※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

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深層調合

 ライザが新しい素材瓶を手に取った瞬間、工場の空気が変わった。

 

 青白い光は、もう床の表面だけを走っていない。

 

 錆びた床のひび割れに染み込むように、奥へ、奥へと沈んでいく。配管の中で跳ねていた液体の音が、今度は床下から聞こえた。水音に似ている。けれど、もっと粘ついていて、薬品の甘い匂いを連れてくる音だった。

 

「じゃあ次は、もっと深く混ぜるね」

 

 ライザは楽しそうに言った。

 

 その声だけなら、料理に隠し味を足すみたいだった。

 

 けれど、彼女の足元では廃工場の床が鳴っている。錆びた柱が低く震え、天井から古い埃が落ちた。ぱらぱらと降るそれは、雪ほど綺麗じゃない。灰に似た粒が、青白い光に照らされて舞う。

 

 敵マスターの青年が、短く声を飛ばした。

 

「ライザ、無茶はするな」

 

「分かってる。今度は壊すんじゃなくて、混ぜるの」

 

「その二つは、紙一重だ」

 

「うん。だから面白いんだよ」

 

「面白いで済ませるな」

 

 青年の声が硬い。

 

 ライザは一瞬だけそちらを見た。唇を尖らせるでもなく、笑って誤魔化すでもなく、手の中の瓶を胸の近くへ寄せる。

 

「大丈夫。見てるから」

 

「何を」

 

「全部」

 

 ライザは床へ瓶を落とした。

 

 割れる。

 

 中の液体が、青白い火みたいに広がった。

 

 光は床の上を走らなかった。

 

 沈んだ。

 

 コンクリートの奥へ、配管の下へ、工場の基礎へ。見えない場所へ潜り込む光を、壌竜だけが目で追っているように見えた。

 

 彼はしゃがみ、掌を床へ置いた。

 

 その背中が、さっきよりも重く見えた。

 

「来る」

 

 壌竜の声が落ちる。

 

 次の瞬間、床が波打った。

 

「うわっ!?」

 

 足元が斜めに沈む。

 

 デルタが爪を立てるように床を掴み、エリスが剣を支えに姿勢を戻す。バーゲストが織姫の前に半歩出た。俺も踏ん張ろうとしたが、靴裏の感覚が一瞬消える。

 

 床が下に抜ける。

 

 そう思った瞬間、壌竜が片足を踏みしめた。

 

 鈍い音が、地面の奥から返る。

 

 沈みかけた床が止まった。

 

 だが、止まっただけだ。水平には戻らない。工場全体が斜めに傾いたまま、ぎしぎしと鳴っている。

 

「地盤そのものを混ぜてきたか」

 

 壌竜の掌の周りから、土色の脈動が広がる。

 

 それにぶつかるように、青白い錬金術式が床下で光った。

 

 表面では見えない。

 

 けれど、床の隙間から漏れる二つの色が、互いに押し合っているのは分かった。

 

「深いところまで入った!」

 

 ライザが声を上げる。

 

 目は輝いている。

 

 だが、その足はさっきより少しだけ後ろへ引かれていた。彼女自身も、反応の強さを見ている。

 

「ライザ、制御を戻せ」

 

 青年が言う。

 

「戻す前に、どこまで届くか見たい」

 

「戻せ」

 

「……分かった。少しだけ」

 

「少しだけではない」

 

「じゃあ、ちゃんと」

 

 ライザは別の小瓶を取り出す。

 

 そのやり取りの間にも、床は軋み続けていた。

 

 織姫の手が上がる。

 

 胸の前で、光の花弁が開きかけた。

 

「三天――」

 

「待て」

 

 壌竜の声が重なった。

 

 織姫の指が止まる。

 

 開きかけた光が、完全には形にならずに揺れた。彼女は壌竜を見る。俺も壌竜を見る。

 

 彼は振り返らない。

 

 ただ、背中越しにもう一度言った。

 

「まだ、張るな」

 

 織姫の喉が小さく動いた。

 

 指先は震えている。光の花弁は、彼女の手元でまだ微かに浮かんでいた。出せる。今すぐ出せる。たぶん、出した方が彼女には楽だ。

 

