湯気が消えると、部屋はまた少し静かになった。
さっきまで器の上で揺れていた白い温度は、天井の明かりに溶けて、もう見えない。ローテーブルには、食べ終えた器と、まだ少しだけ中身の残った器が並んでいる。
デルタの器は空だった。
むしろ洗ったのかと思うほど綺麗に空だった。肉の欠片ひとつ残っていない。どれだけ真剣に探したのか、器の底まで箸で確認した跡がある。
一方で、織姫の器はほとんど減っていない。
それでも、一口分だけは確かに減っていた。
たったそれだけ。
けれど、その一口分の隙間が、今夜この部屋で何かが動いた証みたいに、俺の目にはやけにはっきり見えた。
「お肉、少なかったです」
デルタが器を抱えたまま言った。
「夜食としては十分だろ」
「お肉は多い方がいいです」
「夜中にそんなに食べたら動きが鈍るわよ」
エリスが呆れたように言う。
「デルタは鈍らないです」
「胃だけ強い」
ムジナが壁際からぼそっと刺した。
「ムジナはまたひどいです」
「いつも通りだよ」
「開き直ったです!」
デルタの尻尾が不満げに揺れる。だが、器を手放す気配はない。名残惜しそうに底を覗き込んでいる。
「うふふー。平常運転ですねぇ」
ルプスレギナが食器を重ねながら笑う。
バーゲストが立ち上がった。
「食器を片付けましょう」
「湯が冷める前に動くのがよい」
壌竜が低く言って、テーブルの端にあった箸を揃えた。
俺も器を持って立ち上がろうとした。
その時、壁際が目に入った。
ムジナはまだ動いていなかった。
食べ終えた器は足元に置いてある。壁に背を預け、膝を立て、目を閉じている。眠っているようにも見えるが、指先が膝をゆっくり叩いていた。
一定の間隔ではない。
途中で止まって、また動く。
廃病院の蛍光灯みたいに、どこかでリズムがずれている。
「寝るんじゃなかったのか」
俺が声をかけると、ムジナは目を開けずに答えた。
「今から寝る」
「動いてないぞ」
「寝る前の準備」
「壁際で?」
「壁は便利」
「意味が分からない」
エリスが即座に言う。
「分からなくていいよ」
「説明する気もないのね」
「説明したら余計疲れる」
「その理屈も分からないわ」
エリスは少し眉を寄せたが、それ以上は追わなかった。
俺は器を持ったまま、ムジナの近くへ行く。
隣までは寄らない。真正面にも立たない。壁に凭れる彼女から少し斜めの位置で止まった。
ムジナが片目だけ開ける。
「何?」
「疲れたか」
「見れば分かるでしょ」
「分かるけど、聞いた」
「面倒」
「それはいつもだろ」
「今日は割増」
ムジナはもう一度、目を閉じた。
部屋の中では、ルプスレギナが器を重ねる音がしている。デルタが「これは洗うです?」と聞き、バーゲストが「泡を飛ばさないように」と静かに指示している。台所の方から水音が聞こえ始めた。
その生活音の中で、ムジナだけがまだ戦場の端に座っているように見えた。
「三回戦、助かった」
俺が言うと、ムジナの指が膝の上で止まった。
「助かったって言い方、変じゃない?」
「変か?」
「あれ、綺麗に終わったわけじゃないよ」
「分かってる」
「相手のマスターは消えた」
「ああ」
「井上織姫も、別に救われた顔はしてない」
「それも分かってる」
「じゃあ、何が助かったの」
ムジナの声は低かった。
責めているというより、余計な飾りを剥がそうとしている声だった。綺麗な布で包もうとしたら、その場で引き剥がされる。そういう声。
俺は持っていた器の中を見た。
匙が、器の内側に当たって小さく鳴る。
「井上が壊れずに済んだ」
ムジナの片目が開いた。
その視線は俺を通り過ぎて、ローテーブルの前にいる織姫へ向かう。
