ライザが新しい素材瓶を手に取った瞬間、工場の空気が変わった。
青白い光は、もう床の表面だけを走っていない。
錆びた床のひび割れに染み込むように、奥へ、奥へと沈んでいく。配管の中で跳ねていた液体の音が、今度は床下から聞こえた。水音に似ている。けれど、もっと粘ついていて、薬品の甘い匂いを連れてくる音だった。
「じゃあ次は、もっと深く混ぜるね」
ライザは楽しそうに言った。
その声だけなら、料理に隠し味を足すみたいだった。
けれど、彼女の足元では廃工場の床が鳴っている。錆びた柱が低く震え、天井から古い埃が落ちた。ぱらぱらと降るそれは、雪ほど綺麗じゃない。灰に似た粒が、青白い光に照らされて舞う。
敵マスターの青年が、短く声を飛ばした。
「ライザ、無茶はするな」
「分かってる。今度は壊すんじゃなくて、混ぜるの」
「その二つは、紙一重だ」
「うん。だから面白いんだよ」
「面白いで済ませるな」
青年の声が硬い。
ライザは一瞬だけそちらを見た。唇を尖らせるでもなく、笑って誤魔化すでもなく、手の中の瓶を胸の近くへ寄せる。
「大丈夫。見てるから」
「何を」
「全部」
ライザは床へ瓶を落とした。
割れる。
中の液体が、青白い火みたいに広がった。
光は床の上を走らなかった。
沈んだ。
コンクリートの奥へ、配管の下へ、工場の基礎へ。見えない場所へ潜り込む光を、壌竜だけが目で追っているように見えた。
彼はしゃがみ、掌を床へ置いた。
その背中が、さっきよりも重く見えた。
「来る」
壌竜の声が落ちる。
次の瞬間、床が波打った。
「うわっ!?」
足元が斜めに沈む。
デルタが爪を立てるように床を掴み、エリスが剣を支えに姿勢を戻す。バーゲストが織姫の前に半歩出た。俺も踏ん張ろうとしたが、靴裏の感覚が一瞬消える。
床が下に抜ける。
そう思った瞬間、壌竜が片足を踏みしめた。
鈍い音が、地面の奥から返る。
沈みかけた床が止まった。
だが、止まっただけだ。水平には戻らない。工場全体が斜めに傾いたまま、ぎしぎしと鳴っている。
「地盤そのものを混ぜてきたか」
壌竜の掌の周りから、土色の脈動が広がる。
それにぶつかるように、青白い錬金術式が床下で光った。
表面では見えない。
けれど、床の隙間から漏れる二つの色が、互いに押し合っているのは分かった。
「深いところまで入った!」
ライザが声を上げる。
目は輝いている。
だが、その足はさっきより少しだけ後ろへ引かれていた。彼女自身も、反応の強さを見ている。
「ライザ、制御を戻せ」
青年が言う。
「戻す前に、どこまで届くか見たい」
「戻せ」
「……分かった。少しだけ」
「少しだけではない」
「じゃあ、ちゃんと」
ライザは別の小瓶を取り出す。
そのやり取りの間にも、床は軋み続けていた。
織姫の手が上がる。
胸の前で、光の花弁が開きかけた。
「三天――」
「待て」
壌竜の声が重なった。
織姫の指が止まる。
開きかけた光が、完全には形にならずに揺れた。彼女は壌竜を見る。俺も壌竜を見る。
彼は振り返らない。
ただ、背中越しにもう一度言った。
「まだ、張るな」
織姫の喉が小さく動いた。
指先は震えている。光の花弁は、彼女の手元でまだ微かに浮かんでいた。出せる。今すぐ出せる。たぶん、出した方が彼女には楽だ。
けれど、織姫は手を止めたままだった。
壌竜の足元から、土色の脈動が強くなる。
床の下で何かが持ち上がる。沈みかけていた足場が、下から押されるように固定された。工場の歪んだ床が、わずかに水平へ戻る。
その瞬間、天井から砕けたコンクリート片が降ってきた。
織姫の手が動く。
「三天結盾」
今度は、広くは張らなかった。
俺たち全員を包む盾ではない。
降ってきた破片だけを、狭く拒絶する小さな盾。
光の面が一瞬だけ開き、コンクリート片が空中で止まる。触れる前に、進むことをやめたみたいに落ちた。
織姫はすぐに盾を消した。
壌竜の土色の脈動は乱れていない。
彼女は壌竜の背を見たまま、手を下ろした。
「……」
何も言わない。
でも、さっきより呼吸が深かった。
「いい判断です」
バーゲストが短く言った。
織姫は返事をしない。
ただ、小さく頷く。
その横で、エリスが剣を構え直した。
「待つって、結構難しいのね」
ムジナが煙の薄くなった場所で呟く。
「ムジナが言うです?」
「私、待つのは得意だよ。やる気がないから」
「それは違う待つです」
「分類が細かい」
デルタが床に爪を立てたまま、尻尾を逆立てている。
俺はスマホを見る。
画面にはまだ、冷たい文字が残っていた。
――BATTLE CONDITION:FIELD ALCHEMY
フィールドアルケミー。
ただの罠じゃない。道具でもない。ライザは工場を見ている。床も、配管も、地下水も、錆びた柱も、素材として扱っている。
そして今、彼女は“場所”だけではなく“場所の下”に手を伸ばした。
「ライザは、現場を素材化している」
俺は声に出した。
壌竜の肩がわずかに動く。