 けれど、織姫は手を止めたままだった。

 

 壌竜の足元から、土色の脈動が強くなる。

 

 床の下で何かが持ち上がる。沈みかけていた足場が、下から押されるように固定された。工場の歪んだ床が、わずかに水平へ戻る。

 

 その瞬間、天井から砕けたコンクリート片が降ってきた。

 

 織姫の手が動く。

 

「三天結盾」

 

 今度は、広くは張らなかった。

 

 俺たち全員を包む盾ではない。

 

 降ってきた破片だけを、狭く拒絶する小さな盾。

 

 光の面が一瞬だけ開き、コンクリート片が空中で止まる。触れる前に、進むことをやめたみたいに落ちた。

 

 織姫はすぐに盾を消した。

 

 壌竜の土色の脈動は乱れていない。

 

 彼女は壌竜の背を見たまま、手を下ろした。

 

「……」

 

 何も言わない。

 

 でも、さっきより呼吸が深かった。

 

「いい判断です」

 

 バーゲストが短く言った。

 

 織姫は返事をしない。

 

 ただ、小さく頷く。

 

 その横で、エリスが剣を構え直した。

 

「待つって、結構難しいのね」

 

 ムジナが煙の薄くなった場所で呟く。

 

「ムジナが言うです?」

 

「私、待つのは得意だよ。やる気がないから」

 

「それは違う待つです」

 

「分類が細かい」

 

 デルタが床に爪を立てたまま、尻尾を逆立てている。

 

 俺はスマホを見る。

 

 画面にはまだ、冷たい文字が残っていた。

 

 ――BATTLE CONDITION:FIELD ALCHEMY

 

 フィールドアルケミー。

 

 ただの罠じゃない。道具でもない。ライザは工場を見ている。床も、配管も、地下水も、錆びた柱も、素材として扱っている。

 

 そして今、彼女は“場所”だけではなく“場所の下”に手を伸ばした。

 

「ライザは、現場を素材化している」

 

 俺は声に出した。

 

 壌竜の肩がわずかに動く。

 

「現場を、か」

 

「ああ。見えているものだけじゃない。工場そのもの、足場、地下水、地盤まで調合の材料にしている」

 

「ならば、調合の根がある」

 

 壌竜は床に置いた掌へ力を込めた。

 

「根を探す」

 

 その直後だった。

 

 壌竜が押し返した土色の脈動が、青白い錬金術式を逆流させた。

 

 光が跳ねる。

 

 俺たちの足元ではない。

 

 後方。

 

 ライザのさらに後ろ。

 

 敵マスターの青年が立っている場所へ、青白い線が一直線に走った。

 

「っ」

 

 青年がスマホを構える。

 

 だが、その前にライザが動いた。

 

 速かった。

 

 さっきまで床や壌竜を見ていた目が、弾かれたように青年へ向く。足音が鉄床を叩く。青白い光より先に、彼女はマスターの前へ滑り込んだ。

 

「ライザ!」

 

「動かないで!」

 

 ライザの声が、初めて短く尖った。

 

 彼女は腰のポーチから小瓶を抜き、床へ叩きつける。淡い琥珀色の膜が広がった。逆流した青白い光がその膜にぶつかり、弾ける。

 

 工場の床に、眩しい火花が散った。

 

 青年は眉を寄せる。

 

「自分を見るな、敵を見ろ」

 

「見てる」

 

「俺を見ていた」

 

「見えてたから動いたの」

 

「ライザ」

 

「大丈夫だから」

 

 ライザは振り返らない。

 

 背中だけが見える。

 

 手は震えていない。けれど、瓶を握る指は深く食い込んでいた。

 

 俺は、その一瞬を見逃せなかった。

 

 好奇心で走る時とは違う。

 

 壌竜を見て目を輝かせた時とも違う。

 

 マスターへ光が向いた瞬間、彼女の足は迷わずそちらへ向いた。

 

 ムジナが、こちらをちらりと見た。

 

 俺は小さく頷いた。

 

 今は言葉にしない。

 

 でも、刻んでおく。

 

 ライザは、マスターへの危険に反応が変わる。

 

 MEDESの問いはまだ出ていない。

 