織姫は器を両手で持っていた。食べ終えてはいない。けれど、さっきから置かずに持ち続けている。その手が、ムジナの視線に気づいて少しだけ止まった。
織姫は何も言わない。
ただ、器を持つ指にわずかに力が入った。
「壊れなかっただけ」
ムジナが言う。
「それで十分な時もある」
「十分って言えるほど、軽くないでしょ」
「ああ。軽くない」
「じゃあ、言葉選び間違ってる」
「かもしれない」
「かもしれないじゃなくて、間違ってる」
「そうか」
「そう」
ムジナはまた目を閉じた。
会話を切るみたいに、壁へ肩を預け直す。
俺は少しだけ息を吐いた。
湯気の消えた部屋は、暖房が入っているはずなのに、指先だけ冷たい。伏せたスマホがテーブルの端にあるせいかもしれない。あの黒い板は、黙っていても存在感がある。
勝敗を告げる。
契約を移す。
消えた者を、処理済みとして並べる。
俺たちが食事をしている間も、あれはたぶん次の何かを数えている。
それでも、今はムジナを見ていた。
「それでも、任せてよかった」
ムジナの眉がわずかに動く。
「そういうの、言わなくていい」
「言わないと、忘れたみたいになる」
「何でも覚えてようとするの、疲れない?」
「疲れる」
「じゃあ、やめれば」
「やめられたら楽なんだけどな」
「本当に面倒」
「お互い様だろ」
「私は面倒って言うだけ。あなたは面倒を拾う」
「拾ってくれるやつもいる」
ムジナが片目を開けた。
「誰のこと?」
「さあな」
「雑」
「翻訳されるの嫌なんだろ」
ムジナは口を閉じた。
それから、顔を横へ向ける。
「……そういう返しが一番面倒」
壁に預けていた肩が、ほんの少し下がった。
それだけだった。
でも、今のムジナにはそれくらいで十分なのかもしれない。
言葉を真っ直ぐ受け取るより、横から受け流す方が似合う。なのに、完全には弾かない。そういう距離の取り方をするやつだ。
織姫は、まだこちらを見ていた。
器を自分の前にそっと置く。陶器がテーブルに触れて、小さな音がした。
「……」
口が少し開く。
しかし、言葉は出なかった。
ムジナが先に言う。
「何?」
「いえ……」
「謝るなら禁止」
織姫の唇が止まる。
「……はい」
「その、はいは悪くないわ」
エリスが台所から戻りながら言った。
ムジナが顔だけ向ける。
「判定士が出た」
「その呼び方やめなさい」
「はい判定士」
「やめなさいって言ってるでしょ」
デルタが耳を立てた。
「エリスは判定士です?」
「違う」
「でも、はいを判定してるです」
「してないわよ」
「してるですねぇ」
ルプスレギナがにこにこと乗ってくる。
「うふふー。新しい役職ですねぇ。謝らない練習の監督も兼任ですかぁ?」
「増やさないで」
「エリス判定士です!」
「デルタまで!」
織姫はそのやり取りを見ていた。
笑ってはいない。
けれど、口元を押さえる手は上がらなかった。謝る言葉も出てこない。ただ、器の縁に指を置き、静かに瞬きをしていた。
ムジナは膝を抱えるように座り直す。
「次から面倒な役は他に回して」
「善処する」
「それ、回す気ある?」
「状況による」
「一番信用できない返事」
バーゲストが食器を片付け終え、こちらへ歩いてくる。
「ですが、今回の判断は適切でした」
「バーゲストまで褒めないで」
「褒めたのではありません。事実を述べただけです」
「それが一番困る」
「ならば、困ってください」
「バーゲストってたまに強いよね」
「必要な強さです」
壌竜が低く言う。
「戦場の歪みを見た者が、歪みを動かした。それだけのことだ」
「壌竜は言い方が重い」
「軽くする必要を感じぬ」
「でしょうね」
ムジナは小さく息を吐いた。
