スマホは、朝まで黙っていた。
正確には、朝と呼べる時間だったのかも分からない。カーテンの隙間から差し込む光は薄く、部屋の中に残った夜の輪郭を押し流しきれていなかった。
ローテーブルは片付いている。
昨日、織姫が一口だけ食べた器も、デルタが肉の欠片を探し尽くした器も、今は棚に戻っている。湯気の残り香も、もうない。
けれど、テーブルの端にはまだスマホがあった。
伏せられた黒い板。
そこだけが、夜の底を切り取って置かれたみたいに沈んでいた。
短く震える。
音は一度だけ。
それでも、部屋の空気は一瞬で硬くなった。
デルタの耳が立つ。エリスの手が剣に近づく。バーゲストは何も言わず、窓際からこちらを見る。ムジナは寝癖のついた髪を片手で押さえながら、壁にもたれたまま片目を開けた。
織姫は、少し遅れてスマホへ視線を向けた。
その前に、エリスが一歩だけ動く。大げさじゃない。剣も抜かない。ただ、織姫とスマホの間に肩が入る位置へ立った。
昨日と同じだった。
けれど、昨日より自然だった。
俺はスマホを手に取る。
画面を上に向けるまで、指先に少しだけ重さが残った。
――SEMI FINAL:READY
――FIELD SHIFT:ACTIVE
――RECOMMENDED UNIT:壌竜
「……準決勝」
声に出すと、部屋の中にその言葉が沈んだ。
「次です?」
デルタが尻尾を揺らす。
「休ませる気、ないわね」
エリスの声は鋭い。だが、視線はスマホではなく織姫の方に一度だけ向いた。
「昨日見なくても、結局来るものは来るんだ」
ムジナが欠伸を噛み殺しながら言う。
「言い方」
「事実」
「朝から面倒なこと言わないで」
「朝かどうかも怪しいけどね」
バーゲストが静かに一歩前へ出た。
「逃れられぬなら、備えるべきです」
その言葉に、壌竜がゆっくりと立ち上がる。
床が、ほんの少し鳴った気がした。
「我の名が出ているな」
「ああ。次は壌竜が推奨ユニットだ」
壌竜は俺のスマホを見ない。
ただ、足元を見る。畳の下、そのさらに下の地面まで視線を落としているみたいだった。
「ならば、地の声を聞く戦になる」
「うふふー。今度は地面がお相手ですかぁ?」
ルプスレギナが笑う。
壌竜は首を横に振った。
「地は相手ではない。語るものだ」
「言い方が相変わらず重い」
ムジナがぼそっと言う。
「軽い地など、踏めば沈む」
「そう返ってくると思った」
俺はスマホを握り直す。
昨日は見なかった。
見ないことで、どうにか一晩を守った。
けれど、今日は違う。
見ないままでは、足を踏み出せない。
「準備しよう。今度は、こっちから見ないわけにはいかない」
誰も反論しなかった。
MEDESの黒い光が、部屋の床から立ち上がる。
いつも思う。
転送の光は、光なのに暗い。
輪郭を奪うように広がり、部屋の壁も、テーブルも、伏せられたままの夜も、全部を飲み込んでいく。
視界が揺れた。
次に足の裏が捉えたのは、畳ではなかった。
硬い。
冷たい。
ざらついたコンクリート。
最初に鼻を刺したのは、錆びた鉄の匂いだった。
次に、湿ったコンクリートの匂い。さらに奥に、薬品のような甘い刺激臭が混ざっている。どこかで腐りかけた植物の匂いもした。鼻の奥で、それらが勝手に調合されていく。
目の前には、錆びたフェンスがあった。
その向こうに巨大な工場棟が沈んでいる。割れた窓。折れた煙突。絡み合う配管。止まった搬送ベルト。工場の入り口は、口を開けたまま長い間眠っていた獣みたいだった。
「くさいです」
デルタが容赦なく言った。
「うふふー。廃工場ですねぇ。実に分かりやすく危なそうです」
ルプスレギナは楽しげだ。
「足場が悪いわ」
エリスは床の亀裂を見ている。
「視界も遮られます。奇襲には注意を」
バーゲストが剣に手を添えた。
「しかも、普通の廃墟じゃなさそう」
ムジナが割れた窓の奥を見ながら言う。
「普通ではない……?」
織姫の声が小さく落ちた。
壌竜は答えるより先にしゃがみ込んだ。
大きな掌を、コンクリートの地面へ置く。
その動きだけで、周りの音が一段下がった気がした。
壌竜は黙っている。
デルタも珍しく黙った。ムジナが壁にもたれない代わりに、近くの錆びた柱へ背を預ける。織姫は両手を胸の前で重ねかけ、途中でやめた。昨日、何度も見た形だ。けれど今は、その手を自分の前で下ろしている。
「壌竜?」
俺が呼ぶと、壌竜は地面から手を離さずに言った。
「地の流れが切られている」
「切られている?」
「本来なら、地は下へ沈み、奥へ続く。だが、ここは途中で曲げられ、別のものを混ぜられている」
ムジナが眉を動かす。
「もう仕掛けられてるってこと?」
「恐らくな」
壌竜が立ち上がる。
