工場が、息をした。
そんな風に見えた。
錆びた床の隙間から青白い光が漏れ、配管の奥で液体が走る音がする。カン、カン、カン、と古い金属の腹を叩くような音が連なり、止まっていたはずの搬送ベルトが、ゆっくりと震え始めた。
廃工場。
そう呼ぶには、ここはもう死んでいない。
誰かの手で組み直され、素材を飲み込み、何かを作ろうとしている。
それは工場ではなく、巨大な生き物の腹の中みたいだった。
「うわ、反応いい! やっぱりこの配管、まだ使えるんだ!」
ライザが目を輝かせる。
手には青い液体の入ったフラスコ。足元には色ごとに分けられた粉末と、金属片と、よく分からない植物の繊維。彼女が軽く手首を返すだけで、床の模様が呼応するように光を強めた。
敵マスターの青年が、少し離れた位置でスマホを握っている。
「ライザ、説明しながら起動するな」
「だって、すごいんだよ? この工場、素材の残り方が面白いんだもん」
「準決勝だ」
「分かってるって。だから使ってるの」
ライザは笑ったまま、こちらを見た。
「じゃあ、まずは廃工場くんに手伝ってもらおうかな!」
その言葉が合図になった。
床下の青白い光が、一気に走る。
「来るぞ」
壌竜が短く言った。
次の瞬間、俺たちの足元が爆ぜた。
いや、爆発そのものは壌竜が押さえた。彼が一歩踏みしめた瞬間、床の奥から響いた衝撃が地中へ逃がされる。足裏に鈍い振動が来たが、吹き飛ばされるほどではない。
ただ、完全には止まらない。
床のひび割れから白い煙が噴き出した。
視界が一気に濁る。
「煙幕です!」
デルタの声が近くで跳ねる。
「匂いも混ざってる。鼻が変です!」
「変なのはいつものことじゃない?」
ムジナの声が煙の向こうから聞こえた。
「ムジナ、今それ言うです!?」
「今だから言うんでしょ」
「二人とも、前を見る!」
エリスの声と同時に、煙の中から金属片が飛んできた。
バラバラの廃材が、ただ飛んでいるのではない。細い針のように削られ、青白い光を帯びながら一直線にこちらへ伸びる。エリスが剣を抜き、火花を散らして弾いた。バーゲストが前に出て、盾のように剣を構える。
「散開しすぎないでください!」
「分かってる!」
エリスが金属片を斬り払う。
その足元で、床がぬめった。
「っ!」
エリスの靴裏がわずかに滑る。
同時に、デルタの足首にも半透明の粘液が絡みついた。
「ぬるぬるです! 気持ち悪いです!」
「粘着液か」
バーゲストが金属片を弾きながら言う。
「粘着、煙幕、金属片。連動しているようですね」
「うふふー。嫌な組み合わせですねぇ」
ルプスレギナの声が煙の中で軽く響く。だが、彼女も無傷ではない。メイド服の裾に粘液が付着し、足元の動きを奪われかけている。
織姫が手を上げかけた。
「三天――」
「待て」
壌竜の声が、それを止めた。
織姫の指が空中で止まる。
俺はその横顔を見た。彼女は一瞬だけ俺の方を見て、それから壌竜の背中を見る。昨日なら、もう盾を張っていただろう。
でも今は、待った。
誰かが前に立つのを、見ている。
壌竜は床に掌を置いた。
泥が滲む。
コンクリートの隙間から、黒褐色の泥が這い出すように広がり、粘着液と金属片の間へ割り込む。泥は壁になる。低く、分厚く、重く、廃工場の床に根を張るような壁。
「止めたです!」
デルタが足元の粘液を引きちぎろうとする。
だが、次の瞬間、泥の壁の内側から別の粘液が噴き出した。
「なっ」
壌竜の眉がわずかに動く。
泥の壁が、内側から絡め取られる。土の流れが、錬金術の粘液に引っ張られていく。壁の上を青白い線が走り、壌竜の作った泥の壁そのものが、別の反応の素材にされかけていた。