「現場を、か」
「ああ。見えているものだけじゃない。工場そのもの、足場、地下水、地盤まで調合の材料にしている」
「ならば、調合の根がある」
壌竜は床に置いた掌へ力を込めた。
「根を探す」
その直後だった。
壌竜が押し返した土色の脈動が、青白い錬金術式を逆流させた。
光が跳ねる。
俺たちの足元ではない。
後方。
ライザのさらに後ろ。
敵マスターの青年が立っている場所へ、青白い線が一直線に走った。
「っ」
青年がスマホを構える。
だが、その前にライザが動いた。
速かった。
さっきまで床や壌竜を見ていた目が、弾かれたように青年へ向く。足音が鉄床を叩く。青白い光より先に、彼女はマスターの前へ滑り込んだ。
「ライザ!」
「動かないで!」
ライザの声が、初めて短く尖った。
彼女は腰のポーチから小瓶を抜き、床へ叩きつける。淡い琥珀色の膜が広がった。逆流した青白い光がその膜にぶつかり、弾ける。
工場の床に、眩しい火花が散った。
青年は眉を寄せる。
「自分を見るな、敵を見ろ」
「見てる」
「俺を見ていた」
「見えてたから動いたの」
「ライザ」
「大丈夫だから」
ライザは振り返らない。
背中だけが見える。
手は震えていない。けれど、瓶を握る指は深く食い込んでいた。
俺は、その一瞬を見逃せなかった。
好奇心で走る時とは違う。
壌竜を見て目を輝かせた時とも違う。
マスターへ光が向いた瞬間、彼女の足は迷わずそちらへ向いた。
ムジナが、こちらをちらりと見た。
俺は小さく頷いた。
今は言葉にしない。
でも、刻んでおく。
ライザは、マスターへの危険に反応が変わる。
MEDESの問いはまだ出ていない。
けれど、答えになりそうなものは、戦場の中に落ちている。
「壌竜」
「ああ」
壌竜は短く返す。
彼も、その隙を逃さなかった。
ライザが防護薬で逆流を弾いたことで、青白い式の流れに一瞬だけ空白ができる。壌竜の土色の脈動が、その隙間へ入り込んだ。
床下で低い音が鳴る。
遠雷みたいな音だった。
だが、空はない。
この音は地の奥から来ている。
壌竜は掌を床から離さず、ゆっくり立ち上がった。
手のひらが離れる寸前、床の奥から土色の柱が突き上がった。
一本ではない。
二本、三本、さらに奥へ。
沈みかけていた足場の下から、柱状の土壁が隆起し、工場の床を押し支える。砕けたコンクリートと湿った土が混ざり、錆びた鉄骨を巻き込んで固定する。
「足場が戻るです!」
デルタが跳ねる。
「跳ねるな。まだ揺れてる」
エリスが即座に止めた。
「分かってるです! ちょっとだけです!」
「ちょっとも駄目」
「エリスは厳しいです」
「今の床で跳ねる方が悪い」
バーゲストが前へ出て、剣を構える。
「態勢を立て直せます」
ルプスレギナが笑った。
「うふふー。ようやく足元が信用できるようになりましたねぇ」
「完全ではない」
壌竜が言う。
彼の足元では、まだ青白い光が残っている。ライザの調合は止まっていない。ただ、さっきまで廃工場の奥へ好き勝手に伸びていた根が、壌竜の土色の柱によっていくつか断ち切られていた。
ライザは振り返った。
防護薬の光が消え、彼女の後ろで青年が無事に立っている。
ライザはそれを一度だけ確認してから、壌竜を見る。
息が少し上がっていた。
でも、目はまた輝き始めている。
「すごい……支えたんじゃなくて、足場を作り替えたんだ」
「崩れる地を、踏める地に戻しただけだ」
壌竜は前へ出る。
土色の柱が、その一歩に合わせて低く鳴った。
「じゃあ次は、もっと慎重に混ぜる」
ライザが新しい素材瓶を手に取る。
青年の手が、彼女の肩の近くで止まった。
触れない。
止めようとして、止めきらない距離。
「ライザ」
「分かってる。今度は、あなたの方に流さない」
「俺の話だけじゃない」
「うん。工場も壊しすぎない」
「……本当に分かっているのか」
「たぶん」
「たぶんで準決勝をやるな」
ライザは少しだけ笑った。
さっきの眩しい笑いではない。
口元だけの、小さな笑い。
「でも、勝つにはやるしかないでしょ?」
青年は答えなかった。
ただ、彼女の肩の近くで止まっていた手を下ろす。
ライザは前を向いた。
壌竜もまた、前を向く。
「地の底は、まだ遠い」
壌竜の声が、廃工場の奥へ沈む。
青白い錬金術の光が、再び床下で脈打った。
それに応じるように、土色の柱が低く震える。
ここはもう、ただの廃工場ではない。
ライザにとっては工房。
壌竜にとっては地。
その二つが、同じ床の下で押し合っている。
俺はスマホを握る。
まだ問いは表示されていない。
けれど、見るべきものは増えた。
ライザの戦闘方法。
彼女の調合の根。
そして、マスターへ光が向いた瞬間の、あの一歩。
準決勝は、まだ終わらない。
むしろ、ここからだ。
壌竜が作った足場の上で、俺たちはようやく立ち直った。
ライザは瓶を掲げる。
壌竜は掌を開き、地の奥へもう一度意識を沈める。
廃工場の床が、二つの鼓動に挟まれて軋んだ。