その足元の埃が、わずかに揺れた。
俺たちはフェンスの隙間から工場敷地へ入った。
足を進めるたび、砂利と金属片が靴の下で鳴る。工場の中へ入ると、空気はさらに濃くなった。錆と薬品と湿気。その全部が、喉の奥に薄い膜を作る。
内部は、荒れていた。
いや、荒れているだけじゃない。
荒れたものが、誰かの手で並べ直されていた。
割れた薬品棚の瓶が、色ごとに分けられている。錆びた配管が途中で切断され、素材タンクのようなものに繋げられている。床に落ちた金属片や植物片は、偶然ではなく、何かの模様を作るように置かれていた。
壊れた工場なのに、どこかで作業が続いている。
そんな歪んだ気配があった。
「誰かが遊んだです?」
デルタが床の模様を覗き込む。
「遊びに見えるなら、かなり危ない遊びだね」
ムジナが言う。
バーゲストが瓶の並びを見た。
「調合台のようにも見えます」
「調合……」
俺は床に散った青白い粉を見る。
指で触れようとした瞬間、壌竜の声が飛んだ。
「触れるな」
俺の指が止まる。
壌竜は床を見たまま言う。
「それも、地に混ぜられたものと同じ気配がする」
「相手はもう準備済みってことね」
エリスが剣の柄を握り直す。
「次の相手が錬金術師なら、そうだろうな」
「錬金術……でしょうか」
織姫が小さく言う。
その声はまだ細い。けれど、昨日よりは前に出ていた。俺の背中の後ろからではなく、隣に立つ誰かの声だった。
「うふふー。準決勝らしく、面倒そうですねぇ」
ルプスレギナが楽しげに笑った。
その時、工場の奥から声がした。
「へえ……これ、元はただの配管なのに、中に残ってる成分が全然違う。現代の工場って、面白いもの使ってるんだね」
俺たちは足を止めた。
壊れた搬送ベルトの上に、少女がしゃがみ込んでいた。
栗色の髪。明るい表情。周囲には素材袋、瓶、金属片、植物片、小さな調合器具のようなものが広がっている。彼女は敵を待ち構えていたというより、採取に夢中になっているように見えた。
その少し後ろに、一人の青年が立っている。
黒縁の眼鏡。くたびれたジャケット。片手にはMEDESのスマホ。もう片方の手で、何度もこめかみを押さえている。年齢は俺より少し上くらいだろうか。顔つきは穏やかに見えるが、立ち方に隙はない。
「ライザ。敵が来た」
青年が低く言った。
「分かってるって。足音で気づいてるよ」
「なら、こっちを向け」
「あとちょっと! この素材、すごく気になるんだもん!」
青年は目を閉じ、長く息を吐いた。
怒鳴らない。
けれど、その沈黙だけで、普段からこうなのだと分かった。
「……準決勝だぞ」
「うん、だから調べてるんだよ?」
少女はようやく立ち上がった。
ぱん、と手についた埃を払う。
それから、こちらへ明るく手を振った。
「あ、来た来た! あなたたちが準決勝の相手だよね?」
「……そういうことになる」
俺が答えると、少女はにこっと笑った。
「よろしく! 私はライザ。ライザリン・シュタウト! 錬金術師だよ」
「敵なのに元気です」
デルタが素直な感想を漏らす。
「うふふー。可愛らしいですねぇ」
ルプスレギナが笑う。
ライザの視線はすぐに壌竜へ移った。
目の色が変わった。
敵を見る目ではない。珍しい素材を見つけた時の目だ。
「それで……あなた、すごいね。地面に触っただけで何か分かったでしょ?」
壌竜は静かに彼女を見る。
「分かるように、地を乱したのはそちらだ」
「やっぱり! 地面の流れを読んでるんだ。いいなあ、そういうの初めて見る!」
ライザが一歩近づこうとする。
青年がその肩を掴んだ。
「ライザ、興味で近づくな」
「えー」
「えーじゃない」
「でも、あの人すごいよ? 普通、地面の改変なんてすぐ分からないって」
「だから近づくなと言っている」
青年は俺たちへ視線を向けた。
その目には軽さがない。
ライザを止める手にも、スマホを握る手にも、力が入っている。振り回されてはいる。だが、戦う気がないわけではない。
「すまない。彼女は、見たことのないものを前にすると止まりにくい」
「止める気はあるんだな」
俺が言うと、青年はわずかに口元を歪めた。
「毎回、ある」
「毎回失敗してそうだね」
ムジナの言葉に、青年は否定しなかった。
ライザが振り返る。
「ちょっと、失敗してないよ。ちゃんと役に立ってるでしょ?」
「役には立っている。順番が問題だ」
「順番って大事?」
「大事だ」
「そっか。じゃあ次から気をつける」
「それも毎回聞いている」
敵同士の会話なのに、妙に日常感がある。
けれど、壌竜だけは視線を足元から外さなかった。
「油断ではない」
彼が低く言う。
「足元に意識を残している」
ライザが嬉しそうに頷いた。
「そうそう。調べないと戦えないでしょ?」