 けれど、答えになりそうなものは、戦場の中に落ちている。

 

「壌竜」

 

「ああ」

 

 壌竜は短く返す。

 

 彼も、その隙を逃さなかった。

 

 ライザが防護薬で逆流を弾いたことで、青白い式の流れに一瞬だけ空白ができる。壌竜の土色の脈動が、その隙間へ入り込んだ。

 

 床下で低い音が鳴る。

 

 遠雷みたいな音だった。

 

 だが、空はない。

 

 この音は地の奥から来ている。

 

 壌竜は掌を床から離さず、ゆっくり立ち上がった。

 

 手のひらが離れる寸前、床の奥から土色の柱が突き上がった。

 

 一本ではない。

 

 二本、三本、さらに奥へ。

 

 沈みかけていた足場の下から、柱状の土壁が隆起し、工場の床を押し支える。砕けたコンクリートと湿った土が混ざり、錆びた鉄骨を巻き込んで固定する。

 

「足場が戻るです!」

 

 デルタが跳ねる。

 

「跳ねるな。まだ揺れてる」

 

 エリスが即座に止めた。

 

「分かってるです! ちょっとだけです!」

 

「ちょっとも駄目」

 

「エリスは厳しいです」

 

「今の床で跳ねる方が悪い」

 

 バーゲストが前へ出て、剣を構える。

 

「態勢を立て直せます」

 

 ルプスレギナが笑った。

 

「うふふー。ようやく足元が信用できるようになりましたねぇ」

 

「完全ではない」

 

 壌竜が言う。

 

 彼の足元では、まだ青白い光が残っている。ライザの調合は止まっていない。ただ、さっきまで廃工場の奥へ好き勝手に伸びていた根が、壌竜の土色の柱によっていくつか断ち切られていた。

 

 ライザは振り返った。

 

 防護薬の光が消え、彼女の後ろで青年が無事に立っている。

 

 ライザはそれを一度だけ確認してから、壌竜を見る。

 

 息が少し上がっていた。

 

 でも、目はまた輝き始めている。

 

「すごい……支えたんじゃなくて、足場を作り替えたんだ」

 

「崩れる地を、踏める地に戻しただけだ」

 

 壌竜は前へ出る。

 

 土色の柱が、その一歩に合わせて低く鳴った。

 

「じゃあ次は、もっと慎重に混ぜる」

 

 ライザが新しい素材瓶を手に取る。

 

 青年の手が、彼女の肩の近くで止まった。

 

 触れない。

 

 止めようとして、止めきらない距離。

 

「ライザ」

 

「分かってる。今度は、あなたの方に流さない」

 

「俺の話だけじゃない」

 

「うん。工場も壊しすぎない」

 

「……本当に分かっているのか」

 

「たぶん」

 

「たぶんで準決勝をやるな」

 

 ライザは少しだけ笑った。

 

 さっきの眩しい笑いではない。

 

 口元だけの、小さな笑い。

 

「でも、勝つにはやるしかないでしょ?」

 

 青年は答えなかった。

 

 ただ、彼女の肩の近くで止まっていた手を下ろす。

 

 ライザは前を向いた。

 

 壌竜もまた、前を向く。

 

「地の底は、まだ遠い」

 

 壌竜の声が、廃工場の奥へ沈む。

 

 青白い錬金術の光が、再び床下で脈打った。

 

 それに応じるように、土色の柱が低く震える。

 

 ここはもう、ただの廃工場ではない。

 

 ライザにとっては工房。

 

 壌竜にとっては地。

 

 その二つが、同じ床の下で押し合っている。

 

 俺はスマホを握る。

 

 まだ問いは表示されていない。

 

 けれど、見るべきものは増えた。

 

 ライザの戦闘方法。

 

 彼女の調合の根。

 

 そして、マスターへ光が向いた瞬間の、あの一歩。

 

 準決勝は、まだ終わらない。

 

 むしろ、ここからだ。

 

 壌竜が作った足場の上で、俺たちはようやく立ち直った。

 

 ライザは瓶を掲げる。

 

 壌竜は掌を開き、地の奥へもう一度意識を沈める。

 

 廃工場の床が、二つの鼓動に挟まれて軋んだ。

 

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