「えへへ、そこも使えるんだ」
ライザの声が煙の向こうで弾む。
「地面に近いものなら、反応するかなって思ったんだけど……うん、するね!」
敵マスターが低く言う。
「調子に乗るな。相手は対応してくる」
「分かってるよ。だから次を作るの」
「だから、説明するな」
「全部は言ってないもん」
軽い。
会話だけ聞けば、いつもの調子で実験している少女だ。
けれど、現実には俺たちの足場が削られている。煙で視界を奪い、粘着液で動きを止め、金属片で追い込み、さらに壌竜の泥まで利用する。
好奇心で笑っている。
その好奇心が、容赦なく戦場を組み替えている。
「壌竜!」
俺が呼ぶと、壌竜は低く唸るように答えた。
「これは地ではない」
「え?」
「地に似せた偽の流れだ」
床の青白い光が、蜘蛛の巣みたいに広がっていく。
俺にはただの線にしか見えない。だが、壌竜はその下を見ている。配管。床材。素材。粉末。粘液。すべてが流れを持っているように見せかけられている。
本当の地脈ではない。
ライザが作った、地面のふりをした工房の回路。
「読ませるための流れか」
俺の口から言葉が落ちた。
ムジナが煙の中からこちらへ視線を寄越す。
「偽の地図ってこと?」
「たぶん。壌竜に読ませるために、地面っぽく組んである」
「性格悪いね」
「ライザ本人は、性格悪いと思ってないだろうな」
「そこが面倒」
ライザは本当に楽しそうだった。
壌竜が泥を動かせば、それを素材として観察する。こちらが防御すれば、次はその防御がどう反応するかを試す。工場にあるものも、俺たちの能力も、彼女の目には全部“調べる対象”として映っている。
敵マスターの青年が、ライザの後ろでこちらを見ている。
彼はライザほど笑っていない。スマホを握り、工場全体の反応を見ながら、時折短く指示を出す。
「ライザ、右の搬送ベルトはまだ使うな」
「え、でもあそこ面白そうだよ」
「今は温存しろ。壌竜がまだ床下を探っている」
「……分かった」
ライザが少しだけ口を尖らせた。
だが、素直にフラスコを持つ手を下げた。
あの青年の言葉には、反応する。
振り回しているように見えて、完全に無視しているわけじゃない。
俺はそれを頭の隅に置いた。
今は、まず戦場だ。
「ライザの戦闘方法は、道具を使うことだけじゃない」
俺はスマホを握りながら言った。
「この場所を素材にしている。工場そのものを調合の一部にしてるんだ」
壌竜が、床に置いた掌へ力を込める。
「現場を素材化する者か」
「ああ。だから表面の流れを読むと、ライザが作った偽物を掴まされる」
「ならば、さらに下だ」
壌竜が目を閉じた。
床の青白い光が再び強まる。
ライザがその動きに気づき、ぱっと表情を明るくした。
「あ、また潜る? じゃあ、こっちも深めに混ぜてみようかな!」
「ライザ」
敵マスターが短く呼ぶ。
「大丈夫。今度はちゃんと様子を見るって」
「様子を見ると言いながら爆発させるな」
「爆発は結果であって目的じゃないよ」
「その言い方が一番信用できない」
ライザは小瓶を投げた。
床に落ちた瞬間、青白い粉が一気に燃えるように光る。偽の流れが再起動する。今度は細い糸ではなく、太い鎖のように床下を走り、壌竜の手首へ絡みつこうとした。
泥が動く。
だが、壌竜はそれを払わなかった。
動かない。
「壌竜!?」
デルタが叫ぶ。
壌竜は答えない。
青白い鎖が彼の腕を包む。床に膝をついた彼の身体が、一瞬だけ沈む。コンクリートが軋み、背中に重い圧がかかったように見えた。