その一言で、空気が変わった。
好奇心が遊びではない。
彼女にとって、見ること、触れること、知ることが、そのまま戦う準備なのだ。
「……なるほど。調査がそのまま準備か」
俺が呟くと、ムジナが小さく頷いた。
「好奇心と戦術が同じ場所にあるタイプ」
「厄介ですね」
バーゲストが剣を抜かずに構えを整える。
ライザは自分の足元に置いていた小瓶を拾った。
中の液体が、青く光る。
「この工場、いい素材がいっぱいあるんだよ。鉄も薬品も植物片も、ちょっと手を加えるだけで使えるものになる」
「説明してどうする」
青年が言う。
「だって、すごいんだもん」
「準決勝で敵に手の内を話すな」
「全部じゃないから大丈夫!」
「大丈夫の基準がいつも曖昧だ」
「でも安心して。ちゃんと戦うから」
ライザの声が少しだけ変わった。
明るさは消えない。
けれど、手に持ったフラスコの光が強くなる。
「じゃあ、まずは様子見」
壌竜が一歩前へ出た。
「来るぞ」
床のひび割れに詰められていた青白い粉が、線のように繋がった。
配管の奥で液体が走る音がする。
カン、カン、カン、と錆びた管の中で何かが跳ねる。搬送ベルトの下に隠れていた素材片が反応し、床の模様が光を帯びていく。
工場の床が、一瞬だけ呼吸した。
地面が膨らむ。
床下の空洞に何かが流れ込む。
ただのコンクリートだったはずの足元が、誰かの手で別の生き物に作り替えられていく。
「下だ!」
俺が叫ぶ。
「防御を!」
バーゲストが前に出る。
「三天――」
織姫の声が続こうとした瞬間、壌竜が短く言った。
「待て」
織姫の手が止まる。
昨日なら、そのまま盾を出していたかもしれない。
けれど、今は壌竜の背を見た。彼が前に出るのを見て、手を胸の前で止めた。
壌竜が片足を強く踏みしめる。
低い音が工場の床を走った。
爆ぜかけた青白い光が、彼の足元で押さえ込まれる。床のひび割れが広がり、粉の光が一瞬乱れた。
「止まったです!」
デルタが声を上げる。
「完全には止まってない」
ムジナが即座に言う。
壌竜の足元から、細いひびがさらに伸びる。彼は膝をつき、掌を床に置いた。コンクリートの奥から、低い振動が返ってくる。
「既に地の流れを組み替えているか」
ライザが目を輝かせた。
「あ、今ので止めるんだ。すごい! あなた、地面そのものに干渉してる?」
壌竜は顔を上げない。
「興味で踏み荒らすには、地は深すぎる」
「うん。だから面白い」
ライザは笑った。
青年はその横で、スマホを握り直す。
「ライザ」
「分かってる。次はちゃんと当てる」
「当てるな。勝て」
「はいはい、勝つために当てるの」
「順番の問題だと言っている」
敵の会話は軽い。
だが、床下で走る光は軽くなかった。
俺のスマホが震える。
今度は伏せる暇もない。
画面に文字が浮かぶ。
――SEMI FINAL:START
――TARGET:RYZA LIN STROUT
――RECOMMENDED UNIT:壌竜
――BATTLE CONDITION:FIELD ALCHEMY
「フィールドアルケミー……戦場そのものを錬金術で変えてくるのか」
「面倒な準決勝」
ムジナが言う。
「でも、相手が地面を使うなら」
エリスが壌竜の背を見る。
「壌竜殿の領分でもあります」
バーゲストが静かに続けた。
織姫は壌竜の背中を見ていた。
さっき出しかけた手は、まだ胸の前で止まっている。盾を出していない。代わりに、壌竜の足元から広がるひびと、押さえ込まれる青白い光を見ている。
守るために前へ出ることだけが、守り方ではない。
そのことを、誰かが言葉にしたわけじゃない。
ただ、壌竜が前に立っている。
それだけだった。
「下がれ。地の声が荒れている」
壌竜が言う。
「壌竜、任せる」
「承った」
彼が立ち上がる。
その足元から、今度はこちらのひびが伸びた。青白い粉の光を押し返すように、鈍い土色の揺らぎが床を走っていく。
ライザはフラスコを構えた。
「じゃあ、始めようか。あなたの地面と、私の錬金術。どっちがこの工房を使いこなせるか!」
壌竜がゆっくりと片足を前に出す。
床が軋む。
「工房ではない」
彼の声は、工場の奥まで沈んでいった。
ライザが首を傾げる。
「え?」
「ここは、まだ地だ」
錆びた工場の床が、二つの意思に挟まれて軋んだ。
ライザの錬金術が、廃材を素材へ、床を罠へ、工場を工房へ変えていく。
そのたびに、壌竜の足元から低い振動が返る。
作り替えられた地面を、もう一度、地面へ戻すように。
準決勝は、まだ始まったばかりだった。
けれど、俺には分かった。
今回の戦いは、敵を殴り倒すだけじゃ終わらない。
この場所そのものを、どちらが握るかの戦いになる。