な時もある」

 

「十分って言えるほど、軽くないでしょ」

 

「ああ。軽くない」

 

「じゃあ、言葉選び間違ってる」

 

「かもしれない」

 

「かもしれないじゃなくて、間違ってる」

 

「そうか」

 

「そう」

 

 ムジナはまた目を閉じた。

 

 会話を切るみたいに、壁へ肩を預け直す。

 

 俺は少しだけ息を吐いた。

 

 湯気の消えた部屋は、暖房が入っているはずなのに、指先だけ冷たい。伏せたスマホがテーブルの端にあるせいかもしれない。あの黒い板は、黙っていても存在感がある。

 

 勝敗を告げる。

 

 契約を移す。

 

 消えた者を、処理済みとして並べる。

 

 俺たちが食事をしている間も、あれはたぶん次の何かを数えている。

 

 それでも、今はムジナを見ていた。

 

「それでも、任せてよかった」

 

 ムジナの眉がわずかに動く。

 

「そういうの、言わなくていい」

 

「言わないと、忘れたみたいになる」

 

「何でも覚えてようとするの、疲れない?」

 

「疲れる」

 

「じゃあ、やめれば」

 

「やめられたら楽なんだけどな」

 

「本当に面倒」

 

「お互い様だろ」

 

「私は面倒って言うだけ。あなたは面倒を拾う」

 

「拾ってくれるやつもいる」

 

 ムジナが片目を開けた。

 

「誰のこと?」

 

「さあな」

 

「雑」

 

「翻訳されるの嫌なんだろ」

 

 ムジナは口を閉じた。

 

 それから、顔を横へ向ける。

 

「……そういう返しが一番面倒」

 

 壁に預けていた肩が、ほんの少し下がった。

 

 それだけだった。

 

 でも、今のムジナにはそれくらいで十分なのかもしれない。

 

 言葉を真っ直ぐ受け取るより、横から受け流す方が似合う。なのに、完全には弾かない。そういう距離の取り方をするやつだ。

 

 織姫は、まだこちらを見ていた。

 

 器を自分の前にそっと置く。陶器がテーブルに触れて、小さな音がした。

 

「……」

 

 口が少し開く。

 

 しかし、言葉は出なかった。

 

 ムジナが先に言う。

 

「何?」

 

「いえ……」

 

「謝るなら禁止」

 

 織姫の唇が止まる。

 

「……はい」

 

「その、はいは悪くないわ」

 

 エリスが台所から戻りながら言った。

 

 ムジナが顔だけ向ける。

 

「判定士が出た」

 

「その呼び方やめなさい」

 

「はい判定士」

 

「やめなさいって言ってるでしょ」

 

 デルタが耳を立てた。

 

「エリスは判定士です?」

 

「違う」

 

「でも、はいを判定してるです」

 

「してないわよ」

 

「してるですねぇ」

 

 ルプスレギナがにこにこと乗ってくる。

 

「うふふー。新しい役職ですねぇ。謝らない練習の監督も兼任ですかぁ?」

 

「増やさないで」

 

「エリス判定士です!」

 

「デルタまで!」

 

 織姫はそのやり取りを見ていた。

 

 笑ってはいない。

 

 けれど、口元を押さえる手は上がらなかった。謝る言葉も出てこない。ただ、器の縁に指を置き、静かに瞬きをしていた。

 

 ムジナは膝を抱えるように座り直す。

 

「次から面倒な役は他に回して」

 

「善処する」

 

「それ、回す気ある?」

 

「状況による」

 

「一番信用できない返事」

 

 バーゲストが食器を片付け終え、こちらへ歩いてくる。

 

「ですが、今回の判断は適切でした」

 

「バーゲストまで褒めないで」

 

「褒めたのではありません。事実を述べただけです」

 

「それが一番困る」

 

「ならば、困ってください」

 

「バーゲストってたまに強いよね」

 

「必要な強さです」

 

 壌竜が低く言う。

 

「戦場の歪みを見た者が、歪みを動かした。それだけのことだ」

 

「壌竜は言い方が重い」

 

「軽くする必要を感じぬ」

 

「でしょうね」

 

 ムジナは小さく息を吐いた。

 

 その吐息は、湯気の消えた部屋でやけに静かに聞こえた。

 

「うふふー。皆さん、不器用ですねぇ」

 

 ルプスレギナが言う。

 

「あなたに言われたくないわ」

 