織姫が今度こそ手を上げる。
「三天――」
「待て」
壌竜の声が、さっきより低く響いた。
織姫は止まった。
けれど、指先は震えていた。盾を出したくてたまらない手だ。それでも、彼女は壌竜の声を聞いた。
壌竜は、動かないまま掌を床に叩きつけた。
鈍い音。
それは工場の音ではなかった。
もっと下。
床材でも、配管でも、錬金術の粉でもない。コンクリートの下に眠っていた本来の地面が、深く喉を鳴らしたような音だった。
青白い鎖が揺らぐ。
壌竜の足元から、鈍い土色の脈動が浮かんだ。
それは派手な光ではない。
むしろ、青白い錬金術の輝きの中では地味に見える。けれど、その鈍い色が走った瞬間、床の模様が一部だけ乱れた。
蜘蛛の巣に、太い根が食い込む。
そんな光景だった。
「……掴んだ」
壌竜が呟く。
ライザが目を見開いた。
「え、今の……下の層?」
敵マスターの青年が一歩前に出る。
「ライザ、下がれ」
「待って、今のすごい。表層の反応じゃない。もっと下から――」
「下がれ」
その声は、さっきまでより強かった。
ライザの肩が少し跳ねる。
彼女はフラスコを握り直し、一歩だけ下がった。
壌竜が立ち上がる。
腕に絡んでいた青白い鎖が、土色の脈動に押されてほどけていく。床に広がった錬金術の線が、ところどころ寸断される。
デルタの足元の粘液が緩んだ。
「動けるです!」
エリスが粘液を斬り払い、前に出る。
「やっと足場が戻ったわね」
「完全ではありません」
バーゲストが金属片を弾きながら言う。
「ですが、流れが変わりました」
壌竜が片足を踏みしめる。
床が隆起した。
泥と砕けたコンクリートが混ざり、土壁が立ち上がる。さっきの泥壁とは違う。表面だけではない。床の下から押し上げられた重さがある。
土壁が粘着液と金属片の連鎖を分断した。
配管から走っていた青い液体の流れが止まる。搬送ベルトの下の素材片が反応しきれず、床の上でぱちぱちと火花だけを散らした。
ライザは驚いた顔をしていた。
けれど、すぐに笑った。
「すごい! 錬金術式ごと押し返したんじゃなくて、下から地面を戻したんだ!」
「工房に変えた床を、地へ戻しただけだ」
壌竜の声は揺れない。
ライザは腰のポーチから新しい素材瓶を取り出した。
「じゃあ、次はもっと深く混ぜるね」
「ライザ、無茶はするな」
敵マスターが警告する。
「分かってる。壊すんじゃなくて、混ぜるの」
「それが危ないと言っている」
「でも、あの人相手に浅い調合じゃ意味ないよ」
ライザの目は壌竜を見ていた。
好奇心。
警戒。
戦意。
その全部が、同じ瞳の中で混ざっている。
壌竜は一歩前へ出た。
「地の底は浅くない」
床が低く鳴る。
錆びた工場の壁が、その音を受けて震えた。
青白い錬金術の光は、まだ消えていない。土色の脈動も、まだ廃工場全体を取り戻したわけではない。
けれど、さっきまで工房の腹の中に飲まれていた足場が、一部だけ俺たちの下へ戻ってきた。
俺はスマホを見る。
MEDESの文字はまだ冷たいままだ。
――BATTLE CONDITION:FIELD ALCHEMY
フィールドアルケミー。
戦場そのものを素材にする錬金術。
だが、素材にされる前から、そこには地面がある。
壌竜はそれを掴んだ。
まだ勝ってはいない。
ライザも止まっていない。
むしろ、彼女は今まで以上に目を輝かせている。
けれど、廃工場の床下で、鈍い土色の鼓動が確かに鳴り始めていた。
この場所は、まだ完全な工房じゃない。
ここは、まだ地だ。