その吐息は、湯気の消えた部屋でやけに静かに聞こえた。
「うふふー。皆さん、不器用ですねぇ」
ルプスレギナが言う。
「あなたに言われたくないわ」
エリスが即座に返す。
「ひどいですねぇ。私は器用ですよぉ?」
「そういう意味じゃない」
「うふふー。分かってますよぉ」
「余計たち悪いわ」
台所の水音が止まる。
夜食の後片付けが終わり、部屋にはまた静けさが戻った。けれど、さっきの静けさとは少し違う。器が減って、湯気が消えて、それでも誰かがそこに座っていた名残がある。
ローテーブルの端。
伏せたスマホが、短く震えた。
音は小さかった。
だが、部屋の空気は一瞬で止まった。
デルタの尻尾がぴたりと固まる。
エリスの手が剣の柄へ寄る。
バーゲストの視線がスマホに向く。
ルプスレギナの笑みが薄く止まる。
織姫の指が、器の縁で止まった。
コップの水面が、震えの余韻を受けて小さく揺れる。
俺はスマホを見る。
黒い背面。
伏せられた画面。
その下に、また冷たい文字がある。
分かる。
見なくても分かる。
俺は手を伸ばした。
指先がスマホに触れる。
そこで止まった。
「見るの?」
ムジナが聞く。
俺は答えなかった。
指先の下で、スマホはもう震えていない。けれど、そこに何かが届いていることだけは消えない。開けば、文字が並ぶ。次の指示。次の戦い。次の相手。次の誰か。
「今、見なくてもいいんじゃない」
エリスが言った。
剣は抜いていない。ただ、柄に触れているだけだ。
バーゲストも静かに続ける。
「急を要する通知であれば、再度表示されるでしょう」
「今はご飯のあとです」
デルタが織姫のそばに座り込む。
「ご飯のあとは休憩です」
「うふふー。デルタちゃんにしては、良い提案ですねぇ」
「デルタは今日、先生です」
「先生、多いですねぇ」
壌竜が床を見る。
「夜は、身を伏せる時間でもある」
俺はスマホを少しだけ持ち上げた。
画面の端に、黒い通知がちらりと見える。
――NEXT MATCH PREPARING
文字は一瞬だけだった。
それでも、十分だった。
織姫の呼吸が、小さく詰まる。喉の奥で止まった音が、こちらまで届いた気がした。彼女は器を持とうとして、指を止めている。
俺はスマホを開かなかった。
そのまま、もう一度画面を伏せる。
「今夜は見ない」
ムジナが片目を開けた。
「珍しい」
「見ると、忘れたみたいになることもある」
「逆じゃない?」
「今日は逆でいい」
エリスは何も言わず、織姫とスマホの間に立った。
剣は抜かない。
ただ、立ち位置だけを変えた。
ムジナも壁際から少しだけ身体をずらす。ほんの少し。けれど、その位置だと、織姫の場所からスマホが見えにくくなる。
バーゲストは窓際に立ち、外へ視線を向けた。
デルタは織姫の近くで器を覗き込む。
「まだ食べるです?」
織姫は少しだけ器を見た。
それから、箸を手に取る。
「……少しだけ」
「少しだけは大事です」
デルタが力強く頷いた。
ルプスレギナは珍しく何も言わなかった。
壌竜は伏せられたスマホを見下ろし、低く息を吐く。
スマホは伏せられている。
通知は消えていない。
たぶん、俺が画面を開けば、次の地獄はもう形になっている。
MEDESは待たない。
俺たちが食べ終えるのも、眠るのも、誰かがようやく一口を飲み込むのも、きっと関係ない。
それでも、今夜だけは画面を伏せた。
見ないことが逃げなのか、守ることなのかは分からない。
ただ、織姫の前にはまだ器があって、デルタがその隣に座っていた。
エリスはスマホとの間に立ち、ムジナは壁際から少しだけ位置を変えている。
戦いはまた来る。
でも今は、湯気の消えた器に残った温度を、誰も奪わなかった。