 エリスが即座に返す。

 

「ひどいですねぇ。私は器用ですよぉ?」

 

「そういう意味じゃない」

 

「うふふー。分かってますよぉ」

 

「余計たち悪いわ」

 

 台所の水音が止まる。

 

 夜食の後片付けが終わり、部屋にはまた静けさが戻った。けれど、さっきの静けさとは少し違う。器が減って、湯気が消えて、それでも誰かがそこに座っていた名残がある。

 

 ローテーブルの端。

 

 伏せたスマホが、短く震えた。

 

 音は小さかった。

 

 だが、部屋の空気は一瞬で止まった。

 

 デルタの尻尾がぴたりと固まる。

 

 エリスの手が剣の柄へ寄る。

 

 バーゲストの視線がスマホに向く。

 

 ルプスレギナの笑みが薄く止まる。

 

 織姫の指が、器の縁で止まった。

 

 コップの水面が、震えの余韻を受けて小さく揺れる。

 

 俺はスマホを見る。

 

 黒い背面。

 

 伏せられた画面。

 

 その下に、また冷たい文字がある。

 

 分かる。

 

 見なくても分かる。

 

 俺は手を伸ばした。

 

 指先がスマホに触れる。

 

 そこで止まった。

 

「見るの?」

 

 ムジナが聞く。

 

 俺は答えなかった。

 

 指先の下で、スマホはもう震えていない。けれど、そこに何かが届いていることだけは消えない。開けば、文字が並ぶ。次の指示。次の戦い。次の相手。次の誰か。

 

「今、見なくてもいいんじゃない」

 

 エリスが言った。

 

 剣は抜いていない。ただ、柄に触れているだけだ。

 

 バーゲストも静かに続ける。

 

「急を要する通知であれば、再度表示されるでしょう」

 

「今はご飯のあとです」

 

 デルタが織姫のそばに座り込む。

 

「ご飯のあとは休憩です」

 

「うふふー。デルタちゃんにしては、良い提案ですねぇ」

 

「デルタは今日、先生です」

 

「先生、多いですねぇ」

 

 壌竜が床を見る。

 

「夜は、身を伏せる時間でもある」

 

 俺はスマホを少しだけ持ち上げた。

 

 画面の端に、黒い通知がちらりと見える。

 

 ――NEXT MATCH PREPARING

 

 文字は一瞬だけだった。

 

 それでも、十分だった。

 

 織姫の呼吸が、小さく詰まる。喉の奥で止まった音が、こちらまで届いた気がした。彼女は器を持とうとして、指を止めている。

 

 俺はスマホを開かなかった。

 

 そのまま、もう一度画面を伏せる。

 

「今夜は見ない」

 

 ムジナが片目を開けた。

 

「珍しい」

 

「見ると、忘れたみたいになることもある」

 

「逆じゃない?」

 

「今日は逆でいい」

 

 エリスは何も言わず、織姫とスマホの間に立った。

 

 剣は抜かない。

 

 ただ、立ち位置だけを変えた。

 

 ムジナも壁際から少しだけ身体をずらす。ほんの少し。けれど、その位置だと、織姫の場所からスマホが見えにくくなる。

 

 バーゲストは窓際に立ち、外へ視線を向けた。

 

 デルタは織姫の近くで器を覗き込む。

 

「まだ食べるです?」

 

 織姫は少しだけ器を見た。

 

 それから、箸を手に取る。

 

「……少しだけ」

 

「少しだけは大事です」

 

 デルタが力強く頷いた。

 

 ルプスレギナは珍しく何も言わなかった。

 

 壌竜は伏せられたスマホを見下ろし、低く息を吐く。

 

 スマホは伏せられている。

 

 通知は消えていない。

 

 たぶん、俺が画面を開けば、次の地獄はもう形になっている。

 

 MEDESは待たない。

 

 俺たちが食べ終えるのも、眠るのも、誰かがようやく一口を飲み込むのも、きっと関係ない。

 

 それでも、今夜だけは画面を伏せた。

 

 見ないことが逃げなのか、守ることなのかは分からない。

 

 ただ、織姫の前にはまだ器があって、デルタがその隣に座っていた。

 

 エリスはスマホとの間に立ち、ムジナは壁際から少しだけ位置を変えている。

 

 戦いはまた来る。

 

 でも今は、湯気の消えた器に残った温度を、誰も奪わなかった。

 

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